二色の丸薬

#彼女と宇宙とぼくの話

 三つの月がかわりばんこに顔を見せる砂漠の星を歩いている時のことだ。僕らはもう本当に疲れきっていて、最後に言葉をかわしたのがいつだったのかさえ覚えちゃいなかった。
 それで、大地に埋まったリヴァイアサンの背骨のように巨大な108個目の砂の山を超えたころ、ふと彼女が口を開いた。実に楽しげな、子供が新しい遊びを思いついたみたいな顔をしていた。
「ねえ、昔話をしようか」
 ぼくが顔をあげるのも待たずに、彼女は続けた。
「しっかりと記録しておいてね、ナレッジ」
 そうまで言われて嫌とは言えない。ぼくは曖昧にうなずいた。こういうときに素体は便利だ、感情の表現がボディランゲージで済むから。
 それで、咳払い。彼女は口を開いた。
「むかしむかしあるところに……」

 ○

 むかしむかしあるところに、三つの月がかわりばんこに顔を見せる砂漠で暮らす遊牧の民がおりました。彼らは50の大人と30の子供、10の赤子と200の家畜を率いて、1000の砂山を乗り越えながら新たなオアシスを探して旅をしているのです。
 しかしその月は干ばつの月、なかなかオアシスは見当たりません。既に100の家畜が死に絶え、子供たちはいつだって泣いていました。みな酷くやせ細って、ホシゾララバの引く車からは洗われていない衣服のひどい臭いがしています。大人たちもいつだって泣きたかったのですが、泣いたところでどうしようもありません、じっと口をつぐんで耐えていました。
 そして、戦士のアルタイルという男もまた、泣くことはありませんでした。10の戦を生き残り、100の蛮族を打ち破った彼も干ばつにはなすすべがありません。それでも彼は、ただ口をつぐんでいるよりも、なにか民のためにできることはないか探そうと考えました。彼にとっては戦も干ばつも、仲間たちの生死を分ける問題に違いなかったのです。
 さて、三つの月がめぐる夜中、みなはテントを張って眠ります。砂漠の夜は月に見捨てられた氷の世界だからです。それでもアルタイルは家畜の毛のコートだけをたよりに自分のテントを抜け出ると、長のテントへ向かいました。長はなんでも知っているのです。だから、彼が民のためになすべきことを知っているだろうと思ったのでした。
 長の天幕はギンガアカムシの赤色からとれる貴重な染料で染められているのですぐにわかります。扉はなく、赤いのれんのような布があるだけなので、アルタイルはノックをする代わりに大きな声で自分の名前を告げました。
「長老さま、夜分遅くに失礼します。私は戦士のアルタイルです」
 すると不思議な事にするりと布が身を引きました。長が、彼に入れと言っているのです。アルタイルはごくりとつばを飲み込みました。
 長は、遠くの国に伝わるという魔法にも精通しています。きっと彼の訪れることもわかっていたに違いありません。アルタイルは、自分がなにかとても大きなものの手の中にいるように感じました。それでも彼は戦士でしたし、なにより長は民を傷つけるようなことはしないと知っていたので、深いお辞儀をすると、天幕へと入っていきました。
 中は薄暗く、獣油の行灯だけが静かに燃えていました。
 長は500歳くらいの老人のようで、古びた大岩のように顔も腕も胸もしわくちゃです。ただ、二つの小さな瞳だけは、子供たちの両目よりも鮮やかな緑にかがやいていました。それがアルタイルを見上げます。
「君が来たね」
 砂漠の風のいななきのようにか細い声でした。けれどもアルタイルの耳にははっきりとそれが聞こえました。魔法の力によって、彼へと直接話しかけているのです。
「長老さま」
 アルタイルが民の話をしようとすると、長は片手を上げてそれを止めました。朽木のような手です。白い爪が伸びていました。アルタイルにはそういう、お年寄りの一つ一つを見るのが嫌でしたが、それでも、尊敬すべき長老様への不敬な考えを抱くのはやめようと努力しました。
「次の砂の丘を超えるまでに、君は子をもうけなさい」
 長は言いました。アルタイルは驚いてそれに反論します
