海賊船ニューコメン

#地球保護協会

 バーミヤンの大石像は完全に跡形も無くなっていて、かつてそれがあったことを示す大空洞だけが繁茂する植生に占有されている。それでもこの空間はかつて祈りの場であり、タリバーン達の聖戦の場でもあり、戦争の無益さの象徴でもあった。
 今はそのどれでもない。
 地球保護協会に門戸を開いた新生アフガニスタン共和国政府は大いに持て余していた国土を世界に先駆けて「緑化特区」とする声明を出し、それからおよそ十数年の間、この地は最新の緑化技術の実験場となっていった。
 深海梨子は、雄大なヒンドゥーシュク山脈中の断崖を背にして、かつては無辜の民が穏やかに暮らしていたはずの農地が「緑地」に沈んでいる様を眺めていた。時刻は夕暮れ時で空は燃えるように赤い。この内陸国にいても、あの太陽はきっと海に沈むのだろうなという予感が梨子の脳裏をよぎった。空の色よりずっと青いアラビア海の水平線上に、あのブラッディオレンジの太陽が沈むさまを想像する。自然の雄大さにかなう美がこの世にあるだろうか。
 だからこそ彼女は今の、眼前の光景を嫌悪していた。
 乾いた風が吹く度、「緑化」された斜面のほぼ大半を埋め尽くす丈の高いマツ科の木々が波だった。それらは乾燥した中東の空と大地に合わせるために人工的な品種改良が繰り返されて最適化された種で、マツ科に特有の葉の形や樹皮の模様も一つ一つを見比べていけば、自然界に存在するどの種の特徴とも異なっていることがわかるはずだった。もちろんアフガニスタンに原産の植物などではない。本来なら地球上のどこにも存在しないはずの植物たちだ。それらが緑化用の分子機械によってミリ秒単位で分析と変性にかけられる。凄まじい勢いで進化を促されているのだとも言えよう。一週間後にまた同じ場所を訪れれば、景色は実際に違って見えるようになる。
 かつては穏やかな時間が流れる農地だったこの地域に住む人はもう居ない。どれだけ農民たちが懸命に働こうとも「緑化特区」に対する協会からの支援に及ぶことはないのだから。むしろその支援のおかげで彼らは生涯に渡って飢えずに、それどころか夜明けとともに畑に出向いていた頃の半分の時間も働くことなくずっと裕福な暮らしができるようになった。日本と同じように。
「それは喜ばしいことなんじゃないの、梨子?」
 彼女の優しい声だ。
「だが……」
 ノイズが走り、EVによって眼球上に展開されていた映像は唐突に途切れた。録画されていた映像データの再生が終了したためだ。
 エンジン駆動音と潮騒が渦を巻いた中心に梨子は自分を見出す。ここは船上。アフガニスタンからも日本列島からも遥かなる北西太平洋上を、無垢な小型輸送船に偽装された改造クルーザー「ニューコメン」はおよそ37ノットの快速で波を切り裂き進んでいた。
 船室にノックの音が響く。等間隔で三回、小気味よく。藤原だな、とすぐにわかった。こんな船にはふさわしくない几帳面で実直な男なのだ。
「リコ、そろそろ交代の時間だ。行こう」
 長身の藤原は船室の扉をくぐるときに身をかがめなければならなかった。つまり彼はその身体的な形質からして既に人類の定めた平均値から外れていて、だからこそ梨子は彼のことが気に入っている。
 藤原と連れ立って甲板に出ると天上には三日月が昇っていた。空調の効いていた船室と違って赤道付近の高温多湿な気候に汗が噴き出る。陸にうじゃうじゃしている羽虫の類がいないのがせめてもの救いだ。
 船の両舷の甲板は狭く、人が二人並ぶと外側に立つものは飛沫をいっぱいに浴びることになる。梨子が前を、藤原は後ろを歩いた。それでも、途中で大きな波を一つ乗り越えたので二人は結局水をかぶった。体にかかった分は撥水コートがはじいてくれるが、耳のあたりの髪が少しへばりつく。二人はこの船のクルーでは唯一の日本人で、髪が黒いのも彼らだけだ。
「リコ、さっきは邪魔をしちゃったかな」
 ふと藤原が呟いた。彼は基本的には男らしい男だが、梨子の前では妙にナイーヴな声音を出すことがあった。
