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「To Grandfather ~仁川ピクニックセンターの思い出」 

師走に突入しました。いやあ、1年本当に早いですよね(苦笑)。
今日12月1日は祖父の誕生日。生きていたら110歳。祖父が亡くなって27年になりますが、今年の始めに祖父に纏わる不思議な体験をしました。


今回、その体験談と共に祖父について綴りたいと思います。


神戸生まれ尼崎育ちの祖父は、1歳の時に母(私の曾祖母)が26歳の若さで病死してしまい、父(曾祖父)と姉(大叔母)の三人暮らしがスタート。
きっと寂しい思いしたろうな。
やがて成長した祖父は地域の青年団へ入り、その1学年後輩には、今も活躍している大御所漫才コンビ中田カウス・ボタンの師匠筋となる中田ダイマル・ラケットの中田ダイマルさんがいたとか。

中田ダイマル・ラケット(左がダイマルさん)

身長が約180cmあった祖父は、野球部に属しスポーツ万能。そして頭が凄く良くて勉強が出来た。祖父から見ての祖父、即ち私から見れば4代前のご先祖様でお医者様だった高祖父のDNAを受け継ぎ、私が苦手としている理数系が特に出来たのだ。このDNAは本当に私へと遺伝して欲しかった。

20代の頃の祖父

おまけに絵や字を書かせてもうまくて、そしてなんと言ってもハンサム!彫りが深く白人系とのハーフ、クォーターと言っても良い顔立ちだった。

軍服姿の祖父。彫りが深い顔立ち。

その白人系のハンサムな遺伝子は私の父までは受け継がれたが、残念ながら私には1つも受け継がれなった(涙)
ちょうど祖父はオバマ大統領時代に国務長官だったケリー国務長官に似ていて日本人ならば長年に渡りテレビ時代劇「大岡越前」で主役をつとめた俳優の加藤剛さんにもどことなく似ていた。

ケリー元国務長官
加藤剛さん

祖父との思い出に話を戻すと、確かあれは私が小学1、2年生だった頃だろか、今は無き仁川ピクニックセンターに行き、祖父がピクニックセンター内に流れる仁川に架かった丸太の橋を渡ろうとして足を滑らせ、肩からかけていた私の魔法瓶の水筒をペコンポコンに破損させた事だ。


帰宅後、祖母にこっ酷く怒られた祖父は、私に新しい水筒を買ってくれ、それを使用する事になったのだ。


仁川ピクニックセンターまで、どうやって行ったのか全く記憶が残っていないのだが、恐らく阪急仁川駅から歩いて現地まで行ったと思う。祖父の性格上バスやタクシーには乗らなかっただろう。祖父はとにかく強靭な足腰の持ち主だった。


祖父が若い頃、自宅があった尼崎から甲山までの道のりを難なく歩いてみたり、また元陸軍上等兵として出向いた中国では、黄河を上って歩きに歩いて「三国志」に登場する曹操が建国した魏の都洛陽まで行ったと生前話していた。上記に記述した通り身長約180cmの祖父の一歩分の歩幅は、小学校低学年の私が三歩歩く歩幅に相当していた。


そんな祖父との思い出をもう一度味わいたいと思い、ウォーキングを兼ねて阪急仁川駅から仁川ピクニックセンター跡地まで歩いてみた。

阪急仁川駅

阪急仁川駅から仁川ピクニックセンター跡までの道のり自体は、約3キロほどで40~45分で着くのだが、山を登る形となるので平坦な道を歩くのとは全く違った。


ただ私の場合は日頃からウォーキングや筋トレをやっているお陰で問題なかったが、これが小学校低学年だった私には本当にキツかったと思う。


仁川沿いを歩き高台にある住宅街を越えてようやく五ヶ池ピクニックロードへ、この道を辿るとかつて仁川ピクニックセンターがあった付近へ到着する。風の音や小鳥の囀りを聞きながらだんだんと山深くなっていく様子を肌で感じていき、やがて見えてきた五ヶ池。ここもかつてはバス釣りやボートで賑わった場所だが今はもうない。

五ヶ池ピクニックロード

テニスコートを越えて、ようやく仁川ピクニックセンターのあった仁川自然保護地区へ到着。私はその中へ足を踏み入れた。もちろんピクニックセンターの面影は全く残っていない。まさに芭蕉の俳句のように「強者たちが 夢の跡」状態だ。ただ地区内の片隅に「仁川ピクニックセンター」の看板を見つけた。やはり間違いなくここはあのピクニックセンターだ!

