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地方のコミュニティは窮屈

東京から千葉へ。
ひとり暮らしをしていたのは墨田区向島。
東京の東のほう、“下町”って言われるエリア。
向島が好きすぎて、16年もこの町にいた。

実家は千葉県袖ケ浦市。
開発されて40年くらいの住宅街。
人口が減少しているといわれている中で、微増だけど人口が増えている町ではある。

町の違いってなんだろうって考えてみる。
町を形成するのは、まず、人。
そこに暮らす人、働く人の数。
それと多様さ。(言葉が上滑りだけど)
そして、町並みを形成する家と店。
それらが織りなす景色。
それと、もともとその土地に根付く風土と文化。

今日は、かっこよく言うと「人」と「コミュニティ」について。

10代の頃から地元・袖ケ浦を出たかった。
窮屈で。
似たりよったりの家。
似たりよったりの車。
似たりよったりの服装。
似たりよったりの考え方。
学生時代、何かに対して異なる意見を言ったりすると「あの子ちょっと考え方が変わってる」ってつまはじきにされる。
仲良くしてると服の好みが似てくるのか、服の好みが似てる子同士が仲良くなるのか。
「あの子と仲良くするな」とか「あんなグループと関わるな」とか、大きなお世話だ。
話しやすかったり、優しかったり、面白かったり、好きな友達はいたけれど、「グループ」みたいな群れは気色悪くて、居心地が悪かった。

それと、縦割りコミュニティ
子供は子供同士、学生は学生同士、お年寄りはお年寄り同士、ママ友はママ友同士。
これがとにかくつまらない。
当時はそれが普通だったし、このモヤモヤが何かわからなかったけれど、「コミュニティが分断されてたんだな」って、墨田に暮らして気がついた。

墨田では、年代も職業も立場も越えて仲良くなった。
働くとは、社会とは、生きるとは、文化、海外情勢、日本の政治、暮らす町の未来、あらゆる話題が飛び交う。
10代の子からアプリのこと教わった。
恋愛指南は経験豊富な70代の女性から。
仕事や生活に刺激を与えてくれるのは50代の男性。
子育て中のママもいる。親の介護をしている人、大手企業に勤めている子、公務員、フリーランス、中小企業の社長さん、飲みの場ではお仕事の話一切しない人、リタイアして昼間も夜も飲んでる人。
もちろん同じステージ(?)の独身の同年代女性もいる。
肩書きとか関係なく全員が「近所の飲み友達」。

「考え方、違って普通」、これがものすごい心地よかった。
別に自分では変わってるつもりなんてないんだけど。
みんなが「俺なんて“普通”だよ」って言いながら、全員違うこと言ってたし。
社会の立ち位置、ライフステージによって異なる視点、価値観、なんでもごった混ぜで。
その考えに行き着くにはそれぞれの育った環境、体験が違うわけで。
合わせる必要ない」っていう空気がほんとに楽だった。
わからないことはわからないと言い、若い子からだろうが、年配からだろうが、詳しい人から教えてもらい。
感じたこと、思ったことを臆せず口にしても、受け入れてくれる器の人。
「ちょっと違う」くらいの人をいちいち排除してたら、自分が孤立するわ。

東京はとにかく人が多い。
良くも悪くも。
例えつまはじきにされても、合わないコミュニティから自ら抜けても、コミュニティの受け皿が他にもいくつもあるのがいい。

墨田で出会ったみんなはサッパリとしていて。
ある時飲み会に誘われて、うっかり「今日は気が向かないからパス」と断ってしまった。
あとから「しまった…他に言い方とか口実とかなかったか…」って反省。
地元だと、こんな断り方したら「あの子にこんなふうに言われた」って話になり、自分が不参加の席で言われ放題になる。
これまでのあれやこれやと悪口オンパレードになり、二度と声かからなくなったりするから。
それまで散々仲良くしてきた子でも、平気でその場にいない子の陰口を叩く。
「あの時もこんなこと言われた」「そういえば、こんなこともあった」って。
「その時はニコニコしてたはず…え、あの時、本当はそんなふうに思ってたんだ…」って、人間不信になりそうな場面をいくつも見てきて。
今ならわかる。
狭いコミュニティで生きていると、それくらいの話題しかない。
旦那さんとか身近な誰かのグチ、芸能界のゴシップとか。

墨田の友達に、あんな断り方をしてしまった3日後くらいに「今日は気向く~?」ってまた誘われて。
あ、あんな言い方しちゃったのに、ここは大丈夫なんだって。
どの会に参加しても、その場にいない人の陰口になることはない。
みんな、細かいこと気にしない性質なのか、「グチったって始まらない」っていう感じで。
誰かと誰かが合わないなら、その2人は無理に付き合う必要ない。
ただ、別に私はその人嫌いじゃないから、どっちとも付き合うよって自分で決められる。