「没入映像だろ。あんまり使ったことないが、あれって引き戻される感覚っていうか、突然に声をかけられたりすると変な非現実感が残るときがあるっていうしさ」
「いいよ、気にしなくて」
「そうか。なあ、いつも何を見てるんだ? こんなこと不躾かもしれないが、あれの中にいる時、いつもどこか遠くを見てるだろう。お前にとっていったい何が……」
「映像の中では私の視界は地平線まで開けている。遠くを見ているのも当然だろ」
「ああ、そうかな。そうだな。すまない、忘れてくれ」
 操舵室ではドニとジェームズが交代の来るのを待っていた。彼らは二人の姿を認めると双眼鏡を放ってよこした。床に落とす前に何とかキャッチしようとして藤原が奇怪なステップを踊らされる。それを見てドニは顎に蓄えた白髭をふるわせて笑った。梨子はため息をつく。
「おまえらこんな骨董品使ってたのか? EVには拡大視機能だってあるだろ」
「バカがよぅ、信用できるんはてめえの目だけさ。おめえも、リコ、変わっちまったなあ。んなもんは協会の恩恵だろうが」
「便利なら使うし、そうでないなら使わない。それだけだろ。それに協会は金を出してるだけで個々の技術は優れた人間のたゆまぬ努力のおかげだ。そんなことまで否定し始めたら、私たちはマスケット銃持ってガレオン船に乗ってこなきゃいけない」
「ふん。だがね、そもそも俺ぁEVだって着けちゃいないぜ。目に入れていいのは娘だけだな」
「その娘に逃げられたからこんなとこに居るんだ」
「リコが娘になってくれりゃあなあ。いっしょにマイアミでヤったり寝たりして暮らそうぜ。まだ生娘なんだろ?」
「玉噛み切って死ねクソジジイ」
 逃げるように二人が下に引っ込むと、計器の発する低い音がよく聞こえるようになった。狭い空間に所狭しと並べられた計器のほぼ全てがコンピュータの自動操縦によって操られているために梨子たちの仕事はほとんどない。窓べりに立って水平線を眺める。夜の色が増している気がした。
 その広い海の上、ニューコメンが目指しているのは、正確には捜しているのは、地球保護協会の輸送船だ。それらは人の手を借りずに無人で青い世界を走行し、緑をばら撒くための分子機械を満載にした積荷を輸出する。輸出先は大抵の場合がアフリカ内陸部や中東諸国で、21世紀初頭からの不安定な政権を持て余していた彼らを協会は巧みな外交戦略で勢力に取り入れた。地球保護主義の名のもとに不毛な土地を引き受けて、その見返りに長期的な財政支援と技術輸出を行う協定を結んだのだ。win-winの関係というわけらしい。協会のある役員はこのことを指して「歴史上初の経済の垣根を超えた人類と地球の協調的進歩の行程だ」と述べ、これは大々的に各機関の標語にも取り上げられた。
 反吐が出るね。
 梨子はかつて、神崎希という女性にそう言って笑ってみせた。そうして一笑にふすのは簡単だったが、しかし実際に反抗するとなるとこれは大変に地道でしかも困難な生き方であることもわかっていた。だから彼女は今、梨子の隣にはいない。一緒に来てくれなんて口が裂けても言えない。言えるわけない。
「リコ、大丈夫か。ぼーっとしてるみたいだが。疲れてるなら俺が一人で……」
「大丈夫だよ。それに夜間の見張りは二人一組という決まりだろ」
「寝不足なんじゃないか? 『バベッジ』への報告、全部リコがあげてるんだろう」
「たいしたことじゃない。予算申請とか、活動の報告とか、そういう事務仕事ばっかりだ。因果なもんだよな、こんな私でさえ、社会ってやつを忌み嫌ってひねくれてきた私たちでさえ、人と人が集まって活動する以上は社会性を保たなきゃならないってんだから。もっと気ままにやれたらいいんだが」
「好き勝手に戦って死にたいなんて言わないでくれよ。次のニューコメンの船長はリコだってみんな言ってるんだから」
「いやだ。お前やれ」
「俺じゃ誰もついてこない。リコでなきゃだめだ」
「船長ってのはまじめな奴がやればいいんだよ。それに、実際になにか重大な仕事があるわけでもない。ニューコメンに居る限りは船長室でふんぞり返って、バベッジとの席では平身低頭してりゃいいんだ。それが全部だ」