「長老さま、お言葉ですが、とても私たちには新しい民を作る余裕はありません。明日の、子供たちの食料さえないのです。このまま赤の月が四度顔を覗かせるまでにオアシスが見つからなければ、子供たちの半分が死ぬでしょう。このまま白の月が四度顔を覗かせるまでにオアシスが見つからなければ、大人たちの半分が死ぬでしょう。このまま青の月が四度顔を覗かせるまでにオアシスが見つからなければ、私たちは皆死に絶えるでしょう」
 それは本当のことでした。前に街を訪れた時に、数字を扱うことに長けた商人が計算した食料備蓄の見積書にそう記されていたのです。
 長は頷きました。
「そうだろうとも」
 なにせその見積書を書かさせたのは長だったのです。そして数字を読めるのも長だけでした。長はこれまでにも民たちに文字を学ぶよう言い聞かせたのですが、民たちは戦への備えをすることを選びました。だからその時でも、少しの読み書きさえ出来る者はいなかったのです。アルタイルもそうでした。
「しかし君は子をもうけなさい。そして、その子をつれてオアシスを探しなさい。次に君のもうける子は水神の祝福を受ける。赤子ながらにして、私たちの誰よりも賢くオアシスを探し当てるだろう」
「ですが、長老さま、今から子を作ったのでは青の月が六度現れるまでにも間に合いません」
「いいや、君は子をもうけるよ。私の孫娘アイシャとの子だ」
 それは本当のことでした。そして、アルタイルとアイシャ以外の誰もが知らないはずのことでもありました。彼は酷く赤面して、深く長にひざまずきました。
 そのまま懐からミスリルの刃を取り出して喉元に突き立てようと構えます。アイシャは長の孫娘であり、清らかなる月の巫女でもあったのです。純潔の巫女を汚したことが知れればアルタイルは償いをしなくてはならないのでした。けれど刃を構えた右手は、ピタリと固まって動かなくなってしまいます。これもまた長の魔法の力でした。
「言ったろう。君はアイシャとの子をつれてオアシスを探しなさい。まだ死んではならないよ。いくらその子が水神の祝福を受けていても、大人の手を借りなければ砂漠を渡り歩くことはできないのだから」
「貴方様の言うとおりに……」
 アルタイルはひざまずいたまま、恭しく答えました。
 長はすべて知っていたのです。そして、考えてみると、どうして自分が長のもとを訪れたのかわからなくなってしまいました。民のために、とはいえアイシャとの逢瀬を知られてはいけない身。他の戦士たちに長と話すよう言えばよかったはずなのです。それで彼は、自分が長のもとへ訪れたことさえ、この人の魔法の力によるものだったと気が付きました。最初から彼がここへ来ることは決まっていたのです。
次の日の朝には、アルタイルはこのことを民たちへ伝えました。それで人々は、これまで以上に長への深い尊敬をいだいたのです。
 さらにアルタイルは、自分と巫女・アイシャが愛し合っていることも伝えることにしました。例え長が許してくれたとしても、民がどう思うかはわかりませんから、これは大変に勇気のいることです。もしかしたら、二人はコミュニティを追放されるかも知れないのですから。
 しかし、長の言うことには、どちらにせよ、アルタイルはその子と共にオアシスを探す旅に出なくてはならないのです。隠し通すことはできません。アイシャのお腹も、そろそろ大きくなってくるはずです。
 ただ、長の素晴らしい力を伝えたその日には、アルタイルはまだアイシャとのことを打ち明けませんでした。彼女がどう考えるのか? それを尋ねなければならないと考えたからです。
 彼女の天幕はユラギソウの深い藍色で染め上げられて、夜の空の色を映したようでした。
「アイシャ、私だ。アルタイルだ」
 もちろん長の時のようにひとりでに入り口が開くことはありません。代わりに、鳥の囀るような慎ましい声で「お入りください」と返事がありました。
 戦士が天幕の中に踏み入ると、遊牧民には貴重な香が焚かれているのがわかりました。砂漠にはない、遠い異星の花の香りです。
「あなたが来ているとわかって、あわてて焚いたのです。お気に召しますか」
