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11章 ショックで声が出ない!

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 「新わくわく片付け講座」で年金や相続の講座の後、三波幸恵は講師で司法書士の中津多可子に筆談で相談した。

 幸恵は九年前に夫の和秀を癌で亡くした。義父はその前に亡くなっていたので、義母テルと二人で暮らしていた。息子は二人いるが独立して家を出ている。家は義父が亡くなった時にテルの名義になっていた。和秀が四七歳の若さで逝くとは思わなかったからである。
 この五年ほど、パーキンソン病で、一人でトイレにも行けなくなった姑の面倒をみていたのは幸恵だった。和秀の姉二人と弟は、たまに来るだけで、幸恵をねぎらいもせず、実の母の介護に手を貸すことはなかった。
そして、テルが逝った。

 葬儀が終わったと思ったら、姉弟三人が家じゅうをひっくり返し、掛け軸や茶道具など換金できそうなものを根こそぎ持って行った。せめて、四九日が済んでからにして欲しいと幸恵がおろおろしながら頼んだが、逆に三人に責められ、なすすべがなかった。
 幸恵が講座に参加しようと決めたのは、略奪が終わり、テルの遺品のゴミの山を始末した時だった。
 自分が死んだら、こんなゴミの山を残したくはない。それに、息子の嫁たちの顔を思い浮かべると、後を託す気にもなれなかった。それなら今から身辺整理をしておこうという、強い思いだった。
 その上、一週間前に突然、姉弟三人は連名で、家を売るので三か月以内に出て行けと、内容証明を送ってきた。
 この手紙のショックで、幸恵は声が出なくなったのである。法律上、テルの名義の家は娘や息子に相続される。和秀が生きていればこんなことにはならなかったが、幸恵にはビタ一文残らないという。
  
 中津は申し訳なさそうに、説明した。
「幸恵さんにはお姑さん名義の家を相続する権利はありませんので、子供さんたちが家を売却して財産を分けられるという場合、どうしようもないです」
 幸恵は涙をこらえて、どうにかなりませんかと手帳に書いた。
 中津は首を振った。わかったというようにうなずき、幸恵は肩を落として帰って行った。
 会場を片づけながら、横で様子を見ていたまろみが中津に聞いた。
「何年もお姑さんの介護をしたのに、何ももらえなくて追い出されるんですか。ひどいじゃないですか」
中津もカバンに書類を詰めながら、悔しそうに答えた。
「こういうケースは案外多くてね、おつれあいが生きておられたら、相続されていたでしょうし、嫁の立場として、お姑さんに遺産相続の話などできなかったでしょうね」
 蔵子もうなずいた。
「法律に感情はないから。欲がからむと、きれいごとでは済まないのよね」
「それでは、裸同然で家を追い出される幸恵さんはどうなるんですか。仕事だって、今の時代、手に職もない五十代後半の女性には、ないじゃないですか」
 鼻息も荒く、まろみはバタバタと椅子を片づけ始めた。
 蔵子は中津と共にエレベーターに乗った。
「幸恵さんの場合、まず、家探しから始めないと、中津先生、相談に乗っていただけます?」
 中津の実家は不動産業を営んでおり、中津も不動産登記の仕事を手伝っている。
「わかりました。調べてみます」
 中高年の女性がひとりで暮らそうと思っても、家を借りにくいという現状がある。
職業、収入、年齢の壁、保証人。幸恵にとって不利なことばかりだ。

 二ヶ月後。
 藏子が事務所でのんびり朝のコーヒーを飲んでいると、まろみが恵比寿さんから電話ですと、取り次いだ。
 まあ、よかった。それで…ふむふむ…では、お願いしますと、藏子は受話器を置いた。
「幸恵さんの引っ越し、『ポンポン堂』の柔道一直線でいけそうだって」
「良かったですねえ。最近は引っ越し代もバカになりませんから」
「柔道一直線が五人も来れば、荷物を運ぶのは午前中で終わるんじゃあないかな」
 “柔道一直線”とは、古書店『ポンポン堂』の主、恵比寿太郎の、大学の柔道部の後輩たちである。
 『ポンポン堂』が蔵書の引き取りに呼ばれた時は、彼らがアルバイトで力仕事を引き受けている。
 一人ひとりの名前は覚えられないので、彼らのことを藏子は“柔道一直線”と呼んでいる。
「トラックは『ひきとりや』さんが貸してくれるから」
「ええ。でも、幸恵さんはホントにきれいに身辺整理したから、楽なものよ」
  引っ越しには、女手も必要だろうと、藏子とまろみもジーンズとトレーナー姿で手伝いに来た。