「そうはいってもやっぱりカリスマがないとダメじゃないのか。みんな勝手気ままなんだから」
「このちっぽけな船を動かすのに必要なのはいっぱいの石油だけだ! ここはほんの寂れた城で、その玉座に座るのに聖剣を抜く必要も天与のカリスマも必要ない。それとも、一生をこの船で過ごすつもりなのか」
「どうしてそう卑下するんだよ。悪い癖だ」
 卑下してるんじゃない。お前たちが人を過大評価しすぎなんだ。そう返したいのを梨子は堪えた。これ以上はこの生真面目な男を困惑させるだけだ。それはあまりにかわいそうに思えた。
 そもそも、何のかんのと偉そうなことをのたまっても、彼女たちを含めたニューコメンの船員はいわゆる非合法武装集団、テロリストにすぎない。もう少し好意的な見方をすれば「バベッジ」に雇われている傭兵のようなものだ。バベッジとは超国家規模の財団のような存在、あるいは思想集団、秘密会議、悪の組織、なんとでも呼ばれる。その正確な正体は梨子にもおぼろだが、連中は財力と権力を持ち、それを武力に変換しては地球保護協会に向けていることだけは確かだ。ニューコメンのような武装集団はそれを手伝い、協会傘下の船などを襲った見返りに資金と情報を援助される。地球保護主義勢力圏の学者はこうした構図を「テロのフランチャイズ展開だ」と皮肉ったが、まさにこれは梨子の感覚ともぴたり一致していた。みな「バベッジ」という旗印を掲げて戦ってはいるが、その子細な思想や「やり口」はばらばらなのだ。潰しても潰してもそれらは地中の根を介して無限に増殖する雑草のようなもので、協会としてはたまったものではないだろう。一方でニューコメンなどの末端の勢力も、同じ旗の下で戦っているはずの戦友の顔さえ知らないことがほとんどだ。
 梨子としては、もっと成果の見える活動に携わりたいという思いから早くここを脱したいと考える一方で、今までずるずるとその機会を見失ってきた。ここは居心地がいいし、ここよりもお気楽なテロリスト稼業なんてどこへ行っても望めないことは明らかだ。生きるべきか死ぬべきか、藤原にさとされるまでもなく、それが彼女の目下最大の問題だった。
「リコ、君は物事を複雑に考えすぎなんじゃないか。俺は最初この船に乗ると決めたとき、自分はこれからあと何日くらい生きていられるんだろうかと思ったよ。銃で撃たれて死ぬか、船上で病気になって死ぬか、逮捕されて処刑されるか、どれだってありえた。でもそろそろ一年経つ。世界はきっと、もっと単純なんだと思う」
「それはカミールの方針のおかげだ。あの人は徹底的に無人船しか狙わない。人間はもっと必死で抵抗してくる」
「かもしれない。だが俺はそんなことは知らなかった。バベッジに参加して、たまたまここに来た。運がよかったんだよ。そういうめぐりあわせを信じてみたい」
「でもあの人は、革命家というよりはビジネスマンみたいじゃないか……」
 それは、つまるところ革命家なんて空想の産物でしかないことの証左かもしれない。この世界で長くやっていこうと思ったら、その発想が既に狂気的産物だが、彼のようになるしかないのだろうか。
 深く沈もうとしていた梨子の思考を、がくん、という急激な加速度が乱雑に乱した。船がその速度を急に上げたのだ。
「なんだ!?」
 そう叫んだのは藤原か、それとも梨子自身だったのか。そんなことを判別するより先に素早く計器に目を走らせる。少なくとも明確な異常はないように思える。
「どうなってる。なにか操作したのか?」
「わからん、こっちも触っちゃいない。コンピュータの自己判断だろう」
「波がある日ならともかく、こんなのんきな天気でどうして急に加速する必要がある」
「バグかな」
「そんなはずない、高い金出して仕入れた最新式のハードとソフトを積んでるんだ。予定航路は?」
「少し東にそれてるな。しかし特別に目標を更新したわけじゃなさそうだぜ」
「おい待て、なにかレーダーに反応が……」
 梨子が叫ぶのとほぼ同時、再び二人は唐突な衝撃でよろめいた。今度は船が急激にその向きを変えようとしたのだ。そして体勢を立て直す間もないうちに、唐突な別種の衝撃と破裂音が耳をつんざいた。月夜の空にめがけて派手な水の柱がすぐそばの海面から立ち上る。ぎょっとする梨子の背筋を電撃のような感覚が走り抜ける。何かがニューコメンのすぐそばの海面で爆発したのだ。