 シルクの敷布の上で、人形のように静かに座ったまま、アルタイルを見上げていました。
「私は戦しか取り柄のない男だ。剣の振り方を知ってはいても、香の良し悪しはわからない」
 跪こうとするアルタイルをアイシャが制します。代わりにもう一枚の敷布に座るように促しました。巫女の天幕とはいえども儀礼用の祭具はほとんどが別の場所にあるので、食事の場所と寝床があるだけの質素な場所です。遊牧の民の天幕はどれもそうでした。
「ただ心地が良いと思えればいいんですよ。いちおう、冷えた体に効果のあるものだそうですけれど」
「ほう、魔術が込められていると」
「いえ、単に暖かな香りがするという、それだけかもしれませんが」
 それはやはり魔術の類なのではないかとアルタイルは思いましたが、もう何も言いませんでした。自分の明るくないことについては多くを語らず、武人ならば寡黙たれ、そう父から教えられていたからです。
 アルタイルは敷布に腰を下ろしました。砂の大地が体を受け止めます。それで、彼は昨夜の長とのことを話しました。長い話ではありませんが、しかし彼にはずいぶんと長く話したような気がしました。
「それで」
 アルタイルが話を終えるのを待ってから、アイシャは口を開きました。オニキス色の長い髪を首元で束ねている翡翠の髪飾りが、彼女の口の動きに合わせて揺れています。
「どうして私のもとへいらしたのですか?」
 それは冷たい声でした。アルタイルには、どうして彼女がこんなにもゾッとするような声音をするのかわかりません。
「私たちのことを皆にも伝えていいものか、それは君に聞いてみなければ……」
「伝えるべきであると思うのなら、そうするのがよいでしょう」
 アイシャの態度は頑なです。アルタイルはますます困惑してしまいました。何が彼女の気に障ったのでしょうか。
「私はそうするべきだと思うが、しかし君は巫女だ。戦士の私と違って純潔でないと知れたらもう祭事に関われなくなってしまう。嫌なら嫌だと言ってほしい」
 アルタイルが続けるとアイシャは深く目を伏せました。なぜだか彼は戦場にいる時の気分になってしまいました。アイシャが怒っている姿を見ると、彼はいつもそうなのです。数々の修羅場をくぐり抜けてきたこの武人でも!
「君は――」彼の言葉をアイシャが遮ります。「私が嫌だと言ったらどうするおつもりですか!?」
 ずいぶんと久しぶりに聞く彼女の叫び声でした。アルタイルの大きな肩が驚きにビクリと震えます。アイシャの叫びはいつだって心の奥底に突き刺さる鋭利さを秘めているのです。
「あなたは、わかっているんですか!? 私が嫌だと言っても、私のお腹の命は消えないんですよ!? そんなことは最初からわかっていたはずです! 答えてください、私が嫌だと、二人のことを皆に知られたくないと、そう言ったら……」
「アイシャ、落ち着いてくれ!」
 肩に伸ばされた手を、彼女は乱暴に払い除けました。そのまま立ち上がると、服につけていた装飾をアルタイルに投げつけます。それがなくなると天幕のすみにあった食事用の陶器を。戦場に飛ぶ矢よりもか弱い攻撃ですが、アルタイルには避けられません。そうしようと思っても体が動かないのです。
「嫌だったら、ですって!? 私は、こうなることを全て受け止めていて、あなたの子を……皆にうちあけるのは"いつにするのか"と、そう聞いてくださるのをずっと待っていたのに……!」
「やめろ、アイシャ! やめてくれ!」
 アルタイルの額に打ち付けられ、拳ほどもある壺が音を立てて砕けました。それで流れ出た血の赤色を見て、ようやくアイシャもハッとしたように手を止めます。そのまま両足の力が抜けたように崩れ落ちると、わっと泣き出してしまいました。血を止める暇もないままに、今度はアルタイルは彼女を慰めなくてはなりません。
「すまなかった、アイシャ、私が悪いんだ。私は生まれたときから戦のことしか考えてこなかった愚か者なんだ。どうか蔑んでくれ、憐れんでくれ……」
 肩に伸ばされた手を、彼女は幽霊のようにすうっと躱しました。そのまま何も言わずに、懐から小さな包を二つ取り出します。病気の者などが薬を入れるために使うものでした。