 がらんとした部屋に掃除機をかけ終わった藏子は、これで、アパートに運ぶ荷物はこの掃除機だけですね、と幸恵の方を向いた。
 そこへ、庭から、お~いという声がした。
 縁側に出てみると、恵比寿が庭で軍手の埃をはたいていた。
 横には汚いリンゴ箱があった。
「押し入れの天袋の奥に残ってたんだけどさ」
 幸恵は、わけがわからないという風に首をふった。
「爆弾のはずもないから、開けてみますか?」
 幸恵は不安そうにうなずき、下駄をはいて庭へ下りた。

 木箱を開けると、茶色い紙のようなものが詰めてあり、恵比寿が持ち上げようとすると、紙はぱらぱらと花びらのように、宙を舞った。
 恵比寿がそっと、茶色の花びらをかきわけると、きつね色のパラフィン紙にくるまれた箱が現れた。
 藏子はこの瞬間の恵比寿の表情を見て、悟った。
 恵比寿は、庭に座り込み、タオルで汗を拭いていた柔道一直線の一人に、車から手袋とビニールシートを持ってくるよう指示した。
 幸恵は何が起こっているのかわからず、不安そうに藏子を見た。
「残りものに福があったのかもしれませんよ。もうすぐわかりますから」
 幸恵はゆっくりとうなずいた。