「対艦ミサイル!」
「どこからだ!?」
「敵影なし、おそらく下!」
 梨子が三つあるうちの一番小さなモニターに飛びつく。それでも省スペースのために多機能化されたデバイスで、クリスマスツリーみたいにごちゃごちゃと増設されたダイヤルだののために、ただソナーの捉えた映像を展開するのにさえ時間を使わされた。それでやっとのことで映し出された映像には、しかし何も映ってはいない。そりゃそうだろうな、と梨子は舌打ちした。ニューコメンの積んでいるソナーはほとんど漁業用のもので、おまけに節電のために平時はほとんど機能していない。そもそも相手が軍用のまともな潜水艦だとしたらまず発見できない。最近のまともな軍用潜水艦なら対ソナー用のコーティングを全面に施していることだろうから。もしその姿を捉えようとしたら、まさに敵の攻撃の瞬間にソナーを全力展開しなくてはならないだろう。しかしその瞬間は一瞬の奇襲の間に過ぎ去ってしまった。悔やんでも遅い。
「くそったれめ」
「潜水艦か」
「たぶん、いや間違いないだろう。虚空からミサイルが生まれたのでもなけりゃな。コンピュータ制御がなかったら今ごろ私らは海の藻屑だ」
「いつの間にロックオンされていたのか。どうして警報が鳴らない?」
「教えてやろう。そんなものは最初から無いからだ。ここは正規海軍の巡洋艦じゃないんだぜ。そもそも今まで一度として警報なんて有難いもの聞いたことがあるか? しかし、やっぱりEVと連動するタイプのじゃなきゃダメだってカミールに伝えておこう。生きて陸に戻れたらだが」
「敵はどこの所属だろう」
「知るものか。少なくとも同業者ってことはないだろうが」
「どこかの領海に入ってしまったんじゃないか?」
「バカ言え。第一、警告もなしに撃つもんか。ミサイル一発いくらすると思ってる」
「だが、どうする。対潜戦闘するったって爆雷なんて積んでないんだぞ」
「だから装備はケチるなと言っておいたんだ!」 
 ニューコメンは戦闘を前提としたクルーザーだが、その武装はあくまで無人輸送船を標的とすることを前提にしている。乗り込むために向こうの足さえ止めればいいという思想から、両舷の魚雷発射管二門が最大のもので、あとは白兵戦向けの装備ばかりだ。それも最近はまともに使わないで済ます仕事ばかりで、ふと梨子は、自分が久々に戦場に立たされていることに気が付いた。今まで閉じていた汗腺が一斉に開くような感覚。
 待て、待て、落ち着け、いつも通りやればいいんだ、こんなことは。興奮は毒だぜ、深海梨子。冷静に、私たちを狙ったことを後悔させてやる手はずを整えればいい。
 深呼吸をして、自動制御のプログラムを調整にかかる。それを藤原が止めた。
「待てリコ、多少荒っぽい操舵になるかもしれないがここはコンピュータに任せたほうがいいんじゃないか。昼ならともかく、人力でミサイルを避けるなんて無茶だろ」
「無論そうする。問題は戦うか、あるいは逃げるかどうかだ。こればっかりは機械に任せるわけにはいかない」
「いかないったって、逃げるしかないだろう。近づけば危険も増す」
「だがな、追撃戦ってのは潜水艦の最も得意とするところなんだ。逃げて逃げて、それでもハイエナかコヨーテみたいに執念深く追ってくる。潜水艦は決して焦らず、水底で機会をうかがい続けるんだ。逃げるほうは四六時中気を張ることになるからどんどん疲弊していって、ついにまともな判断もできなくなったところで、最後は連中の歯牙にかからざるをえなくなるんだよ」
「しかし敵の姿が見えないんじゃどうしようもないぞ」
「もう一発撃たせればいい」
「本気で言ってるのか!?」
「さっきのミサイルの挙動がレーダーに残ってる。そこから大まかな位置は割り出せるから、あとはもう一発避けて、位置を確定し、こっちが当てる。シンプルだろう」
「向こうはミサイルで、こっちは魚雷だ」