 その包の中身は小さな丸薬でした。赤色の薬と、水色の薬。一つ一つを、アイシャは自分の小さな手のひらの上に乗せて、アルタイルに見せます。
「きれいな薬だ」
「手にとって眺めてみてください」
 言われるがまま、アルタイルは水色の薬をつまみ上げました。透き通った、ガラス球のような薬でした。もう一つの赤色の薬は、血を固めたようなどす黒い薬でした。彼は戦士という立場上、戦場で用いられる様々な薬を見たことがありましたが、この二つは今までに見たことのあるどれとも違っているように思えました。
「これは先代の巫女様からいただいたものです。いつか使うことがあるかも知れないと言って」
「先代の巫女……ハディージャ様か」
 ハディージャはアイシャの従兄弟にあたり、類まれな予言の力を持つ巫女でしたが、成人の儀を迎える前に猛毒の砂漠ヘビに噛まれて命を落としました。
 その大きな力の代償として自分のことは占えなかったのです。
 けれど彼女はそのことを秘密にしていたので、ハディージャが死ぬなどということは誰も考えていませんでした。アイシャが13という若さでありながら巫女を務めることになったのも、当分はハディージャが巫女として祭儀を執り行うはずだったためです。次の巫女の育成はおろか、まだアイシャを除いた他の候補の目星さえついていなかったのですから。
 ――ハディージャ様が生きていたなら、こうしてオアシスを探して彷徨うこともなかっただろうに。
 遊牧の民は、けして表立っては言わないものの、誰もがそのように考えました。
 本来ならまだ見習いであるはずのアイシャはそれでも必死で様々な祭儀の手順を覚えましたが、予言の力ばかりはどうしようもありません。
 そしてときには、蜜酒に酔った民がアイシャへの恨み言を口にするのを聞いてしまうこともありました。思い重圧、うまくいかない儀式、民の不安。そして、またたく間にすり減っていったアイシャの幼い心が拠り所としたのが、警護役を努めていたアルタイルだったのです。彼は民の中でもまるで戦鎚が人の形をしたような醜い男だとして評判でしたが、武芸の腕だけは確かだったので、長から直々に警護を命じられていたのでした。
 初めは、今までハディージャの警護もしていた彼に、彼女のことを聞かせてもらうだけでした。純粋に、少しでも先代に近づくためのヒントを求めていたのです。
「ハディージャはいつもどんな時に儀式をしていたのですか?」
「青の月と白の月が同時に夜空に登る日に」
「教えの通りですね! では、ハディージャはいつもどちらの足から祭儀場に入っていましたか?」
「足ですか!? い、いや、そこまでは私は」
「ふむ。ではきっとどちらでもいいのでしょうね」
「それは、お待ちください、私ではわかりかねます。巫女婆様にお聞きしたほうがよろしいかと」
「嫌です! あの人はいつも私をハディージャと比べてばかりいて……」
 それがいつの間にか、アイシャ自身の愚痴を聞かせるようになっていました。アルタイルもまた寡黙な武人たろうと努めているために、結果として、彼女の身の回りにいる誰よりも聞き上手であったのでしょう。だんだんと、ハディージャのことを聞くよりも、アイシャのことを話す時間のほうが増えていきました。
 そして、アイシャが月の巫女となってから初めて白の月が顔を見せた日のことです。武具の手入れをしていたアルタイルの天幕に、ふらりと彼女が姿を表しました。まだ暁前の薄暗がりの中で、黄昏時にアイシャの天幕で語らういつもとはすっかり様子が逆でした。
「巫女様、いけません。私のような独り身のもとへ来るなど。いえ、それ以前に、まだ霜のおりている時間に出歩くなんて……」
 アルタイルが獣油の灯りをつけると、ぼうっとアイシャの青白い顔が浮かび上がります。その、死人のような雰囲気に気圧されると、彼は言葉をなくしてしまうのです。
「今しがた、サリムの家の男の子が死にました。つい先週に初めて言葉を話したばかりだったのに。母親の乳が出なくなってしまったせいです。水がないから、おっぱいも出ないんです」
