見出し画像

第3言語でプレゼンテーションをする

先日、大学の講義内で45-50分ほどプレゼンテーションをしてきました。
2週間前にテーマと日程が発表され、指定された日にちにそれぞれの学生が選んだまたは指定された楽曲についての分析とプレゼンテーションを用意すること。これが教授から学生に課された課題でした。

もちろん、講義はドイツ語。英語も許されてはいますが、教授が話す言語は基本的にドイツ語のみ。また、ドイツ語ネイティブやドイツ語を問題なく話す学生ばかりが講義に参加しているため、ドイツ語を主軸に講義が進み議論が交わされていきます。
私はというと、講義の内容が面白そうという理由だけで講義に出席し、改めてよくよく周りを見渡してみたところ、私以外の学生がドイツ語ネイティブ・または第二外国語がドイツ語という状況だということに気がつき気が遠くなりました。しかし、自分の好奇心と興味を優先して、講義に出席し続けることを決め、周りの学生と同じようにドイツ語でのプレゼンテーションをすることになりました。

テーマはAlban BergのLyrische Suite。日本語では「抒情組曲」として知られている弦楽四重奏曲です。近現代の弦楽四重奏曲を扱う講義内容ということと、このセメスターで室内楽科の教授と素晴らしいヴィオラの先輩とチェロの先輩にお声掛けいただいて、このLyrische Suiteを一緒に勉強し演奏することになっていたため、講義の担当教授から「君はLyrische Suiteについてのプレゼンを準備してね」とご指定が。
初回講義の時の自己紹介でそんな話をしたことで、プレゼンは確定事項&講義からの離脱不可となりました。(人によっては初回授業を受けて、受講を取りやめる人もいます…笑)

さて、どうする。
1人の学生が私よりも先にプレゼンをする予定だったので、内容を聞きに行くのはもちろんのことどうやってプレゼンの資料を作っているのか、どんなことをドイツ語で話しているのかを学ぶところからスタートしました。

即興的に簡単なパワポ資料と手元のメモで話していくことは、私にはできません。明らかに語学力の差が出てしまい、その「差」が準備不足に見えてしまうことは私にとっては痛手。となると、彼女・彼らと同じことをしていては土俵にすら上がらせてもらえない。それを肝に銘じて、徹底的な準備をすることを心に決めました。
まず初めに日本語でプロットを作り、自分が何に対して疑問に思ったのか、使われている作曲技法、細かい理論、時代背景や歴史の流れについてもう一度復習。曲を繰り返し聴き、どこを言われても歌えるように。そして辿々しい言葉ではなかなか耳を傾けてもらえない、集中力の短い学生の注意をどれだけ自分に引きつけられるか。その戦略をどうやって組み立てるか。
何をメインにしてプレゼンを作り上げるか、下準備を地道に作っていきました。

プレゼンにたどり着くための前準備にどれだけ時間と考えを確固たるものにしていたかで、その先の作業スピードは段違いです。
プロットと目的地・着地点がはっきりしていれば、それに向けてあとはプレゼン資料を作っていく段階に入りました。
しかしながら、語学の問題より自分のスケジュールの忙しさに疲弊。オーケストラのプロジェクトではコンサートマスターの隣に座るアシスタントコンサートマスターになり、スイスのローザンヌとジュネーヴへ1泊2日で移動&レコーディング、室内楽科の教授とのリハーサルスケジュールや他の室内楽のリハーサルとレッスン。もちろん、その中に他の授業への出席やソロのレッスンとそのための準備!
目まくるしい毎日と、良くも悪くもテキトウな周りの皆さんのスケジューリングに振り回され、奔走する毎日とプレゼン資料を抱えて走り回っていました。
よく体調を崩さなかったなあと思うようなスケジュールをぶん回しながら、長距離移動の時間や学校の合間の時間を縫って少しずつプレゼン資料を固めていきました。

ドイツ語が完璧でない私にとっては、正確に情報を伝えられる言語は英語。
本当はドイツ語でパワポ資料を作りたかったけれど、「自分が言いたいことと実際の意味が違ってしまう可能性」(つまり、語学力の差やネイティヴと語学学習者の表現の違いによって、捉え方が変わる可能性)を考え、英語で資料作りを開始。

「スライド1枚に情報は3つまで!そして3文だけ!」という父の教えを思い出し(笑)、題名とキーワード、そして自分で自分を助けるための補足説明。
たくさん書いたとしても読んではもらえないし、アニメーションや色もつけない。シンプルな資料でありながら、言いたいことを詰め込んでいく。事前に考えておいた骨組み・枠組みをもとに、次のステップとして、センテンス・エッセンス・キーワードを抽出していく作業、それがスライド作りの時間でした。

さて、資料作りが完成して私の脳内は日本語から英語に情報が変換されてきました。私の場合、日本語からドイツ語の文章を作り出したり、理解しようとすると遠回りをしている感覚があります。日本語には日本語独自の表現や「て・に・を・は」が存在し、いつでもドイツ語の意味とイコールにならない、という所に言葉のギャップを感じてしまい、逆に何を言っているのかわからなくなるという事態が頭の中で起こります。また、ドイツ語の語学資格試験の勉強をするために大学のドイツ語クラスに参加していた時の共通言語が英語だったこともあり、わからないことや文法や表現の説明や質問は全て英語。次第に英語からドイツ語の方が比較的すんなりと理解できることに気がつきました。語学試験が近くなっていた時には、独和辞典を引いて、英語の単語に訳して置き換えていく。同時に英和辞典も引いて、英語の勉強も。だんだんと試験が近づき2つの辞書を横断しながら引く時間がなくなってきたら独英辞典の電子辞書を引いて勉強していました。
(今勉強ノートを見返してみると、3言語が雑多に書き殴られています。笑)

