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優しくても愛しても謝っても、毒親。

私は、多分…毒親に育てられたんだと思う。

その事に気がついたのは大人になってから。

そのストレスで高校から学校に行けなくなってしまったけれど、今も人生が些か生きにくいけれど、それでも私は母の事が大好きだ。

毒親とは。

一概に言うのは難しいし、多分それぞれの家庭でそれぞれの立場や考え方があるだろうから私にはよく、定義は分からない。ただ、小さい頃から家庭内でストレスに晒されてきたのは事実だった。

当時は気がつきもしなかったけれど。

母との戦いは高校生からだった。急に学校に行けなくなった。今思えばストレスが限界を超えて病んだのだろうけれど、当時は思い当たる節が全くなくて、私は本当に出口の見えないトンネルの中で、私はひたすら自己分析をした。どうしてこうなったのか、何が原因なのか。情弱でどこに頼るべきなのかも分からず、精神科に行く事が許されなかった私は、本を読んだりスマホでWeb記事を読んだりして、とにかく自己分析をした。

そして、私の人生の問題は家庭にある。そう気がついてから、毒親について調べ、過去の記憶と照らし合わせる。


母は、優しい人だったけれど、とても感情の揺らぎの大きい人だった。悪くいえば、私の目から見てあまり子供を育てるのが向いているとは思えない人だった。

母は自由で朗らかで少女のようで、そして心配性な人だった。

そんな人間の元に生まれた、優等生な私とおてんばな妹、どちらに手がかかるかは明白だった。

私はこの”毒親問題”にぶち当たった当初、毒親の”愛情不足”という部分にピンと来なかった。私は愛されていたし、妹も愛されていた、そう思っていたからだ。

私はずっと、恵まれた家庭環境で育ったと思っていた。休日にはよく遊びに連れて行ってもらっていたし、好きなものも買ってもらえていた方だと思う。

だからこそ、気付くのが遅かった。

今でもそう思うけれど、ただ一つ思うことと言えば、母はとても危うくて、そんな彼女が私は怖かった、という事。

私は繊細で、妹はおてんば。妹に合わせて怒る声量が、繊細な私には大きく、おてんばな妹にはあまり効果がないくらいには適切だった。

家族の為に優等生を演じる私と、勉強が苦手な妹。帰ってからすぐに宿題を終わらせ、夕食後リビングでテレビを見ようとしても、リビングでは母が妹を怒りながら解けない宿題を毎日2時間以上教えていた。それでも気にせずテレビを見ていると、注意が宿題からテレビに外れた妹が怒られる。だから結局テレビを消して、妹の宿題を手伝う。

それが終わると、母と仕事から帰って来た父はよく喧嘩をしていた。私が起きている時間には毎回、私が仲裁をしていた。どちらの肩も持ち、つまりこういう事?と、お互いをヒートアップさせないような審判のような気持ちで。

いくら頑張っても、小学校から帰って来た後に私への時間は存在しなかった。

それに友達と遊ぶ約束は「一人では危ないから」と友達の家まで母の送迎が必要で、当日ではなく前日までにしなければならなかった為、ほとんど断ってしまっていた。

今日遊ぼー!と誘ってくれる優しい友達を断るのが申し訳なくて、だんだん学校でも遠慮し、距離を取るようになった。

私は怖かったのだ。

勝手に遊ぶ約束をして母に言われる小言や、勉強が出来なくて妹を叱りつける光景や、小学生の私よりも大きな身体の大人が発する、喧嘩の声が。

私が優等生ぶって学級委員になっても、学年で1人絵や書道が廊下に張り出されても、両親の喧嘩を仲裁しても、それはどうにもならない事だった。


とにかく母は一生懸命子育てをしていた。それは事実だ。放置されたことないし、いつも私たちの事を1番に考えてくれていた。

それでも母は、私の精神を食い潰していた事に気がつかない。

”努力して作った時間”を私以外の叱咤や喧嘩で食い潰していた事に、気がつかない。

ただ「あなたがいてよかった、ありがとう」と感謝をされる。

私はそれが嬉しくもあり、同時に強烈に虚しかったのだ。


解毒を、試みる。

自己分析して、答えを導き出した結果を、私は受け入れる所から始めた。

妹が生まれてから、私は姉というよりは一家を支える中間管理職になっていたこと。それを「頭がいいから」と、当たり前に享受してきた家族への虚しさ。学校であった事を全て話すのも必須だった。今思えばそれも過保護の一種だったのかなと振り返りながら。