 アルタイルの差し出した敷布にも座らず、彼女は天幕を支える支柱にもたれかかってそう言いました。
「せめて力になれないかと信じて、最期は私が看取りました。とても小さな手だった。小さくて柔らかい。アルタイル、想像できますか? その柔らかな手の握る力がすぅっと弱くなっていくのが! 自分の腕の中で命の消えるのが!」
 彼女は両手で胸をかきむしるような格好のまま、その場にへたり込みました。慌ててアルタイルが抱きとめると、彼はその体重の軽さに驚かされました。民に食事を分け与えるために自分の分も殆ど食べていなかったことを、彼は知りませんでした。
 そして、どうしてだか酷く自分の胸の内が痛むのを感じました。昔からアイシャの悲鳴は人を圧倒的に辛い気分にさせる魔力があったのです。
「いえ、ごめんなさい。あなたの仕事は剣を振るうこと。死は、あなたにとっては当たり前のものですよね……」
「戦士の死と赤子の死は別です。我々は常に死ぬことを覚悟していますし、誰かを殺そうとする結果として死ぬことになっても、それは報いというものでしょうから」
「そう、じゃあ、私もきっと報いを受けるわ」
「巫女様、そのようなことを――」
「アイシャと呼んでください! それに私には、巫女の資格はありませんから。民を導けない巫女なんて……」
 放っておけばそのまま彼女はどんどんと沈んでいきそうな様子です。軽い軽いと言っても、暗い気分が形をとって両腕に這い上がってくるような錯覚がありました。とりあえずいつまでも抱きかかえているわけにもいかないので、アルタイルは彼女を自分の布団におろしてやりました。
「ええと、あのう、とにかくお疲れでしょう。私のむさ苦しい布団で恐縮ですが、少しお休みになってください。ああちょっとまって、いま温かいお茶を淹れます」
 とはいっても、アルタイルは自分で茶など用意することは滅多になかったので、手にとったそばから道具をひっくり返してしまいました。それを見て、ようやくアイシャも切迫した表情を少しやわらげました。 
「アルタイル、あなたは意外と気を使えるのですね」
「ははあ、とんでもないことで」
「お茶はいいですから私の近くにいてくださいませんか」
「巫女様がそうおっしゃるなら」
「ああもう、だからアイシャと呼んでくださいってば」
 そうはいっても、灯りに照らされるアイシャの頬は生気がなく痩せこけていたので、アルタイルは保存食のライ麦パンを取ってから彼女のそばに戻りました。味気もなく硬いものですが、いつも彼はこればかり食べていたので他にありません。けれどその時にはもう、幼い巫女は寝息を立てて夢へと沈んでいたのです。
「アイシャ、君は」
 おそらくその時から二人の運命は決まっていたのでしょう。
 そして、彼女は二つの丸薬を握りしめました。
「ハディージャは、私がきっと不幸な愛を抱くことになるだろうと予言しました。ずっとそれが、あなたへの愛でなければいいのにと、今まで願ってきたのですけれど」
 ぽう、と、香を燻していた炎が音を立てて消えました。
「この薬の片方は『愛を結ぶ薬』だそうです。お産に必要な栄養素が詰め込まれているだけでなく、母体を守る魔術、健やかな子が生まれる魔術がかけらてれいるといいます」
 アイシャが、ギュッと握りしめていた両の手を再び開いてみせます。先ほどまでと変わらない赤と青の丸薬。まるでこの星の周囲を廻る月たちをそこに隠し持っていたかのようでした。
「そしてもう片方は『愛を溶かす薬』。どんな魔術がかけられているのか、教えてあげましょうか?」
 いくらアルタイルと言えども、その必要はなさそうでした。彼の広い背を冷たいものが駆け下りていきます。アイシャの両の目は、とても冗談を言っている風ではありません。無数の戦場を生き延びた戦士がようやく宿せるような鬼気迫る雰囲気が彼女の周囲を渦巻いているのが、彼の目にもはっきりと見えるようでした。
 二人は長いこと見つめ合いました。あるいはほんの一瞬だったかもしれません。アイシャは少しの身じろぎさえしませんでした。