もちろん、グチって発散できることがあることは知っている。
誰かに聞いてもらってスッキリする、みたいな。
「明日からまたはりきっていこう!」ってなるなら、私だって全然聞く。
前回と同じこと言ってる…っていう単なるグチは、浴びてて疲れる。
この線引きは感覚なので難しい。

「おんなじ」「似ている」人でたむろっていると考え方は豊かにならないし、刺激や学びがない。

ビッシリと家が建ち並び、人はたくさんいるはずなのに、車社会だからか墨田と違って歩いてる人がほとんどいない。
過疎地でもないのに、町に人の気配がないって不気味。
井戸端会議も見かけないし、いい感じの公園も無人。
野良猫も少ない。
袖ケ浦にも「退屈じゃ~」って思ってる人、いるかな。

墨田には人なつっこい人が多かった。
スーパーで商品を手に取ると「ちょっと、今日それ買うの?何作るつもり?ちょっとこっち来て」って知らないおばさん。
付いていくと、「今日はね、絶対こっち。だいたいね、お魚買うならここよりあっちの方が新鮮で美味しいのよ」みたいな。
ならばと「え、これどうやって食べるんですか?」って聞くと、「私はね…」って始まる。
しばらくしゃべっていると、「あら、久しぶり!」って別の知り合いを見つけて「じゃあね」でもなく、放置されたり。
なんだったんだ今の人…みたいなことがそこかしこで起きる。
こういうのをうっとうしいと思う人もいると思う。
田舎と違うところは、拒否すればほっといてくれるところ。
下町のおばちゃんは(たぶん)冷たくあしらわれることにも慣れていて、屁とも思わない。

道路にイスを出して、道ゆく人を眺めているお年寄りがいて。
前を通ると「おはよう」「行ってらっしゃい」「いいお天気ね」と、声かけてくる。
「おはようございます」とか「行ってきます」は返すとして、うっかり立ち止まってしまったりすると思いのほか長い時間つかまる。
切り上げにくい。
慣れてくると「今日は急いでるから、また今度」って言えるんだけど。
テレビを見ているよりも歩いている人を見る方が楽しいの」っていうことらしい。
足を止めてごめんなさいね、若い人と話せて嬉しかったわ」とか言われると、「え?若い人って誰?私?」って、1日いい気分で過ごせたりする。
そうか、軒下で光合成しているおばあちゃんは少し言葉を交わしただけで、こんなに喜んでくれるんだなあって思うと、「また話そう」って思える。

私もだんだん下町に染まっていく。
居酒屋に入って、メニューを決める時、隣のテーブルに何が並んでいるかチラ見。
「ここ、これうまいよ」「今日はこれ頼んだ方がいいよ」って知らないおじさん2人組。
「え、ひと口ちょうだい」って分けてもらい、私たちが頼んだものも「食べてみる?」ってお裾分け。
いつの間にかテーブルくっつけて。
「あの店うまいよ、行ったことある?」みたいな話になり、「え、じゃあこれから行ってみる?」って、名前も知らないおじさんと2軒目へ移動。
行ってみると、そのお店の常連さんがおじさんに「あれ、今日はかわいい子連れてるじゃないの~」って声をかけてきて合流。
そのあと入ってきた人が私の友達で、2人で飲み始めて4人になり、解散する頃には10人になっている。
話しているうちに、そのおじさんは私の友達が勤めている会社の社長さんだとわかり、娘さんが通っている習い事の先生が私の飲み仲間だってわかったり。「悪いことはできないね」って笑い合う。
そんな出来事はザラで。

墨田は「お節介」な人が多い。(いい意味)
一見とっつきにくい地元の人も「向島が大好き」って言えば、みんな優しくしてくれる。
新しい仲間を面白がる。
出会える場がそこかしこにある。
↑次はこれがテーマ。

墨田みたいな距離の近さが「良い」というよりも、私が「好き」なだけ。
周りの人や行動を変えたいとか変えようとかいう気持ちはこれっぽっちもない。
何が心地いいかもどんな人と友達になりたいかとか人それぞれだし。
町が違うのだから、人の多さやコミュニティの数、雰囲気とか「ないもの」に目を向けていてもいいことはひとつもない。
両方体験したから「違うな」とは感じてしまうけど、「比較すること」は不毛。
私の学生時代がよっぽどだったのかもしれないし、墨田が特別なのかもしれない。
出会えてないだけで面白い人いるかもしれないし。
「実家で父と暮らす」ことを決めたのだから、今、この環境で自分がどう楽しむか。
町や人を面白がるか。
できることを端からどんどん試す。
すぐにギブアップするかもしれないけれど、それはその時に考えればいいだけ。

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