うさぎさんと私

#地球保護協会

 私はあなたとは違う。
 その呪いの言葉は幾百回、幾千回と神崎希の中で繰り返され、遂には本物の呪いとなって彼女を蝕み初めた。
 それを吐く時。それは決まっていつも自分に言い訳をする時で、刃を秘めた包帯を嗚咽を吐き出しながら傷口に添え当てる時だった。
 孤独の腕の中に抱かれている時、彼女はいつも過去に苛まれる。だくだくと鼓動が早まり、毛布の中に一層深く潜り込もうとする。胸をかきむしろうとする手を必死にとどめて懸命に深呼吸を繰り返す。これまでに移り気な世界が気まぐれに示した慈愛と善意を呼び起こそうとする。それでも希はもうどうしようもなく過去と自分と世界に追い詰められて、また言い訳を探すのだ。
 私はあなたとは違う。
 私はみんなとは違う。
 だからこの苦しみは私が悪いんだ。私が世界とは違うから悪いんだ。みんなと違う私を悪くする世界が悪いんだ。そうやってまた眠れない夜に落ちていく。苦しみが晴れる夜は、深海梨子と眠れる日だけだった。
 そして孤独と自己嫌悪の波が最も高い位置にあるとき、決まって希は、一匹の白いウサギのことを思い出す。そして大いに吐き気を伴う苦悩に直面するのだが、けしてそれはクラスの皆の大切なウサギを逃がしたことへの罪悪感のためではなかった……。

 そのウサギは、希の第一教育課程の最後の年に、一般的な地球保護主義式教育に則ったカリキュラムの一つである小動物の飼育のために彼女のクラスにやってきた。
 名はトビー。驚くと高く飛ぶように跳ねることからそう名付けられた。名付けたのが誰だったのか、希の記憶にはない。希はクラスの誰一人として名前を記憶していなかった。後にも先にも彼女が顔と名前をそろって記憶した人物なんて深海梨子しかいないのだから。また一方で彼女も誰からも記憶されないような影の薄く物事を主張をしない少女だった。トビーのほうがずっと同級生たちに受け入れられているように見えた。
 そして実際にトビーはよく可愛がられていた。まだ地球保護主義に関する教育を施される前から子供たちは本能的に深いところで自然と繋がることができたし、トビーも餌と住処の世話をしてくれる子供たちのことを拒まなかった。面倒なトイレの世話でさえ子供たちは進んで立候補した。トビーの世話をすることは生徒たちにとって厄介で意味のないカリキュラムの一つではなく共有されるべき世界となっていたのだ。
 さらに彼らは、トビーを中心にして独自の文化の形態を発展させた。
 トビーの些細な耳の動きの一つ一つが彼らにとってはあらたな言語で、解明すべき遺物となった。
 トビーに与えるべき餌の選定は複雑に変容する神への儀式に似通った。
 トビーを題材とする様々な絵画や粘土細工といった芸術作品が創作能力向上を目的としたカリキュラムの中で生み出された。
 小規模な地震のために一度だけトビーが甲高い鳴き声を発した時には、明文化されたその「発言」がクラスの流行語になった。
 秋口に毎年行われる生徒を主体とする展示会の時には、生徒たちはウサギの仮装をして自分たちがトビーを中心とする同胞団であることを明確に示した。
 しかしトビーはウサギであるため、そのようなムーブメントに対しては賛意も異議も示すことはなかった。いつもケージの中で食事をもぐもぐしながら、子供たちの柔らかな手で撫で回される度に少し鬱陶しそうに首を振るだけだった。
 神崎希は常にそれらのトビー文化圏の外側に立っていて、それどころかトビーが飼育されている透過ケージに近づいたことすらなかった。それは、ケージの近くは常に生徒たちが集まっていたというのも理由の一つである。が、それよりも、こんなにも人気を集めるウサギと仲良くすることなどきっとできないだろうという確信が希の中にあった。ウサギのただ愛らしいというその存在そのものが人々に媚びているようにさえ希には感じられた。そうして小動物にさえ劣等感を抱く自分についてまた激しく嫌悪する羽目になった。
 事が起こったのは、トビーがクラスに訪れた年がもう終わろうという冬のころだった。
 その日は学年の行事である近隣の緑化特区への遠足の日で、本来ならトビーはお留守番のはずだったが、誰かが彼も連れて行こうという提案をしたおかげで貸し切りのバスに同乗する権利を得ていた。その提案を拒むものはいなかったし、教師でさえそれを歓迎した。みなが展示会の時に使ったウサギの仮装を持ち出しては、電力駆動で静寂をまとい走るバスの中でトビーの歌を歌った。
――ふわふわしっぽはマシュマロで、あかいおめめは苺みたい!