 それで、アルタイルは、やっとのことで口を開きました。
「どちらが、そうなんだ」
 けれど、彼女の声音は始めよりもずっと冷たいものでした。 
「さあ、私にもわかりません。だってハディージャは、どちらがなんの薬なのかを教えてくれなかったのですから」
「捨ててくれ! そんな恐ろしいものは捨ててくれ、アイシャ!」
「恐ろしいのは片方だけですよ」
「捨ててしまうんだ、両方を!」
 思い返してみれば、アルタイルがアイシャに何事かを命じるのはこれが初めてでした。彼はいつでもアイシャの望むことをしてきただけの存在だったのですから。子を成すことさえ、そうだったのです。彼はただ拒まなかっただけでした。
「君が捨てようとしないなら、私が代わりにしてやるとも!」
 大きな毛むくじゃらの手が、細い腕を掴みます。少しでも力を込めればぽきりと折れてしまいそうな細い腕。けれど、恐れているのはアルタイルばかりでした。アイシャはただ彼のことを、静かな目つきで見上げているだけです。
「捨ててしまうのは構いません。でも、同じことですよ、アルタイル」
「どういう意味だ」
「だって私の体は、とてもお産には耐えられないでしょうから。皆、誰もが飢えている中で、どうして私だけが子を産めるほどに十分な食事をとることができるでしょう? きっと私は、我が子を産み落とす前に死んでしまいます」
 それは本当のことでした。ただでさえアイシャは細身で、元から体力もあるほうではありません。予知の力が無い者であろうと、今の彼女ではとても子を産めそうにないことは明らかでした。
 そして、そんなことにさえ気がついていなかった自分の愚かしさに、初めてアルタイルは愕然としたのです。愛する者の体のことさえ、真剣に考えたことなど彼にはありませんでした。
 いいえ、本当に彼がアイシャを愛していたのかさえ疑わしいものでしょう。
 けれどアイシャは、美しいアイシャは、この醜い武人への愛を本当のものにしたいと強く願っていたのです。苦しい巫女としての使命から逃れようとして求めた愛でさえ、彼女を苦しめるのでした。
「では、捨ててしまいましょうか」
「待ってくれ! やめてくれ! アイシャ、どうしてこんなに酷いことを!」
「非道いのはあなたでしょう! 一度だって私を愛していると言ってくれたことさえないくせに!」
 ピシャリと雷に打たれたかのような、本物の痛みがアルタイルの身を駆け抜けます。彼自身はもちろん、アイシャのことを愛しているつもりでいます。けれど、愛するということは、彼の想像に収まるような簡単なことではないことを、アルタイルは知らなかったのです。
 拘束を振り払い、再びアイシャは二つの丸薬を突きつけます。
「捨てないのなら、さあ、選んでください。私のことを本当に愛してくれているのなら、選べるはずなんです。ハディージャはそう予言してくれました。本当にその人が、私を苦しめるその人が、それでも確かに私を愛してくれているのなら、きっと『愛を結ぶ薬』を選べるだろうって! さあ、選んで!」
 もうアルタイルに拒否権はありませんでした。彼は、どうあっても薬を選ばなくてはならないのだということをようやく理解したのです。
 とはいえ、二つの丸薬をいくら見つめたところで、彼らは何も語ってはくれません。どちらがどちらの薬なのか? 手がかりもなく、しかし絶対に正しいものを選ばなくてはいけないのです。どんな強大な悪鬼と戦うよりも困難な問題でした。
 それでも彼には、美しく透き通った青の薬が『愛を結ぶ薬』であるように思えます。ただそれが美しいという以外の根拠はありませんが、もし本当に『愛を結ぶ薬』というものがあるのならば、もう片方の血のようにどす黒い見た目に作ることがあるでしょうか? そのような見た目はむしろ『愛を溶かす薬』にふさわしいように思えるのです。
 けれど彼が戦場で目にした薬には、おどろおどろしい見た目でありながらも抜群の効能を持つものもたくさんありました。どのような見た目であれども怪我や病気に効果があればよいのですから、やはり外見で判断することはできそうにないとも思えます。