「あまり複雑に考えるな、ってのはお前の言葉だ。私らは国の命運を背負ってるんじゃないんだ、自分の命と思想のために他人の財産を食い荒らそうっていう海賊だぜ。死ぬときゃ死ぬしかない」
「それは認めるが、死に急ぐ必要もない」
「ちょっと待て、時間が惜しい、航路の再設定だけ済ませてしまおう」
「リコ!」
「次の船長は私なんだろう? なら、次期チーフに従ってくれ」
 そうまで言われては、もう藤原に返す言葉はなかった。手早く計器を操作してから、クルー連中に持ち場につくように伝えた。といっても魚雷はいま装填されてる分で全部だが。
「せめてカミールを起こしてくるよ。事後承諾になるが」
「必要ないさ。遺言があれば直接来るだろうし、まだ寝ているならそのままにしておいてやれ。眠ったまま死ぬほうがたぶん幸せだ」
「やっぱり勝算は薄いのか」
「勝算なんて気にする段階はもう過ぎたんだよ」
 船が再び進路を変える。概ねこのあたりだろうと当たりをつけた位置に向かって進み始めたのだ。またミサイルが飛来すれば、船はもっとも回避の可能性の高くなるように自動で挙動を決めるが、次も避けられるという保証はない。むしろ最初の一撃を避けられたことのほうが奇跡だったのかもしれないと梨子は思った。高精度のミサイルが獲物を外すことは、むしろマイナーな確率だ。とはいえ偶然にしてもその奇跡は大切に使うべきだろう。敵は、ニューコメンを仕留められなかったことには気が付いただろうが、二発目を撃つには再度こちらの位置を特定しなくてはならない。時間はどれだけあるだろうか。何もわからない。暗闇の断崖の上を走り抜けようとするような頼りない感覚。
 努めて冷静であろうとしても、思考を巡らせるほどに梨子の脳はアドレナリンに酔っていく。しかしもう彼女にできることはない。それは天命に身を任せるという意味だけでなく、もう実際に操作すべきこともなかった。敵の位置が定まっても、魚雷を撃つのも、それを誘導するのもまたコンピュータ任せなのだ。どうせ輸送船ばかり狙うのだからと出費を渋るカミールをなんとか説き伏せてブレインだけは良いものを買わせた、それは無駄ではなかった。熱心に身を入れた仕事が実ると気分がいい、などと言っている場合でもないのだが。
 そして無駄だとわかっていても、つい目は計器を追ってしまう。思考がかき乱されるばかりだった。不測の事態に備えて脳を休めた方がいい、そう考えて藤原に水を向けることにした。ふとこれが最後の会話になるかもしれないと思ったが、特にプライベートな話題を交わす気にもならなかった。もっと気になる問題が彼女の脳裏で明滅していたためだ。
「それにしても、なんだって敵の潜水艦なんかと鉢合わせになったんだろう?」
「哨戒中だったんだろう。それか訓練中にアドリブで進路を変更したのかもしれない、だとしたら最悪な気まぐれだが」
「私もそう考えたんだけどな。そもそもありえるのか、そんなことって」
「ありえるも何も、他に可能性なんてないだろ。虚空から現れたんでもなけりゃ」
「冗談を言う余裕があるのは感心だけどね」
「リコの言ったことなんだが」
「そんな昔のことはおぼえてないね」
 次の攻撃が来る気配はない。何事もなかったかのようにエンジン音と波を切る音が聞こえてくる。いつもの夜の海が戻ってきたかのような錯覚。撃破したと誤認して敵は退散してしまっただろうか? いいや、そんなことはないだろうという確信が梨子にはあった。ただの勘だが、彼女の勘はしばしばあたった。
「なあ藤原、私たちがどの程度バベッジから情報をもらってるか知ってるか」
「うん、リコほどじゃないが。輸送船のルート、積荷、装備、護衛艦の有無あたりだろう。そっから作戦を割り出してるんだから」
「概ね正解だが、それだけじゃない。主要な協会傘下の軍事力の動きも流れているんだ。どこの国のどの船がどの辺で訓練をしている、なんてのも含めてな。正確には向こうのほうで調整したうえで『この辺りで暴れればおそらくは安全だろう』というデータを寄越してくる」
 ちょっと藤原が黙り込んだ。こんなことはカミール以外の誰にも話したことがなかったし、そうする必要もなかったことだが、驚くのも無理はないと思えた。