 歌わなかったのは希だけだった。彼女はそれらの歌の歌詞を覚えていなかったので歌いようがなかった。それでも死にかけの魚みたいに口をパクパクさせて歌うふりをすることだけは忘れなかった。いうまでもなく希がトビー賛歌を歌っているかどうかなど誰一人として気にかける者はなかったのだが、それでも彼女は、強いて言うならば自身の内側に潜む自己を律しようとする孤独な協調性の瞳のためにそうしていた。
 その間もずっとトビーはケージの中で眠り込んでいた。長い耳をだらりとたれさげて。電力駆動のバスは静かで振動もとても少ないので快適だった。
 途中のサービスエリアで休息を取る頃には、もう周囲の光景は緑化特区からの影響を受け始めていた。緑に沈む街だ。
 これまで高架だった有料路は地表へと降り、路面には丈の低い植物が侵食を初めている。アスファルトのひび割れから雑草が覗くのではなく、草木の切れ目から辛
うじてアスファルトが覗いていた。既に多くが放棄された灰色の建築物の連なりは繁茂する蔦性種によって静かに朽ちていく過程にあった。都心では見られないような野生動物が道を悠然と横切る度にバスはこまめに停車を繰り返した。
 まだ陽は中天を横切る前で、生徒たちは初めて見る本物の緑の世界に興奮し、トビーのことさえしばし忘れて感想を語り合った。
 そんな生徒たちをなんとか諫めつつ、教師はカリキュラム要綱に従って緑化特区の歴史を説明しなければならなかった。これは困難な仕事だったが、生徒たちにとっては地球保護主義の何たるかを教育されるもっとも初めの機会であるため、打算的に繰り返される数々の教育とはわけが違うのだ。(しかし実態としてはそれほど違いもなかった。あくまで意識上の話である)
「では皆さん、緑化特区について知っていることは?」
 生徒たちは押し黙った。「もちろん知らなくて当然ですよ」と教師は慌ててフォローを入れなくてはならなかった。
 中年で小柄の教師だった。希は彼のことをよく覚えていたし、もうずっと忘れたいとも考えていた。はじめのうち、彼はクラスの中で居場所を見つけられなかった希について甲斐甲斐しく面倒を見てくれたものだ。しかし希はこれまでの短い人生の間で既に愛されることを忘れていた。そしてそれは、教師が当然抱いているべき生徒へのアガペーと優しさにさえ疑いを抱くほどだった。彼女のそうした懐疑の瞳は、ほどなくして中年教師の内側に燻っていたお定まりの少女性愛を看破する。根拠はなかった。あったとしても何もしなかっただろう。ただ彼女は一人で怯えの殻の入り口に警戒心の幕をおろしただけだった。以降教師は希に対して過度に干渉することをしなくなったが、彼女が再び幕を取り除くこともなく、世界の緩やかな流れにさえ取り残される原因の一つとなっていった。
「お母さん、お父さんが緑化事業の現場で働いているという人はいますか?」
 何人かが手をあげた。教師はそのうちの一人に発言を求めようかと考えたが、それ以降またぱたりと挙手をする者がいなくなるだろうと気が付いてやめにした。これでもまだ、騒ぎ出して手が付けられなくならずに聞く姿勢を取ってくれるだけ優等生たちなのだ。彼は対話の形式は諦めて、生徒たちに教えるべきことを教えた……。
 緑化特区とは2064年、地球保護協会によって導入された最初の政策の産物の一つである。2020年の東京オリンピックの失敗を契機とする「五輪惨禍」によって荒廃した旧首都・東京を協会の悲願である都市緑化プロジェクトのスタンダードモデルとして世界に提示するべく、協会傘下の五大国が協調してかつてのコンクリートジャングルを実際に密林に沈めてみせたのだ。初めは環境保護主義者達による地道な緑化活動を中心としていたが、すぐに最先端ナノテクノロジーにより生み出された機械仕掛けの微生物たちが効率よく都市を腐敗に沈めることに成功していった。この微生物たちは予め運用を行うエリアにのみ散布された酵素を糧とするために緑化特区外では効力を発揮できないはずだったが、酵素そのものが雨風によって周囲の土壌に流出するのに合わせて、緑の波は特区を超えてじわじわと侵食を続けている。しかしかえってその様子は協会の理念と合致した。やがてこの緑化現象が世界全土を覆い尽くした時にようやく地球保護協会はその役目を終えることができると考えられるようにさえなった。また、動植物の選定が綿密な計算のもとに慎重に行われた。日本に原生の種に加えて円滑な生態系の循環を可能にするデザインされた生態系が人工的に構築されたのだ。これまでにずっと人間が利用してきた都市をベースとして急速な緑化を進めるならばそれは不可欠な措置だった。協会は消え失せた自然を引き戻す手引きをするのではなくて、あくまでそれを作り出す存在なのだ。