英語で作った骨組みをもとに、ドイツ語で肉付けをしていく。
それが発表原稿を作る時間でした。即興でドイツ語の文章を作ることは難しく、日常会話ではなく事実や史実に基づいて1人語りをするためには確実な”台本”が必要になります。そこで、英語からドイツ語へ変換し、その内容を膨らませていく。そしてより詳細な情報へ形を変えていく。それまでに溜め込んできた膨大な情報をドイツ語の文章に組み替えて置き換えていき、プレゼンの資料と照らし合わせながら、どこで何を話すか決めていきました。
そして、自分が知っている単語やできる限りシンプルな文章構造を選んで、違和感のない表現を探していく。わからない表現はChatGPTやDeepLに聞きながらも、自分の口が動きにくいと感じた表現を削り、代わりになる単語や文章の流れを再構築していくのはかなりの作業量でした。
自分に馴染んでいない単語が混ざった文章というのは、自分と聞いている相手両方に違和感が残ります。私の考え方として、特に自分の母国語から離れていけば行くほど、難しい単語や複雑な文章1文を作り上げるより、多少遠回りになったとしても自分が使える単語の範囲で情報を分解し、少しずつ文章を積み重ねて内容を完成していく方が、相手によく伝わると思っています。
ネイティヴスピーカーには多少、子供っぽい話し方に聞こえるかもしれません。小手先の言葉の美しさと小難しい表現によって自分の学びが薄っぺらいものに変わってしまうのではなく、自分の学びを相手に理解”させる”ことに全力を尽くし、その表現が多少子供っぽく聞こえたとしても、内容で引けを取らなければ同じ土俵で戦えるだろうと密かな闘志と戦略で、言葉の一つ一つを自分のものにできるか考え続けました。
朝起きてパソコンに向かい、昼間は授業の合間とリハーサルの合間を縫ってカタカタとキーボードを叩き、家に帰ってきて深夜まで辞書と格闘する日々。朝から晩までLyrische Suiteを流し続け、必死に仕上げたプレゼン。
当日の朝まで頑張りました。

ここまで準備したので、発表で前に立つことに対して緊張することはありませんでした。一種の想定問答集や、逆に日本語を母国語にしていることを武器にドイツ語での表現について問いかけや教授にプレゼンの中で質問を投げかけたり、想定問答集のようなところまで考えを張り巡らせることができていたので、なんとでもこい!状態でした。

最初の目標は15分話すこと。
結論、50分間1人でドイツ語でプレゼンをすることに成功しました。
教授が気を遣ってなのか、私のプレゼン時間を少し短縮できるように少しだけ教授の講義を挟んで時間を稼いでくれましたが、それを超えて講義時間ギリギリまでプレゼンをすることができたのは大きな自信になりました。
授業後も友人から「スズネ!すごくよかったわ!」と声をかけてもらったり、BergのLyrische Suiteを一緒に勉強しているチェリストの先輩からも「たくさん準備頑張ったのね!次のリハーサルが楽しみ!」と言ってもらえたり。
目の下にクマを作りながら頑張った甲斐があったなあと、これまでの死に物狂いで頑張った努力が報われた時でした。

第3言語でのプレゼンテーションは初めての経験。
母国語から考えると第3言語は遠く感じますが、第2言語の存在によってその距離を少し縮めることができることを強く実感しました。
”ドイツ語らしい”表現、”ドイツ語ならでは”の表現を、母国語を介して学ぶのはとても難しいです。さらに日本語という少し特殊な表現技法や文化的な背景を持った言語を通すと、表現の核心を掴むのに苦戦します。その点を補ってくれるのが第二言語の英語。日本語にしてしまうとわからないけれど、英語であれば似た表現の香りがする。その言葉の嗅覚が研ぎ澄まされていくことで、ネイティヴが見ている・聞いている言葉の世界により近づいていくことができるのだと思います。
普段の語学学習とは違ったある種のショック療法というか、「どうにかしなくてはならない」という火事場の底力を経験したことによって、少し言葉の見える世界が変わったように思います。

言葉についてはずっと学び続けていくもので、母国語も日々磨き続けていくものなので終わりはありません。ただ、時々その学びに変化と捻り、ちょっとの背伸びを課すことでグッと伸びる瞬間があります。その一瞬を逃さず、そしてそのチャンスから逃げずに向き合うことも大切だなあと思ったプレゼンテーションの準備期間でした。

と、毎日大学では音楽の技術を高める以外にたくさんのことを学んでいます。演奏に特化した修士課程とはいえ、音楽家の「技術者」としてだけではなく、音楽家の「研究者・探究者」としての角度からも成長を促してくれる環境があることに感謝です。今いる環境を目一杯使って学び続けていきたいと、恵まれた学習環境を思う存分に活用したいと改めて思います。

Bis nächste Mal! Ciao:)


BergのLyrische Suiteは一種の謎解きのような曲でもあるのでさまざまなキーワードを掘り起こし分析。彼の人生の足跡を追いかけて、言葉に溺れた時間でした。
机の上はいろんな言語に溢れて、カオス状態。
それでも、これはこれで良い思い出かな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?