「ダメだ、わからない。わかるわけない、アイシャ! 私はただの愚鈍な戦士でしかないんだから!」
「わからないのなら、目を瞑って好きな方を選べばよいでしょう。私はそれで構いません。あなたが選んでくれた道を、喜んで受け止めます」
「ああ、バカな、どうしてそんな事ができるだろうか……」
 アルタイルの心は、恐ろしい砂漠の大穴に落ち込んでしまったかのような感覚に囚われてしまいました。いくら考えてみても答えは出ません。むしろ思いつくのは、これまでのアイシャへの行いと、それにまつわる後悔ばかりでした。自分はただ、アイシャの美貌に触れていい気になっていただけなのだという嫌悪が、星型の頭を抱く亡霊となって天幕の中を踊ります。彼らの全ての囁きがアルタイルへの非難の声なのです。
 それから、どれだけの時間が経ったでしょうか。
 アルタイルの全身は、何日にも渡る激しい戦いを超えた後のように汗でぐっしょりと濡れていました。その両目と口は固く結ばれたままで、荒い呼吸だけが天幕の中に響いています。
 アイシャは、ただじっと、愛する人が答えをだすのを待っています。彼女の心は、風のない日の砂漠のように物寂しい静けさでいっぱいでした。
 そして、何の前触れもなく、アルタイルは不意に顔を上げました。
「アルタイル――」
 アイシャが何事か言おうとするのも待たずに、彼は丸薬を手に取ります。スナイチゴを摘む時のように優しい手付きで、そうしました。
 そして、彼が選んだのは、青く透き通った方の薬でした。
「本当にそちらでいいのですね」
 彼は何も言わずにうなずきます。
 そしてようやく、彼女もまた心のうちに僅かな不安を感じたのでした。
――これで、終わってしまうかもしれないのね。
 恐ろしい未来。やはり彼女は、アルタイルへの愛を、アルタイルからの愛を失いたくはないと考えているのです。本当に彼女にさえ、どちらが『愛を結ぶ薬』なのかはわかっていないのでした。
 そっと丸薬が差し出されました。心の準備はとっくに済ませていたはずですが、アイシャは少しだけためらいがちに口を開きました。ぎゅっと目をつむったまま。
 そして、丸薬が舌先に乗せられる寸前に、アルタイルが一言だけ呟いたのを彼女は聞き漏らしませんでした。どうして聞き漏らすなんてことがあるでしょう?
「       」
 丸薬は不思議な味がしました。空の味、というのがアイシャの脳裏に浮かびます。このままずっと口の中に入れておきたいくらいでしたが、またたくまに唾液に溶けてなくなってしまいました。それで、なにが変わるわけでもありません。飴玉を舐め終えた後のように、ただ口の中に残り香が揺らいでいるだけでした。

 ○

 遠くの砂の丘から朝日が顔を覗かせていた。陽の光が寒い夜の空気を吹き飛ばしていく。
「それで、アルタイルはどっちの薬を選んだのさ」
 すっかり黙りこくってしまった彼女に痺れを切らしたぼくはそう尋ねた。なんだか負けた気もするが、あそこまで引っ張っといてどっちかわかんないってんじゃ、そりゃ手抜きってもんだろう。
「どっちだと思う?」
 彼女のオウム返し。これには呆れるね。質問に質問で返さないでほしいんだよな。
「そりゃわかんないさ。でも中絶の薬を自分で飲ませるなんて、そんな悲しい結末はぼくは嫌だね」
「あれ? 私は中絶の薬なんて言ってないけど」
「だって『愛を溶かす薬』なんだろう。そりゃ中絶の薬なんじゃないのかい」
 彼女のすっとぼけたような表情。相変わらず子供みたいな仕草をする人だ。
「私の知ってることを言えば、ナレッジ、アイシャの求めた愛は薬に溶かされるようなものじゃ絶対にないってことだよ」
 それで終わりだった。あとはもう、自分の奇術を披露した手品師がわざわざタネを明かすこともなく退場するように、彼女は口を閉ざしてしまった。
 ため息。いや、物理的な身体があるっていうのはいいよね。
「綺麗な朝もあったもんだよ」
 僕は吐き捨てるようにそう言った。本当に綺麗な朝だったんだ。

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