「帰国子女」が外務省に馴染むまで【元外交官のグローバルキャリア】
外務省は自分が想像していたとおりに日本的な官僚組織でした。それに馴染むのに多少の時間がかかりました。
思えば外務省が決まったことをアメリカの元外交官の教授に報告した時に「同化して、馴染む努力をしなさい。中途採用の人は国務省でもそれで苦労した。」と言われました。アメリカ社会でも官僚組織に馴染むのにはそれなりの努力が必要なのです。
一旦馴染むと、外務省は私を包んでくれて、良きに計らってくれました。
「次官になるのは全てができる一人がなれば良い。得意な英語を活かして頑張っていけばいいんだ。kuniwinさんにはしあわせになって欲しいから」と言ってアメリカ大陸の反対側に住む夫に近づけてくれた上司たちもいました。
たくさんの上司にしごかれ、大先輩に支えてもらい、同僚とうさを晴らし、過ごした16年間でした。コロナを機に半生を振り返り、これからの自分がどうしたいかを考えて外務省は「卒業」させてもらいました。今は独立してコンサル業に転じました。
入省から卒業までの道のり
ワシントンで大学院生活が終わりかけているころ、国際公共政策の修士号に手が届きそうなころ、東京から荷物を引き払ってみたは良いけれど、アメリカで働く就労ビザの目処もなく、社会人10年目の私に見合う国際関係や軍事戦略の仕事がアメリカで見つからず苦労しているころ、「外務省を受けてみない?」と水を向けられました。
受験を経験しておらず、筆記試験で結果をあまり出さない私は、公務員試験ほど縁遠いものはないと思っていました。体力、知力、気力にも自信がありません。
そして何よりも、海外で育ち、職場や学校で英語を使うことの方が長かった自分が、日本の官僚社会に身を置くことの想像がつきませんでした。
シンクタンク?軍需産業?NGO? 世銀?
その頃大学院の卒業を数ヶ月後に控えて、どこに行っても「卒業後はどうするの?」と言われて辟易していました。就職先はおろか面接に到達することもなく、「誰か私に職を!」と叫びたい気分で日々過ごしていした。
シンクタンクで新人として調査の仕事をする年齢じゃないし、専門にした軍事戦略研究に関連する軍需産業は、アメリカ国籍を持たないから秘密保全のクリアランスの申請条件にも満たないし。
NGOやチャリティー団体を検討しようにも、そのような経験もなければ関心もあるとは言えないし。そして卒業生の多くが向かう世界銀行も、経済学を苦手としている私にはしっくりきませんでした。
国連事務局では働きたくない、と再度思う
ニューヨークの国連本部に足を運んでも、国連本部の仕事が国連決議の履行のためなのか、国益でも市民の利益でもなければ誰の利益のために働いているのかがわからなくて、やっぱり自分には向かないと思いました。
就職相談中に国連本部の地下でコーヒーを飲もうとした時に、近くでタバコを吸っている人がいました。ここは喫煙スペースだったか?と移動してアメリカ国内で建物の中でタバコ?と周りを見回すと、元いたところにも禁煙のマークがあります。禁煙のスペースで喫煙させない、という単純なルールを徹底させる力がないのか、国連は、と思いました。各国やりたい放題の治外法権だな、とまで思いました。
模擬国連での国連ごっこ
高校生の時から大学時代まで国連の会議のシミュレーションを通じて実践的に国際問題を学ぶ模擬国連(Model United Nations)という活動に従事してました。大学時代は日本模擬国連委員会の委員長を務めていたくらいです。3年生の春には、グランドハイアットホテルで開催される全米模擬国連大会に出席するために二週間ニューヨークに滞在しました。最初の一週間は国連職員の方々に講義を受けて、翌週は日本代表団として模擬国連委員会に出席します。その準備に数ヶ月かけてテーマに沿った国連資料を読み解き、過去の議論を学び、外務省でブリーフィングを受けてから出発します。普段から複数の大学の合同サークルで毎週、模擬委員会を開催し、勉強し、国際会議での交渉の仕方を学びます。スピーチの仕方、議場での異議申し立て、決議案の書き方、決議案の賛同を各国からどう得るか、修正点をどう盛り込むか。公式の会議と非公式の会議をどう使い分けるか。交渉の取引材料を何にするか。誰を味方に引き込むか。
海外のインターナショナルスクールで高校1年生で課外活動として模擬国連活動を開始した私は、大会での切った張ったを楽しんでいました。英語がおぼつかない頃は、一言も声を発することがなく、自分なりに調査や資料集めをしていました。インターネットのない時代なので雑誌や図書館や各国大使館に突撃するくらいしか方法がありませんでした。