私は自己分析する前は、もう何故か分からないけれど(だから困っていた)とにかく辛くて死にたくてたまらなかったから、本当に知力は人を生かすなーと今でも勝手に思っている。

高校入学と同時に受験で燃え尽き症候群?とか思っていたから、納得できる理由が見つかって、ショックと同時に、少しホッとした。

そして、小さい頃を私を、初めて、抱きしめてあげたいと思った。

私は母に抱きしめられた事はなかったから。

頑張っていたんだなーって。そんな事が私には当たり前すぎて、分かっていなかった。

口に出さない謙遜は、全く必要ないって今は思っているので、最近は、私偉すぎ!!天才!!って心の中で言うようにしてます(笑)

皆さんもぜひ…!!


解毒をしたかった、それだけなのに。

そして、問題はここから。

これを本人、つまり母親に言うか言わないか。

当時私は上京して1年、19歳。病んでから約3年が経過していた。精神科にまだ罹っていない時期。完全独学で導き出した解法、でもこれで間違いないという確信がある。

この時の私の母に対する感情というのは、母親も人間だし間違いや失敗はあるよなー、その犠牲に私がなっちゃっただけなんだよなー、というか家庭の面倒な部分を引き受けちゃった私にも問題があるなーって、どちらかというより母への他責より自責の念が強かったのを覚えています。

今なら問題の棲み分け(これは母の問題、これは自分の問題等)しようよ!と思うのですが、これが中々出来なくて。

それでも、このまま伝えない事は問題から目を背けるようで、大好きな母への嫌悪感が増してしまうようで、後ろめたい気持ちになるのを自覚した私は、思い切って母に告げることにしました。



結果どうだったのかと言うと、最終的に母は謝ってくれました。

「私はそんなつもりじゃなかったよ」「カノちゃんはそう思っちゃうのか〜」「え〜そんな事ないんだけどな〜」と、初めは不本意であると言われ、まるで私が受け取り下手かのように言われ、結構傷ついてしまいましたが…。私は母と誤解を解き、最終的にはわだかまりなく暮らしていきたかったので、持てる力で分かりやすく、しっかりと伝え続けました。

「そうか、じゃあ辛かったよね」「気づかなくてごめんね」

ここで有難かったのは、母はちゃんと聞いてくれたって事。(それでも、高校生の頃は話を遮られる事が多くて話にならなかった)

「私ってひどい母親ね」

段々と自分を責める母。私はただ、謝って欲しいのではなく、ただ分かって欲しかった。

「後悔しても仕切れない」

私はだからこそ、「もう全て許すから、だからこれからはママと仲良くしていきたい、私も頑張って生きるから」そう伝えました。

「カノちゃんは偉いね」「私は本当にダメね」

母は泣きながらそう言いました。

「そんな事ないよ、私はママのこと好きだよ」

「ありがとう、私はこんなに酷いことしたのに、優しいね」

プライドが高い母が、泣いて謝ってくれた。

私はこれで終わったのだと、ここから新しい気持ちで母と生きていけるのだと、そう思いました。

思っていました。

実際、戦いはここからだったんですが。


認める事が誠意ではないと思ってしまう。

先程の会話での違和感に気がつきましたか?

母は、許してもらった事を”私”に伝えてしまうんですよね。そして許してくれてありがとうと感謝を言う。

本来、私が母の事を許さずに親と疎遠になる道もあるのです。実際、毒親からは逃げろと言う方のが多いと思います。

私は若干腑に落ちない気持ちになりながらも正解だと思っていたのです。だって、和解が終わりだと思っていたから。

そんなのは幻でした。

ここから傷口に塩を無意識に塗られる…と言う言語化しにくい問題に直面し続けます。

母は、毒親と言われてショックだったと思うのです。それでも母は私の言葉は受け入れてくれました。娘が言うなら毒だったのだろう、と。

それでも母自身が毒親だった過去を受け入れられた訳ではない。

母はそこに気がついていないのです。言葉を持ってしても、母自身の問題の根底に、母とその母の両親(私の祖父母)とのわだかまりを指摘して改善を促しても、毒親問題を母に色々提案や改善を求めても(ママは忙しいとこうしちゃう癖があるんじゃない?私はそれが嫌だから直して欲しい…等)、母は言葉では「そうだよね、うん直すように努力するから、ありがとう」と私に言ってくれても、直った事も解決しようとした事も一度もないのです。