 教師はできる限りかみ砕いてそういった内容を説明した。それでもまだ随分と難解さを伴っているように思えて「ようするに汚れた人間の町を再利用してきれいな森にしようっていうことです」と付け加えておいた。それは地球保護協会の活動のうわべだけしか表していなかったが、どちらにせよ生徒たちも協会の活動の中で生きていくしかないと思えば、必要な理解はその程度のものに終始するだろうと教師は自分を納得させた。日本で暮らす大半の大人だって地球保護主義の全容を把握しているものなど滅多にいないのだから。
 特区の入り口にバスが到着すると、生徒たちはようやく狭苦しい空間と堅苦しい講義から解放されたことを喜び、ただ生い茂る野生を五感で感じようと努めた。一方で傾いた鉄塔や放棄された自動車に乗り込んではしゃぐことも忘れなかった。建造物の倒壊や毒性のある野生生物のために特区の深部に立ち入ることは制限されているが、海で遊ぶ時に沖合まで出る必要がないように、生徒たちは緑の浅瀬で楽しむすべを感覚的に知っていた。知らなかったとしてもすぐに編み出すことができた。
 希は、3人の誠実な(手持ち無沙汰な希を積極的に仲間に誘ってあげるくらいに)女生徒たちとともに色とりどりの花々を集めて回った。広々とした原野的空間で走り回る男子たちと違って、それは思いの外にスリリングな活動でもあった。美しい花や見たこともない形の植物はなぜか決まって入り組んだ場所や高い地点にあって、男勝りの勇敢さを持つ背の高い少女が立候補しては陸橋の欄干やビルの窓辺に咲く花を持ち帰った。本来ならいつ倒壊するかもわからないそうした地点への立ち入りを試みると視界拡張デバイス(EV)によって眼球上を占有する警告文が提示されるのだが、まだEVを与えられていない彼女たちにとっては手が届き足のつく地点なら全てが地続きなのだった。
「ねえ、あの花! 今度はあの赤い花を取りに行こうよ」
 背の高い少女が言う。大きく口を開けて喋るので不揃いな歯並びと矯正器具が度々見えた。歯科技術も着実に進歩しているこの時代に不格好で面倒な矯正を使う者はたいていがさほど裕福ではない家庭の子供と決まっていて、希は、もし自分がそうだったらきっと一人でいる時以外はけして口を開けないで過ごすに違いないだろうなと考えた。そして同時に、せっかく自分と過ごしてくれている人に対してなんて不躾で失礼なことを考えているのだろうと恥じた。けれど深く恥じらえば恥じらうほどに、その少女のあばたまみれの肌や骨ばった四肢といった欠点を次々と見つけては自分の少しばかり恵まれた容姿を誇示せんとする得体のしれない優越感が首をもたげるのが感じられて、ねばつく自己嫌悪と絶望にまた捉えられた。
「もう十分だよ、バッグの中お花でいっぱいだもん」
「そう、じゃあ、みんなのところに帰ろっか?」
「帰ろう。それでトビーにお花をいっぱいつけてあげようよ」
「トビーは食べちゃうんじゃないかしら」
「いつもおいしいものを食べてるからきっと口に合わないんじゃないかな。でも花びらをもぐもぐするトビーを見てみたいね」
 まさにその光景を想像して皆は一様に笑った。希もそれに合わせて笑った。それと同時に、いつその不調和が看破されるのだろうかと恐ろしくなった。実際のところ彼女のそうした演技を暴けたのは深海梨子だけだったが、それは梨子の鋭い感性のおかげというよりも、そもそも大半の人間は希の一挙手一投足に注目などしてはいなかったからであった。
 トビーのケージはまだバスの中にあった。
「まあトビー、かわいそうに、みんなに置いていかれていたのね」