仁川ピクニックセンターの看板

私は嬉しくなって更に進んでみた。するとやがて川が見えてくるではないか!
はっ!もしやこれは!
そうだここだ!まさに私が祖父と一緒に来た場所だ!もう今から30年、いや35年前になるか!?祖父が「今からこの丸太橋をワシが渡るから、そこで待ってなさい」と言いながら、丸太橋を渡ろうとして祖父が足を滑らせた場所だ。但し丸太橋はもう今は無かったがー。

見えてきた仁川
かつてこの辺りに丸太橋が架かってた


当時の記憶が鮮明に甦ってきた。そこで私は瞼を閉じて、今一度祖父の事を思い出してみた。


「へへへへー、何してきたんや?ワシの転んだ場所に来て、お前ちゅうヤツは!ホンマに……」


耳を澄ませてみた。
ウソだろ!?
いや本当だ!
間違いなく祖父の声だ。
祖父の気配を感じた!


「へへへー」と甲高い特徴ある笑い方は間違いなく祖父だ!
祖父が来てくれたのだ!
私は嬉しくなって「じいさん!じいさんじゃないか!!どうしたんだよ?ビックリしたじゃないか!どうだよ?最近はー」と話かけた。


「最近はな……」と祖父が話そうとしたその瞬間に気配が無くなってしまった……


あとでこの跡地で撮った写真や動画や見ると、光の玉が私が写りこんでいた。
やっぱり祖父があの世から来てくれたんだな……

動画をスクリーンショットしたもの。画面下側中央より少し右にオーブのような丸い光が見える。動画では右から左に動いていた。


「最近はな……」と話そうした祖父の言葉の続きが気になる。
あの世で祖母と夫婦喧嘩したあとか、それとも我が家の行く末を心配したのか、私の考え過ぎかも知れないが少し寂しそうな表情だったようで、それは後者の理由だったようにも思えた。


じいさん、ありがとうな。
お盆でもないのに、わざわざ会いに来てくれて。俺の方はなんとかオヤジとお袋と3人仲良くやってるよ。言うてオヤジもいい歳になったし、まあ近い将来じいさんの所へオヤジも行くけど、行くまでの間は俺がしっかり面倒みるから安心してなー。その代わりオヤジがあの世に行ったらじいさん、しっかり面倒みてやってくれよ。なんせワガママで頼りない駄々っ子みたいになってしまったからさ。あんたの子だよ(笑)

若き祖父とまだ幼い父

「母もいなくなった後、お前は一人になっても大丈夫か?」だって?大丈夫だよ!なんとかやってくよ。行く末を心配させてしまっている事に対してはマジ申し訳なく思うけど……
まあ、どうにかなるさ!
いずれ良い報告できるよう頑張るからさ。だからたまには、また俺んとこに喋りに来てくれよな……

祖父と私

祖父から見たら内孫で跡取り。他の孫達に比べても私は特に大切にしてもらっていたと思う。他の孫達に比べて頭も悪かったしね(苦笑)
アホの子ならぬ「アホの孫ほど、なお可愛い」か!?
だからせめて、祖父への思いぐらいでしか応える事しかできなかったから。
27年の時空を経て、祖父もわざわざあの世から仁川ピクニックセンターまで来てくれたと思うと、涙が溢れそうだ。
ーってか涙が溢れてきた……

ありがとうな、じいさん。
マジ感謝してるよ……

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