「知らなかった、恐ろしいな。世界中にスパイがいるってことだろ、よく協会に尻尾をつかまれないもんだ」
「ああ。これは私も最近になっておぼろげに気が付いてきたことなんだが、おそらくバベッジは単一の巨大組織ではなく複数のグループの群体なんだろう。多くの実行力としての武装グループ、資金援助のための財団、さらにそれらを統率する存在……があるのかまではわからないが。そんなだからこそ協会も手を焼いていると考えれば納得がいく。いままでその末端部分が群体様なのはよく知られていたが、まさかその中枢さえってのは盲点だったことだろうな。だって正気の沙汰じゃないぜ、それだけ多くの悪意が協会へ向いてるってことなんだからな。連中としてはまさに不都合な真実ってやつだ。どうしようもないクズの統率するチンピラ集団、そういうのがバベッジであって欲しいと願っていただろうが、それが実は全校生徒が教師へ歯向かう意志をもった学級崩壊のなれの果てみたいな状態なわけなんだもの」
「ちょっと好意的に見すぎている気もするけれど、なんだか気の遠くなる話だな」
「私たちとてその一部なんだぜ。さておきだな、こんなところで対艦ミサイル背負った潜水艦に遭遇する、そんなことはあるはずないんだって言った意味、わかったか」
「つまりこの航海もそうした情報にのっとってるはずだっていうんだろ。だが、バベッジだって万能じゃないはずだ。俺たちすればたまったものじゃないが、情報に誤りがあったっておかしくない。群体型の組織ならば、なおのこと細かな情報の欠落なんてありえそうな話だし」
「まあ、それはそうなんだが……」
 梨子の内側にはバベッジを信じたい感情と、この致命的なミスを責め立てようとする理性が半々で反駁しあっていた。藤原の言う通り単なる情報の欠落、それならまだいい。このミスが、バベッジという巨人の力が衰えていることの前兆かもしれないという不安があった。どんなに強固で強大な組織でもいずれは滅びざるをえない。バベッジのような武力に特化したようなのは、なおさらだ。直接的な力は人間を麻痺させてしまう。歴史の露と消えていった独裁者たちのように。
 そうして思考を重ねている間もニューコメンは休まずに動き続ける。時折不安定な挙動が入る度に、二人はビクリと身構えた。それはただの高波に対する対応のことが大半だったが、それがわかるまでピンと背筋を伸ばして気を張っていなければならなかった。そして何事も起こらないとわかると、同時に息を吐いた。
「頭がおかしくなりそうだ」
「海賊だろ、弱音を吐くな」
「いかに楽な仕事ばっかりだったか身にしみるよ」
「しかし、ニューコメン式の稼業だって長くは続かないはずだ。今までは協会が渋って機械輸送船の護衛を軽視していたが、まさに私らが沈めまくったせいで警戒されてるだろうし。むしろよく1年も見逃されてきたもんだよ、それだけ地上の連中が暴れてるってことかな」
「たしかに、緑化特区予定地の周辺はめちゃくちゃって話を聞く。知ってるか、月間テロリズムだぜ。この間も新中華でやらかしてたよな」
 藤原の言うのは中華人民共和国の後継、新中華国で起きた大規模テロリズムのことだった。最終的に首謀者たちは軒並みひっ捕らえられたが、多くの民間人が死に、そのショッキングな光景は世界に発信された。バベッジの悪行として、大々的に。
「あれはたぶん、バベッジの手綱を噛みちぎってしまった連中だろう。私たちの共通目的は抵抗であって、あんな無益な虐殺じゃない。あれでは世界は変わらない」
「しかし人は殺す」
「こっちを殺そうとしてきた奴だけだ。今みたいに」
「悪者側の理屈じゃないよ、それ。向こうは正義を執行しようとしてるだけだ」
「それ、犬にでも食わせろってやつだろ」
「これもあれだな、複雑に考えすぎないほうがいい」
 とはいえいつかは考えなければいけないことだ。その答えを、梨子はずっと保留にしたままここまで来た。藤原とてそうだ。ニューコメンの船員はみなそういうきらいがあった。またそうでないものは、いつの間にか別の場所へ行っていた。