 三人のうちの誰かが言った。自分もそうした一人だということは問題ではないようだった。
「あなたも緑の街に連れて行ってあげるわ。もしかしたらガールフレンドが見つかるかもしれないわよ」
 背の高い少女ともう一人がケージを持ち上げる。少しまどろんでいたらしいトビーが振動のためかぴくりと震えた。
 そのまま空調の効いていたバスから降ろされると、トビーは再びぶるぶると震えてみせた。普段の教室で彼は暖房機能も備えた中型の透過ケージ内で暮らしているが、お出かけに際して移された先は特に機能もない簡易的なものだ。その日はどちらかといえば温暖な気候だったが、それでもこの温室育ちのウサギにとっては初めての冬の寒さに違いなかった。
 冬の寒さの次に、トビーはケージ内に降り注ぐいっぱいの花々に襲われた。赤、青、黄色。少女たちの好意とは裏腹に、花弁の陰に潜んだ小さな羽虫やたくさんの嗅ぎなれない香りのためにぎょっとさせられたようだった。少なくとも希にはそのように見えた。
 一方でバッグに満載していた在庫を吐き出し切った少女たちはまた次なる遠征を算段していた。そして不意に希へと水を向けた。
「神崎さんは? 一緒に行こうよ」
「う、ううん、ごめんなさい。さっき歩きすぎて、足が痛くなっちゃって」
「お嬢様みたい! けど、じゃあ、またいっぱいお花を持ってきてあげるわ。ゆっくり休んで、無理しないでね」
「ここでトビーのことを見てるよ」
「そうだね、お願い」
 希にとっては彼女たちに同行するかどうかはどうでもよいことだったし、痛むのは足ではなかった。それに彼女はしばしば、楽し気な友人たちの輪の中に立っていることが途方もなく重大な罪悪であるように感じられることがあった。今回もまたそれだった。そういう時には大人しく一人きりになるのがいいのだ。
 少女たちはいつまでも希に注意を払うことはせずに早々に出かけていった。いつまでもしつこくされるよりずっといい。
 そして一人と一匹きりになった。
 小さな羽虫のためにトビーはがたがたとケージの中で身じろぎしていたが、やがて疲れたのか静かになった。
「この子は少しも外に出たいなんて考えないのね」
 長く伸びたいくつかの植物がすぐ目の前で揺れていてもトビーはこれっぽっちも気にかけないのが不思議だった。そよ風の囁きや小鳥たちの鳴く声に希が耳を向けている間も、彼はやはりその長い耳をだらりとさげたままでいた。まるで自分にとっての世界は全てケージの内側にあるものだけだとでもいうようにこれっぽっちも外の世界に興味を示さないのだ。
 それでも、希が足元に生えていた大きめのたんぽぽのような花を手折って彼に差し出すと少しばかり匂いを嗅ぐ仕草を見せてくれた。あるいはそれは希の匂いを嗅いでいたのかもしれない。彼女は滅多にトビーには近づかなかったので、彼にとってはきっと未知の匂いだったに違いない。
 一人と一匹は、そのままぼんやりとして過ごした。小鳥たちの囀りに交じって遠くで生徒たちの遊ぶ声が聞こえていた。そして周囲に誰もいなくなって初めて希は緑化特区の空気の清涼さや、緑に沈んだ街の景観の素晴らしさに気が付かされた。そしてふと思い立って、彼女は細い腕に力をこめてなんとかトビーのケージを持ち上げると、半ば朽ちたベンチを見つけてそこを二人の席とした。緑が豊富なことはともかく、人間のいないことは希にとって素晴らしい環境だった。ずっとここに居たいとさえ思った。先ほどまで特区の中を駆け回っていた時には気が付かなかったことだ。単なる巨大な自然公園のように考えていた。それはとりもなおさず、彼女の意識はずっと同級生たちを追っていたからにすぎなかった。
「トビー、今ならあなたとお友達になれるかもしれないね」
 それは願望や提案というよりは予感に近かった。
 希の声に反応して顔をあげたトビーの、赤い瞳と目が合うと、その時に初めて、ウサギの顔はさして愛くるしくもないなと思えた。するとますますトビーのことが愛おしくなって、思い切りこの白い毛玉をハグしてみたい気持ちになった。実際に生徒たちはよくそうしていたし、トビーはそれをされる時はいつだって静かに事が済むのを待っていたものだ。
