暴力を受けた私、暴力をふるった私

誰しもが暴力の構造に巻き込まれ、それによって人は二重の苦しみを抱えているんじゃないかなって。
被害を受けて傷ついた苦しみ。そして、自分も加害側に回って人を傷つけてしまった罪悪感という苦しみ。

被害者であり加害者であるという相反するような二重に傷ついた自分がそこにいると思った。

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津田大介さんのネットメディア「ポリタスTV」。
先日報道されていた「宝塚音楽学校が不文律撤廃へ」を受けて、OGの東小雪さんとの対談。東さんの語りから、この社会の生き苦しさの根っこのようなものがあらわになっていたように思えたのよね。

※後日、有料アーカイブになるそうです

(上級生になったとき下級生に対して自分もやってしまったことはありますか?と質問を受けて、東さん)

やってはいけないことをやってしまったんだと思います。それで私は、暴力が起こるときには否認が起こること、思考停止になること、そして、自分自身に加害性があることに気がついていくことがすごく大事だと思うんですよね。

なので美談に回収したらいけないんですよ。予科顔がおもしろかったとかあの一年があったから舞台に立てたとか。そういうふうにすると自分の中の加害性ややってしまったことを全て肯定しているので、負の連鎖が断ち切れないんですよね。

私はかわいそうなことをしたどころではなくて、やっぱり人間が人間にしてはいけないことをやってしまった。(中略)あの構造の中に巻き込まれたひとりとして本当に真摯に自分が持ってる加害性を認めること。そして加害性と向き合っていくことでしか止めることはできない。それは宝塚だけではなく会社だったりDVだったり児童虐待だったり、つながっているんじゃないかなって思うんですよね。

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被害の告発みたいなことで終わらずに東さん自身が自分も加害者だったと正直に誠実に話していた姿が心に響いたなあ。
東さんの語りから思ったのは、誰しもが暴力の構造に巻き込まれていて、その中では被害者でもあり、加害者でもあるんだなって。

理不尽に暴力の構造に巻き込まれることで、人は苦しむ。
被害を受けて傷ついた苦しみ。そして、自分も加害側に回って人を傷つけてしまった罪悪感という苦しみ。

僕らを取り囲んでいる暴力について考えを巡らせたとき、被害だけ加害だけ語ることは難しくて、被害者であり加害者であるという相反するような二重性に向き合うことになるんじゃないかな。
それに耐えれるだけの思考の体力がなかなか今の人間にはないような気がする。

僕自身もずっと向き合えずに、でもモヤモヤしたまま生きてきてしまった。それがずっとずっとしんどかった。
暴力を受けて傷ついて悲しかったつらかった自分。
暴力をふるってしまって人を傷つけてしまった罪悪感を抱いていた自分。
暴力の構造に巻き込まれたことで、ふたりの傷ついた自分がいるんだなって分かったことがひとつ収穫だった。

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