政治的「中立」と「忖度」のはきちがえ

エッセイ294:政治的「中立」と「忖度」のはきちがえ

 政治的中立などというものはあるのだろうか?仙人のように、山奥で世捨て人をやっていても、いまどきは、年金などの問題もあるのでは?経済格差の上の方だから「世捨て」できるのでは?
 学者も、メディアも、今(衆議院選挙期間中)は静かだ。意見を表明する人々は立派だと思う。「色がつく」、つまり、政治的な傾向が知られる、レッテルを貼られるといわれることを嫌うあまり、自分の意見を言えなくなっている人々が多くなっているように感じるからだ。学生でさえ、政治の話題はかっこ悪くて、触れないのが常識のようだ。
 だが、中立などない。だいいち、まんなか、ってどこだ?本当に人生に責任を持つ者は、自分の意見を、党派や思想傾向を類推されることを怖れずに表明することができるのではないか?
 ただし、今はどこも「ブラック社会」。労働運動を怖れる経営者は社員の言動に敏感かもしれず、また、文科省が大学の授業の内容をチェックする時代だ。公立ならば、政府、私立ならば経営陣の考え方を気にせずに発言するのは難しいだろう。
 だから、自分の意見を言える人が立派。しかし、随分、思想的に不自由な国に成り下がってしまった。言論の自由が大切であることは、中国や香港情勢を見れば明らかなのに。まだ、手元にある自由を謳歌したいと思うのだが。
以上
2021年10月24日

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