 ここが分水嶺かもしれない。
 そんな考えが梨子の脳裏をよぎった。自分が社会悪であり、テロリストであること、そうした自覚はあれど、実のところ梨子はまだ人を殺したことはなかった。何隻か船を半壊させてやったことはあるが、殺しちゃいない。そして実際に殺すことにはならないだろうと高をくくってやってきた。だが相手が潜水艦となるとそうもいかない。自分が死ぬか、相手が死ぬか、二つに一つだ。もちろん実際に手を下すわけじゃない。仮に殺すことになってもその全てを任されているのはコンピュータだ。
 しかしそこに何の意味がある? 紛れもなく、これから自分は人を殺しにかかるのだ。顔も名前も、国籍もわからない相手を。それはニューコメンの船員全てに問われること罪だが、逃げずに追いかける選択をしたのは梨子だ。
「少し寒いな」
「赤道上だぜ」
「私は今年で24になる」
「ふうん、それは初耳だな。俺より二つも歳下だったのか」
「24になって初めて人を殺す」
 藤原は押し黙った。梨子は、なんとなく意味もなしに操舵室に備えてある拳銃を手にとった。少し旧式のオートマチック。安全装置は外されていない。船倉にはもっと大口径の自動小銃だってあるので、これはあくまで非常時の自衛用に過ぎない。それかカミールの趣味。
「それってデビューとしては早いのかな、それとも遅いのかな?」
「俺は、15の時に一人殺してる。それからもぼちぼち」
「負けたか」
「だが覚悟をもって殺したんじゃなかった。少なくとも最初のやつは。ありふれた話で、もう何を争っていたのかも忘れたが、もみ合いになってるうちに倒れ込んで、相手の打ちどころが悪かった」
「そりゃ事故じゃないのか」
「かもしれない。だがアスファルトに赤いのが広がっていくのを見て、俺はたしかにそいつのことを殺したんだと、そう思った。リコも今、そんな気分なんだろ?」
「まだわからん。死ぬのは私かもしれない」
「そうだな。どうでもいいようなことだが、そんなことはさっき、コンピュータに命令を叩き込んだ時に思うべきなんじゃないのか」
 考えてみればそうだ、梨子は苦笑した。船がゆるやかにその速度を落とす。コンピュータが本格的に対潜行動に入ったらしい。普段は見たこともないような通知やランプが点灯している。
「あとは待つだけだな」
「敵は動くだろうか」
「そんなことはわからん」
 そうは言いつつも梨子の中にあった勘のようなものは、今や確信に変わりつつあった。やっぱり、こんな何も無い洋上で適性潜水艦に出くわすなんてことは不可解だ。それにニューコメンはデータ上は欺瞞情報によって輸送船として航海していることになっている。それに対して警告なしのミサイル射撃とは、こちらがバベッジ勢力であると予めわかっていたみたいだ。どこから漏れ出したのかわからないが何らかの情報を握られている、それは間違いないだろう。
 しかし、と梨子は思う。敵はこちらの対潜能力なんて皆無だろうとたかをくくっている可能性が高いんじゃなかろうか。情報が漏れているからこそだ。対潜能力も備えたコンピュータを積んでることは、私とカミール、あとは藤原くらいしか知らない。バベッジにも報告はあげてない。その必要も感じなかったからだが。それが今や僥倖、かもしれない。敵はこちらを仕留めることしか頭にないはずだ。だって相手はただのチンピラで、無敵状態から一方的に攻撃できるチートモードみたいな気分だろう。一方的に獲物を狩る立場でいる者は、逆に自分が狙われているかもしれないと思うことはない。
 それとも、そんなことはただの甘い考えなのだろうか。都合の良い解釈かもしれない。梨子は別に戦闘のプロでもないし、ただのテロリストのはしくれだ。しかしそういった立場が相手の油断を喚起しないとも限らない……考えるほどに泥沼に嵌まっていく。麻雀をする時の、相手の手を考えようとすればするほどに混迷するあの感覚と同じだ。それで、唐突に、たとえ自分の想像が当たっていようがいまいが、薄暗い水の中にいるような息苦しさは終わる。自分か、自分じゃない誰かがロン牌を吐き出して。
 今回もまた、終わりは唐突だった。