 お花をプレゼントした時と同じようにケージの上蓋を開ける。そしてトビーのわきのあたりに手を差し込んでゆっくりと持ち上げてやった。想像よりもずっとずっしりとしていたが、ふさふさして温かく、自分の腕の中にあるものは世界で一番尊いものに違いないとさえ思えた。
「さあ、いい子ね……」
 しかし希の思いはすぐに裏切られることになる。
 抱えあげられるまでは身じろぎ一つしなかったというのに、トビーは、ケージから完全に出されるとすぐに釣り上げられた魚のようにその身を激しく震わせて希の腕の中で暴れ始めた。おまけに彼女は激しく動揺して、完全に彼を解放してしまった。ほとんど一瞬の出来事で身構える暇すらなく、特区の深い緑の中へ一目散に逃げていくトビーを見て、ようやく彼女は何が起こったのかを理解できた。
「待って、トビー! だめ!」
 叫んでも無駄だった。先ほどまでの落ち着きようからは考えられないほどの勢いで遠ざかるトビーに追いつくことはとうてい不可能だといやでも理解できた。
 そして彼の姿が完全に見えなくなってから、今度はみるみると血の気が引いていくのがわかるのだった。
 内臓を支えていた骨と筋肉がことごとく溶解してしまったみたいにお腹の中がふわつき始める。
 異様に五感が冴えわたり、枝や木の葉の揺れる音の一つ一つが耳鳴りのような喧騒となって彼女を取り囲んでいた。
 同級生たちが自分を指さして口々にののしる何百通りもの未来が同時に脳裏を駆け巡るのだ。
 困惑と焦燥の中で希は先ほどまでトビーの収まっていたケージの中を見つめた。ぞっとするほどグロテスクな彩の花々が散らかされたままだ。そしてトビーの逃げ去った先を見て、またケージを見て、自分の指先が痙攣しているのが見えた。
「ああ、なんてことなの……」
 言葉を口にすると自然と涙がこぼれた。
 本当にわずかな時間でのことだった。
 トビーは二度と戻ってこなかった。

 結局トビーのことについて、希が想像したような反応を同級生たちは示さなかった。
 彼らはけっして、希の「ケージの鍵が緩んでいて、目を離した隙にトビーは出て行ってしまった」という言葉を疑ったり、まして責めたりはしなかったのだ。彼女は少なくとも自分がトビーを逃がそうとしたのではないということは弁明しなくてはならないと考えていたが、そもそも生徒たちにはトビーをわざわざ逃がすなど想像もできないことだった。そのため唯一の目撃者の言葉がそのまま事故の真相として扱われた。
 むしろ皆は希のことを丁寧に慰めもした。きっと一番衝撃を受けて悲しんだのはこの少女だろうと考えていたからだ。彼らにとっては彼女もまたトビーを愛したクラスメイトのうちの一人に違いなかったのである。
 教師もまたこのことを教育的に意義のある機会だと考えて、誰かに罪をなすりつけることよりも、動物たちはけして人間の思惑に沿った行動などとらないこと、だからこそ彼らを尊重する地球保護主義が重要であることを強調した。
 そうしてこの事件は解決された。教室内のトビーの飼育ケージはいつのまにか撤去され、過行く日々の中で段々とあの白いウサギのいた痕跡は消えていった。
 それでも希はトビーのことを忘れられなかった。
 クラスの大切なウサギを逃がしてしまったからではない。
 彼の、トビーの真意がわからないためだった。
 彼はただあの狭いケージから逃げ出したかっただけなのだろうか。それとも、やっぱり広い世界に行きたかったのだろうか。この二つの可能性はよく似ていたが永久に交わらない平行な動機だ。ただ逃げ出したかっただけならば、あの特区の世界はあまりにもトビーには広すぎることだろう。しかしそれこそが彼の求めたものならばあの日の出来事は祝福されるべき決断だ。
 どちらであるにせよ、それを確かめる術は希にはない。それでも思い出さずにはいられない。つまるところそれは、彼女自身とひどく重なるのだから。
 私はずっと逃げ続けているのだろうか。
 それともこの孤独と絶望は、私が望んだ世界なのだろうか。
 夜は更けない。秒針は凍り付いたように止まったまま彼女をあざ笑うのだ。

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