 恵比寿は手袋をはめ、縁側にビニールシートを敷き、まるで貴重な宝石でも扱うように、箱入りの本を並べていった。
 1冊ずつ箱から出し、奥附や本の状態を確認した。
期待の混じった緊張感が漂い、皆がじっと恵比寿の作業を見つめていた。
『心理試験』『屋根裏の散歩者』『一寸法師』…作者は江戸川乱歩。
 腰に下げていたタオルで汗をぬぐいながら、恵比寿が幸恵に笑顔を向けた。
「全部、春陽堂の初版の上、美本、出版は大正から昭和にかけてですね」
意味のわからない幸恵に藏子が説明した。
「それで、価値のあるものなのですか」
皆の知りたいことをまろみが口にした。
「インターネットでは、1冊10万から20万以上の値がついてるけど」
「じ、じゅうまん!!!」
「うそ~ぉ」
「大きな声を出さないでよ、まろみちゃん」
「だって、今、幸恵さんが10万って、言ったじゃないですか。声が出たんですよ」
まろみに指摘され、幸恵も気がついたようだ。
「ほんとだ、幸恵さん、声を出してみて」
 藏子は幸恵の手を握り、力を込めた。
「あ~あ~あ~、あ~、本日は晴天なり~」
最後は声が裏返った。マイクのテストじゃないんだからと、皆が笑い、柔道一直線たちは、本日は晴天なりと叫びながら、庭でハイタッチをして飛び回った。
本当に、小春日和のよい天気で、体はごついが、気のいい若者たちだ。
「そこで?」
藏子のまなざしに、恵比寿は、目を細めて並んだ本に目をやった。
恵比寿の頭の中で、ぱちぱちとそろばんがはじかれている音が聞こえるような気がした。
もちろん、買手の目算もついてのことだ。 
「50万」
「もう一声」と、藏子も返した。
「う~ん、60万」
「まだまだ、ここで男の器量が決まる!」
「ほんと、藏子さんにはかなわないな。商売抜きで、幸恵さんの出直しのご祝儀に、末広がりの80万で、どうだ」
「決まった!太っ腹のポンポン堂」
「何が決まったんですかぁー」まろみは仲間外れにされたと思った。
「この本が80万で売れたのよ」
幸恵は、はあ?と、事態がのみこめなかった。
「だけど、一冊10万から20万の本が20冊ちかくあるのに、なんで80万なんですかぁ」
 古書の取引を知らず、合点がいかないまろみは不満そうだ。
「まろみちゃん、お店で20万で売っているバッグを20万で仕入れたら商売が成り立たないのはわかるだろう」
 まろみはこくりとうなずいた。
 恵比寿は縁側に腰かけ、ゆっくりとたばこをくわえたが、火はつけなかった。
「古書はバーコードが付いた新刊本と違って、値段はあってないもんなんだよ。需要と供給によるから、いくら珍しい本でも欲しい人がいなければ売れないし、価値がわからない人にとってはただの古本なんだよ。コレクターや研究者にとって、のどから手が出るほど欲しい。そういう本でないと高値はつかないし、今はネットのお陰で、およその市場価格の見当がつくから、それほど無茶な値段はつけられないんだよ」
 恵比寿はまろみに話しながら、幸恵に説明しているようだ。
 じっと聞いていた幸恵は不安を口にした。
「わ、わたしひとりだったら、きっとゴミとして処分していたと思います。
恵比寿さんがおられたから…でも、この本は、たぶん義父のものだと思うのですが、わたしに売る権利はあるのでしょうか」
「お義姉さんたちは欲しいものを持って行って、あとのものは処分するように言われたのでしたね」
「はい」
「それなら、長年お姑さんの介護をして家を守ってきたのだから、お舅さんからの感謝の気持ちだと思えば良いのではないですか」
 まろみは、呆れている。
「ほんと、幸恵さんって、人がいいんだから。そんなこと、気にしなくていいじゃないですか」
幸恵は本当によいのかと、藏子を見た。
「当然です。それでは、アパートへ荷物を運んでしまいましょう」
 引越しが終わり、遅い昼食を取りに出かけた。
 恵比寿が事前に、「焼き肉一時間食べ放題」の店に予約を入れていた。五人の柔道一直線の胃袋を満たすには、これしか方法がなかったようだ。
 店に着くと、恵比寿は、おまえら暑苦しいから、あっちへ行けと、後輩たちを隅のテーブルに追いやった。
昼間ということと、車の運転をする恵比寿に遠慮して、ビールは頼まずウーロン茶で乾杯をした。
 皿に盛ったカルビ、ロース、ハラミを恵比寿が網に並べていく。恵比寿は食べ物にはうるさく、鍋奉行ならぬ、網奉行を楽しんでいる。
 わかめスープの椀を置いたまろみが、恵比寿に、もういいですかと尋ねた。
 あと少しと答え、恵比寿は黙々とトウモロコシを並べている。
「藏子さんは、幸恵さんのところに乱歩の本があること知っていたのですか?」
 藏子は冗談はやめてよと、手を振った。
 幸恵も同じことを考えていたようで、うなずいた。
「だって、そうでなきゃ、なんで恵比寿さんに頼んだのですか」
「人手が欲しかったから」
「そうかなあ、わたし、藏子さんには超能力があるんじゃないかと思うことがあるんですけど」
 恵比寿が、あるぞあるぞと口をはさんだ。
「あるわけないじゃない。あったら値上がりしそうな株でも買って、左うちわで暮らしてるわよ」
 それとこれとは話が違うと思うんだけど…、まろみのつぶやきを、もういけるよ、という恵比寿の声が遮った。
 藏子は有無を言わせぬ口調で、この話題に蓋をした。
「そんなことより、恵比寿さん、古本の代金は幸恵さんの口座に振り込んでもらえるのかしら」
「仰せのままに。さあ、こっちの端から、どんどん食べて」
 幸恵は箸を置いたまま、唇をかみしめている。
 恵比寿が声をかけた。
「幸恵さん、食べないと、まろみちゃんに全部食べられてしまいますよ」
「もう~、食べ盛りの柔道一直線と一緒にしないで下さいよ」
「みなさん、ありがとうございました。中津先生にはアパートを御世話していただき、引越しまでこうして…」幸恵は涙声になった。
「ところで幸恵さん、古本のお金はどうするんですか」
 まろみちゃんたら、と苦笑いをしながらくら子がたしなめた。
「はい、思いがけないことだったのでびっくりしたのですが、実は、これからひとりで生きていくのに、何か仕事をしたいと考えていたのです。とはいえ、手に職もありません。ただ、義母の介護の経験だけはありますので、へルパーの講座に通って資格を取り、ヘルパーさんになりたいと思っていたのですが、恥ずかしながら受講料がなかったので…」
「一件落着ですな。こっちのロースが焦げてきたぞ。幸恵さん、どうぞ」
 恵比寿は幸恵の皿に肉を盛った。
 最後にもう一度ウーロン茶で乾杯して、幸恵の新生活を祝い、もう食べられない! という言葉と共に、店を出た。
 こうして、姑の遺品整理に始まった幸恵の老前整理も一区切りがついた。

11章 終

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ひとり暮らしの老前整理® (13)



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