私が「あの時はどうしてそうしたの?私は苦しかった。」と言うと、母は「私が悪かったごめんね」と言って謝ってくれるのですが、私が聞きたいのはその時の心境で。どうしてそうなってしまったのか知りたかった。母の事を理解したかった。赦す材料にしたかった。過去を捨てて、前に進みたかった。

でも、母はすぐに謝るようになった。

まるで謝ることで「これ以上私の心に踏み込むな」と言われているようで悲しくなってしまう。理解し合い、わかり合う事を私はしたいのに、母はそれらを優しく拒絶している。

目の前の事に追われて忙しかったから?私より妹のが大変だったから?私が目障りだったから?母が上手く伝えようと努力が出来なかったから?どうして?って、聞いても「違う、そんな事ない、でもどうしてこうなってしまったのかわからないの」と、私に聞いてくる。そして私はまた、昔のように母の愚痴を聞き、相談され、背負わされ、お世話をする。

結局、幼少期と同じことを繰り返し続けている。

私は母の事が理解したかった。そして過去から全てを許したかった。今でも本気で、そう思っている。でも母は非を認めはするけれども、その先は全て拒絶する。


私と母、どっちが子供でどっちが可哀想?

私はだんだん分からなくなる。

ずっと思い悩んで、考えて、考えすぎて頭でっかちで、相手にぶつけても、自分に問いかけても、答えは出なくて、やっぱり分からなくなる。

不安障害のカウンセリングで、私は母の事を先生に悪く言うことが出来なくて、母がどれだけ私のために頑張って受け入れてくれようとしているかを伝えてしまう。

悪い癖だ。カウンセリングの先生が「よかったですね」と喜んでくれるのが嬉しくて、やってしまう。嘘じゃないけれど、言う内容を選別してしまっている。ずるいような僅かな罪悪感。問題は何も解決しない。

結局私はどこかで優等生を演じてしまう。でも、それが小さい頃から存在する私だった。

”母はもう十分頑張って、私の訴えを聞いて謝ってくれたじゃないか。私を支えてくれているじゃないか。受け入れようと努力してくれているじゃないか。なんて優しく、ありがたいんだ。”という甘い囁きと、”何度も同じことを繰り返して、過去の傷口に塩を塗られているみたい。毎回、私が許すまで話は進展せずに、許したら優しいね、と言われてしまう。優しいのではなく、私はお互いを許して、母と前に進みたいだけなのに。ただ虚しくなる。”というどうしようもない現実。

これを交互に繰り返す日々。こんなの早く終わりにしたい。

わかって欲しいだなんて、私の我儘なのだろうか。

直して欲しいだなんて、私にそんな権利あるのだろうか。

母は直したいと言うけれど、だから協力もしたし色々方法も一緒に考えたけれど、結局直った試しはない。

母が悪い?私が悪い?

私はずっと母を責めては許しを繰り返している。

何度も何度も何度も。泣いて瞼を腫らして、何時間もかけて。

だから今回はもう、私は同じように赦すのをやめた。

私は疲れてしまったのだ。期待して、納得した先に裏切られたような気持ちになるのを見越して、言いすぎたかなと気にして、母のメンタルが心配になって。謝って。結局全て私は怖いのだ。

母が壊れてしまうのが。母はそういう感情の昂りが大きい人だから。

私はもう、心が持たないのだ。

私は初めて、母に冷たく当たる。

本当は心が苦しい。すぐにでも謝りたい。でも、これが僅かに正解のような気もしている。

私に拒絶されても、家では悲しい顔をしていても、母は普通に仕事に行けている。

つまり、そう言うことなのだろう。

私より母のが危うげに見えて、何倍も強かった。

私のが強く見えて、何倍も弱かった。

母は私に甘えすぎている。私も母に甘えすぎている。

その自覚を、今は忘れないでいたい。

考えるのは疲れたから、もう今は。

ただ。それだけ。



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