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京都の入れ子構造 その一

1591年、豊臣秀吉の愛児、鶴松がわずか3歳で夭折すると、秀吉はその菩提を弔うために京都東山の地に祥雲寺を建立しました。その客殿を飾るふすま絵を、当時、新興の絵師集団であった長谷川等伯が率いる長谷川派一門が受注しました。その頃、そのような大きなプロジェクトを担っていたのは、狩野永徳が率いる狩野派だったので、異例の抜擢でした。等伯らによるふすま絵は、それだけ、子を亡くした秀吉の悲しみを捉えた作品だったのでしょう。

しかしチャンスを掴みかけた等伯にも悲劇が襲います。ふすま絵が完成した矢先、息子の久藏が26歳の若さで急死してしまいます。祥雲寺は豊臣家が滅亡すると、徳川幕府より智積院(ちしゃくいん)に下賜され、現在に至っています。長谷川父子のふすま絵も智積院に引き継がれ、今に伝えられています。

京都の東側を縦走する京阪電車の七条駅を降り、七条通を東に向かうと、通りの両側に国立京都博物館と三十三間堂の偉容が見えてきます。さらに進むとT字路になっていて、正面に智積院があります。

長谷川父子のふすま絵は、智積院の宝物館で常時展示されています。宝物館に入ると、左手に等伯のふすま絵「楓図」が、右手に久蔵のふすま絵「桜図」が並んで展示されています。両作品とも国宝に指定されており、親子で国宝になったのは、日本史上、長谷川父子だけです。

等伯の「楓図」は、巨大な楓の老木が、不自然に長く右方向に枝を伸ばしています。伸びた枝は、「どうしてだ・・」と運命を呪う秀吉の心の叫びを表していると、私には思えました。紅葉した楓の根元には、揺れる秋草が写実的に描かれ、もの悲しさをかき立てます。抽象的に描かれた紺青の流水は黄泉の世界を暗示しているのでしょうか。最高権力者であっても、子の運命をどうすることもできなかった、豊臣秀吉の二面性を描いているのかもしれません。

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長谷川 等伯・筆「楓図」16世紀*

久蔵の「桜図」は、大きく左右に張り出した細い枝に大輪の花が咲き誇っています。花は図案化されていますが、花びらが顔料でふっくらと浮き上がり、実に瑞々しい実在感があります。金箔の雲海に覆われた余白が、ゆったりとした広がりを与えます。全体が繊細かつ優美で、生命感を感じます。きっと秀吉の心を和らげたのだと思います。

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長谷川 久藏・筆「桜図」16世紀**

今ここを訪れて、この一対のふすま絵に対面する我々は、三重の入れ子構造を体験することになります。子を亡くした秀吉の悲しみと、それを思いやって表現した長谷川父子の創造物が、一重の入れ子構造になっています。それを描いた等伯自身が、後継者として期待していた息子を亡くした後に、「楓図」と「桜図」を前にするとき、悲しみは、二重の入れ子構造となって、抽象的に深められたに違いありません。

等伯の製作意欲は、その後も、72歳で亡くなるまで衰えることはありませんでした。そんな来歴を秘めた「楓図」と「桜図」を前にする現在の私たちは、400数十年余りの時を越えて、三重の入れ子構造を生み出す機会が与えられます。とりわけ、子を亡くした経験をもつ親にとっては、状況はそれぞれ違っても、秀吉、等伯に相通じる胸の疼きがあるはずです。

優れた芸術とその来歴とは、私たちの精神が意味づけできないでいた深い悲しみ・苦しみに意味を与え、ほっとした気持ちにしてくれる、媒介者となってくれます。

帰りは、東山を借景にした、利休好みの庭園をゆっくりと拝観して、帰途につきます。

(2019年4月15日)

図録「京都国立博物館120周年記念特別展覧会 国宝」より引用

(*「楓図」P134・135  **「桜図」P147・148)

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