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「車がない」という状況で、急にあん餅が食べたくなったとき。

先日のことですが、まる3日間「車がない」という状況で過ごしたことがありました。

地方では「車がない」ことは死活問題。

いわゆる「まち」で暮らしている私の自宅から、近くのスーパーまでは歩いて20分ほど。買い物の重い荷物を持って帰ることを考えると、なかなか徒歩で…とはいきません。
加えて、歩くのがそんなに好きではない私は、普段からちょっと外出するのも車を使っています。
病院もドラッグストアも、畑も、車がないと行けません。

そんな私にとって「車がない」というのはイコール「ひきこもる」ということで、それはそれで「よし、家じゅうを掃除しよう」「久しぶりにパンを焼くかな」などと楽しみにしていたのでした。

ところが1日めが終わる頃、突如としてある欲求が頭をもたげたのです。

「…あん餅が食べたい!」

あまーいあんこがたっぷり入った、背徳感すら感じるようなあん餅が食べたい。

思えば先週末、久しぶりに出かけた道の駅で、いつもお世話になっている雲南市の「うすの会」さんのあん餅が売られていたのです。

「食べたいな」と思ったものの、「6個入り」だったために諦めたのでした。だって2人暮らしで6個入りなんて食べきれないじゃないですか。
「うすの会さん、2個入りを作ってくれたらいいのに」と帰りの車の中でオットと話したのも覚えています。

多分その時から私の頭の中には「あん餅」が住み着いてしまっていたのでしょう。

もやっとした気持ちを抱えて翌朝を迎え、「あん餅」への思いは私の中でより強くなり、夜明けに犬の散歩をしながら「こうなったら歩いて買いに行こう」と決意するに至りました。

歩いて20分くらいのところにあるスーパーに和菓子屋さんのおまんじゅうが売っていたはず。
なんならもうちょっと歩いたらコンビニもあるから、大福なんかも買えるだろう。

そう思ったのですが、いやでも待てよ。

私が食べたいのは「あん餅」であり、上品なおまんじゅうや甘さ控えめの大福ではないのだ!ということにはたと気づいてしまったのです。

そうなるともう、あん餅しか食べたくない。

大判焼きでもない、おはぎでもない、私が食べたいのはあまーいあんこのあん餅なのだ!と、欲求はさらにエスカレート。

そこで私、ふと思い出しました。

冷蔵庫に「あんペースト」があったことを。

賞味期限が切れていたものの、「いけるんじゃね?」と捨てきれずに冷蔵庫のドアポケットに入れっぱなしにしていたことを。

そして、冷凍庫に冬からずっと入れっぱなしのお餅が2つ、あったことを。
カチカチだけど、「鍋に入れたらまだいけるな…」とそのままにしていたのでした。

がさつな性格&こないだ冷蔵庫の大掃除をしたときに捨てなかった私、偉い!

そう、あんことお餅があれば「あん餅」作れちゃうじゃないか!

というわけでさっそく調理。
あんペーストはおしゃれな瓶に入っていて甘さ控えめ、お餅に入れるにはサラサラ過ぎたので、鍋に入れて砂糖と塩を加え(あん餅のあんこってちょっと塩気があるのがポイントですよね)、弱火でコトコト、水気を飛ばします。

お餅は水を加えてレンチンし、打ち粉をしたまな板で薄くのばして、あんこを包めばほら、あん餅のできあがり!

…ちょっと、いやかなり不格好になりましたが、トースターで焼いて香ばしくなったお餅はめちゃくちゃおいしく、あんこもたっぷり、まさに背徳的な甘さで(砂糖加えたからね)、幸せでした。

めでたし、めでたし…ではあるのですが。

今回はたまたま、私のガサツな性格のために食材が家にあったから欲求は満たされたわけですが、「車がない」状況でこんな風に突発的に「あれが食べたいな」「これが買いたいな」と思ったとき、果たしてどうしたらいいのでしょうか。

タクシーで行くほどのことでもないし、誰かに「買って来てよ」とお願いするのも申し訳なさすぎるし、ああ、歳を重ねて私がいつか運転できなくなったとき、やわらかいあん餅を食べることはできなくなるのかなあ…と思うと、やりきれない気持ちになったのです。

まちで暮らしている私がそうなのだから、山間部などより「田舎」で暮らす人にとっては、「あれが食べたいな」というささやかな願いがすぐには叶えられないのが日常なのだ、という現実を、あらためて実感することになったのでした。

もちろん、中山間地域でも「買い物難民をなくす」ためのいろいろな活動が行われています。普段のお料理の食材を運んでくれる移動販売車もありますし、週末に家族に運転してもらって都市部の大型スーパーでまとめ買いをする、という方も多いと聞きました。

でも、先日の私のように、ふと「ああ、食べたい…」と思うような突発的な状況って、よくあるじゃないですか。

テレビを観ている時とか、思い出話をしている時とか、ふと「あ~あれ食べたいな!」と思う。それってすごく素直でまっすぐな欲求だと思うのです。

でも、そんなときに「よっしゃ行くか!」ということができない、というのは、大げさに言えば、生きる上での欲望や願いを「諦める」ということになってしまうわけです。

そうやって少しずつ「まあ、無理か」「仕方ないね」「これで我慢しよう」と、諦めることを積み重ね、選択肢を狭め、100点満点のものを望めなくなっていくのかなあ…。

実家では高齢の親がいまだに車を運転していて、我が家の最大の懸案事項なのですが、「危ないからやめて」というのと「でも、車がないとどこにも行けない=楽しみが極端に減る」というのはいつも表裏一体。両立させることが難しくて、本当に悩みの種です。

楽しく歳を重ねる…口で言うのは簡単だけど、いかに「狭められた選択肢の中で100点満点の喜びを得るか」というのは、たやすいことではないのだなあ…。

それは移動販売車とかAmazonとかでは解決しづらい問題で、結局は「諦める」ことに慣れていくのかな、と、あらためて考えさせられました。

とはいえ、「あれがないならこれでいけるかも」と解決策を探るというのもまた、楽しいことではあるのですが。

自分自身にどう折り合いをつけ、機嫌を取って生きていくのか、というのも、歳を重ねるうえでの課題なのでしょうね。


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