 始まりと同じように、ぐらりと船が奇妙な挙動をとった。急加速、かと思えば僅かに減速。進路に対して右へ右へ。
 いざ事が起こったら案外に自分は無感動でいられるんじゃないかと仄かに期待していたが、兆候が現れると、否応なしに生存反応が彼女をせっついた。できることはない。船員に、転ばないよう手すりに目一杯つかまるよう伝えるくらいだ。
「リコ!」
「喋ると舌噛むぞ!」
 ニューコメンからほど近い海面にきらりと月光を反射するなにかが見えた気がする。そして次の瞬間には、これまでの回避挙動とは比べ物にならないくらいの衝撃が船を襲った。
 長大な水柱が船のすぐ側に立ち上っている。操舵室までいっぱいに水をかぶった。しかし、死んじゃいないようだと、とりあえず息を吐く。
「クソ、当たっちゃいない、爆発がかすっただけだ。こっちの攻撃は」
「一発撃ったみたいだ、誘導中(inducemented)とでてる」
 それから十秒か二十秒か、どちらにせよ通常の時間間隔は吹き飛んでいた。水柱が収まっても波が酷く、投げ出されないように精一杯になっているうちに、水平線のはるか手前で、これまでよりもずっと小さな水柱が上がったのが見えた。再び波が押し寄せてくる。一瞬で数週間分の船酔いになりそうな揺れ。
 その中で、お互いに歪な格好のまま二人は顔を見合わせる。
「当たった、のか?」
「誘導中の表示が消えただけでなんにも言ってこない。おいリコ、これって当たると何てでてくるんだ」
「いつも船が相手だから、そんなことは気にしたこともなかったな。命中するとすぐにわかるから」
「デコイだったって可能性は?」
「そしたらもう一発ミサイルが飛んでくるだろう」
「頼りないな」
「やっぱりEVと連動してるやつじゃないとダメだってカミールに言っておくべきだな。とりあえずもう少し待機して、様子を見よう」
 まだニューコメンが朝日と対面できるかは揺蕩っていたが、それでも概ね、二人の緊張は解けていた。もう何も交わす言葉も残っていなかったので熱帯夜の水平線を眺める。それで、なにがきっかけとなったわけでもなく、不意にどっとせきをきった感情が梨子の中に流れ込んだ。
「おい、リコ、大丈夫か」
 足ががくがくと震えて、手先までそれが伝わる。ややあって、なるほど、これが人を殺した感覚なのだなと彼女は唐突に理解した。ニューコメンの放った一撃は確かに敵潜水艦に命中はしていたのだろうが、その船員を即死させるにはいたらなかった。緩やかに懐中に沈む鋼鉄の棺桶。それで、今、みな死んだ。そのような予感があった。現実的には水圧か何かのために、だろうが。
「なあ藤原、一つ頼んでもいいか」
「ああ、何でも言ってくれ。リコのおかげで俺たちは助かったんだろうから。いや、普段だっておまえの望むところがあれば……」
「次の船長はお前やれ」
「なに?」
「陸に戻ったら私はこの船を降りるよ。だから、やっぱり次の船長ってのは無理だ」
「だしぬけにどうした。日本に戻るのか」
「いや、どうだろうな」
「どうだろうってことはないだろう。いいかリコ、先輩風吹かすつもりなんてないが、やっぱり、誰かを殺すってのはナイーヴになる出来事だよ。それに全部の感情をなげうたないで欲しいんだ」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。私は、そう、なんてことなくて驚いた。人を何人も乗せた潜水艦を沈めたんだから、罪の意識とかってやつがもっと背筋をつたうんじゃないかと思っていたが、"この程度だった"」
「どういう意味だ、俺はリコのように賢くないんだからわかるように言ってくれなきゃ」
 梨子はもう口をつぐむことにした。それを言ってもこの几帳面な男を困らせるだけだろうと思ったから。
 未だ波はおさまらないが、船の揺れは少しずつ小さくなってきている。じきに朝を迎えるだろう。コンピュータに新たな航海予定を打ち込む。もうここに留まる意味もない。なにもないのだから。

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