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レビューと考察「米津玄師/馬と鹿」

今回は、「馬と鹿」のレビューと考察をしようと思う。
(この記事は、個人の妄想と感想です。)

この曲を初めて聞いたときは観念的で難しく感じたが、聞けば聞くほど心にグッと迫るものがある。
特に最後の方の感情の込め方。叫びというより慟哭(どうこく)に近い印象を受けた。




背景:米津さんトーク番組


ドラマ「ノーサイドゲーム」の書き下ろし曲。

米津さんのトーク番組(下に掲載)も聞いたが、わからない事だらけ。
ノーサイドゲームはラグビーをする人たちのドラマらしい。ドラマ以前からスポーツやドキュメンター番組を見ていた米津さんがアスリートに感じたのは、神聖さ、美しさ、尊さ。
彼らが毎日地味でハードなトレーニング、節制を繰りかえし、時には怪我や療養をしながらも、仲間と戦い最後には喜びを表現し合う、その中に普遍性の愛を感じたという。

また、この曲を作ったのは「海の幽霊」の楽曲制作をした後で、ある意味「燃え尽き症候群」のような状態になったのだろう、そんなことも語られている。


米津さんが最終的に言っていたのは、人類皆共通するのは「愛」だということ。
キーワードは「普遍性の愛」。

で、自分なりに解釈したのは、
「大切な人の死に向き合いながら、何度でも、傷つきながらも前に進んでいく」
という曲だと思った。

考察

これも推測だが、この歌は春夏秋冬の1年が描かれている。
1年なのだが、花の命を考えると一生とも置き換えられる。
そして、他の楽曲とも共通するのだが、ループする(と思う)。

春の季節

「歪んで傷だらけの春〜消えないままでいい」のまとまりが
初めは「春」。だが、「歪んで傷だらけの春」。

ここで「呼吸が止まる」とあるので、花の命が終わった。
=春が終わった。
=大切な人が亡くなった

夏の季節

「傷跡隠して歩いた〜気づいてほしかった」
「影」とあるが、「陰」と読み替えると、夏の季語に多い。
例:緑陰、夏陰、方陰

秋の季節

「まだ歩けるか〜誰にも奪えない魂」
「夜露」は秋の季語。
「魂」は「生身魂」と読み替えると秋の季語。

冬の季節

「何に例えよう〜行こう花も咲かないうちに」
まだ花が咲いていない=冬。もうすぐ春が来る兆しがある。

春の季節

「これが愛じゃなければ〜願いが消えない 止まない」
「止まない」ので、このまま冒頭の春につながる。


MVの意味を考える

ビル屋上

大勢の女性たちは海の波をイメージ?
ビルの建物の縁の線と、最後の海の波の線が似ている。
生死の境界線を意図しているのだろうか。

男性(米津さん)は白と黒の衣装、髪の毛は青。
女性も白と黒の衣装。
これは「灰色と青」のレビューと考察でも書いたが、生死をイメージしていると思われる。

地獄のようなところ

男性が画面奥側にいる。
視聴者側には死者?。
男性と視聴者(死者)を分断するように、炎で燃え上がる振り子が揺れている。

最後に海の映像が映る。そして、書道の筆のタッチのタイトルが「馬と鹿」(白いテキスト)が表示される。
本来、書道は墨で黒い、それが白く表示されているということは、「生死」を意味しているのかもしれない。

歌詞を考える

言葉

「歪み」「傷」「痛み」「麻酔」「張り裂ける」「噛み締めた砂」
という体感を伴う痛み、痛烈な言葉がある一方で、

「春」「愛」「花」「奪えない魂」「守れる」「晴れ間を結えば」
と強い希望や美しい言葉も並ぶ。

ただし、具体的な内容や名称は出てこない。
例えば、「花」という言葉一つにしても、具体的な花の名前が出てこない。
この曲の全体を通してそれが言える。
抽象的な太い筋が一本貫いているのだが、痛みなどの体感は伴ってくる。
おそらく、抽象的に描くことにより、誰でも経験したことのある「絶望」「失望」「失意」などの負の場面を喚起させるのだろう。
一つの物語にとどめることなく、想像力の余地を高め、当事者性を持ちやすくする。そのような効果があるのかもしれない。
だから、聞く人によっては、死別、離別、失恋、目標が叶わなかったことなど、いろいろな記憶を想起する歌に変化する。


過去形と現在形

この曲には過去形の記述と現在形の記述が交互に入り混じっている。
そして、中身をよく見ていくと、過去形の記述はネガティブで消極的、現在形の記述はポジティブで積極的な内容だ。
おそらく、これは過去の自分との対峙を表していて、過去はネガティブだったが現在は未来に向かってポジティブな姿勢に転換されているという意味だと思う。もしくは、逡巡しながらも(心理的に迷いながらも)前に進んでいくという意味かもしれない。

【過去形】
 歪んで傷だらけの春 麻酔も打たずに歩いた
現在形】
 体の奥底で響く 生き足りないと強く
 まだ味わうさ 噛み終えたガムの味
 冷めきれないままの心で ひとつひとつなくした果てに ようやく残ったもの

【過去形】
これが愛じゃなければなんと呼ぶのか 僕は知らなかった
【現在形】
呼べよ 花の名前をただ一つだけ 張り裂けるくらいに

「春と修羅」

宮沢賢治の詩である「春と修羅」をイメージして作られている、と仮定。
この詩の中には、賢治の妹トシとの別れをうたったものもある。

・「無声慟哭」

「かへつてここはなつののはらの ちひさな白い花の匂いでいっぱいだから 
 ただわたくしはそれを今言へないのだ(わたくしは修羅を歩いているのだから)」

・「春と修羅」

4月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
れいらうの天の海には 聖玻璃の風が行き交ひ
(中略)
日輪青くかげろへば 修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から 黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり すべて二重の風景を
喪神の森の梢から ひらめいてとびたつからす

「馬と鹿」
「馬鹿」はもともとは仏教用語らしい。
また、仏教の教えの輪廻転生の中には、賢治が歩んでいる修羅道のほか、動物が属する畜生道という概念もあるようなので、このこととも関係しているのかもしれない。


全体的な感想


米津さんは毎回、楽曲制作に心血を注いでいて、完成したときの喜びは大きいと思うが、その分、反動も大きいのではないかと推測する。
言い方は適切ではないかもしれないが、楽曲制作の度にある意味で「傷」を負い、「小さな死」を経験しているのではないだろうか。
人の痛みを想像することは、自分の痛みの記憶に触れることでもあるから、気力も体力も削がれるだろう。その繰り返しのような長い旅路を、彼は果敢に歩いているのだと思う。
彼の曲やトーク番組を聴いていると、誰も置いてけぼりにしない。そういう優しさが根底にある。
いちアーティストとしても華々しい活躍をしている米津さんだが、視点はいつも低いところから、広く遠くまで見ている感じがする。

上手く言えないが、「大きなもの、目に見えないもの」と「私たち」を繋ぐアースのような役割をしているのかな、と思う。



参考
 春と修羅/宮沢賢治/株式会社 日本図書センター





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