日本の代表団として全米模擬国連大会に出席した時は、安全保障理事会改革をテーマに、日本も常任理事国となるべきだ、国連憲章から日本が含まれる敵国条項を外すべきだという主張をしてきました。今でもその議論には大きな進展はありません。
仲間とニューヨークの大会に出席した経験があまりにも楽しくて、再度参加できるように次年度は代表団長に名乗りあげました。代表団員約10名を選考して、年明けから2年生や3年生で構成される団員のスピーチや交渉訓練をして、ブリーフィングをアレンジしてホテルや飛行機を手配して、皆でニューヨークまで繰り出しました。
学生時代は趣味と勉学のように国連に接していましたが、実務となると国連とはいかに議論が堂々巡りになるか、各国が自分の主張のみを繰り返すか、紛争が解決に向かって進まないか、安全保障理事会では拒否権が発動されて物事が動かないか、決議が可決されるまでにはどれくらい玉虫色になるか、可決されても罰則規定がない国際法上の効力が限定的か、という見方になりました。これはあくまでも私なりの意見で物事の捉え方です。
高校生で国連の動きを学び、国際政治を勉強している大学時代に冷戦が崩壊して、これからは東西の対立がなくなるから国連が何でも解決できる!といっときでも信じた私は若く、青かったです。平和や紛争解決に向けて国連が大きく舵を切ることにならなかった失望が大きかったせいかもしれません。国連は当時でも170近い国々が各々同じだけの声と一票を持って、物事を決めようとする機関だから簡単には物事が決まるでも動かせるでもないことは当たり前です。
国際機関で働くよりも国を代表したい
そんなこんなで、大学を卒業する際も国連職員の道には関心は持てませんでした。その思いは大学院を卒業する時も同じで、外交や安全保障を勉強した者として、国連に関わるのは国の代表としてでなければ意味がない、と思いました。それもとても個人的な意見で、私の周りの友人には国連事務局や国際機関で活躍して意味のある仕事をしている人々はたくさんいます。
国際政治に関心があるのに、何の職に就きたいかが定まらない私の卒業は近づき、帰国の日も迫り、日増しに焦ってきました。就職活動で面接にさえ行きつかない私を哀れに思った教授が、自分の教え子で卒業生の元へ訪ねるようにと私を世界銀行に送り込んでくれました。
その卒業生のイタリア女性は、就職試験に次から次への落ち、そのお断りの手紙のコラージュを作って額縁に入れて笑っていた、という強者でした。年齢は私と大きくは変わらない、パキパキとしたその世銀職員は、彼女のオフィスで私が書いた履歴書に一瞥すると、この箇所はいらない、ここは冗長的、と真っ赤に添削してくれました。なるべくシンプルに、読みやすくまとめなさいと突き返されました。そして、せっかくの機会なんだから、自分がやりたいことに妥協せずに向き合って、諦めないで頑張ってキャリアを探し続けなさい、と励まされました。
東アジア研究所での講演会やセミナーの企画
果たして自分のしたいことは何で、それよりも私を雇ってくれるところはどこなのだろうか、と頭を抱えていたころです。
大学院の授業を受講しながら、自分をそのワシントンの大学院に引っ張ってくれた教授が所長を務める東アジア研究所の立ち上げのお手伝いをしていました。名刺やロゴ入り便箋を刷り、研究所のホームページを直し、パンフレットをデザインして印刷した後、研究所主催のイベントに着手しました。その日本研究所の主催する講演会やセミナーにいかに多くの学生や教授陣を惹きつけるか、日本から財界の大物がワシントンに来られた時に、どういう場を設けて学術研究者や国務省に人たちを交えて親密に話をする場が作れるか、そのようなことを手配していました。
後にアジア開発銀行や日銀の総裁となられた方の講演会を日本に関心のない学生までどう呼び込むか、と考えた上で案内文を作り、その結果申し込みが殺到し、急遽会場を変更したこともありました。
そんな自分が実施しているセミナーや講演会で、アメリカ大使館時代にご一緒したことがあった日本の外務省の方の名前を受付で見つけました。
そこから飲み会のお誘いがあり、日本大使館の参事官の方々とご一緒することになりました。立場は違えど、東京で一緒に日米安全保障関係のお仕事をしたことのある方々で、共通の知り合いも多く、その昔話で盛り上がりました。
アメリカ大使館で見たグレーのドッジファイルの人たち
アメリカ大使館にいた時は、外務省とは自分には到底つとまらない職場だ、と思ったがちがちの縦社会の官僚組織でした。外から外務省の若手の働きぶりを見て、自分はアメリカ大使館の現地職員という責任のない気楽な立場で、なんと恵まれているのだろうと思っていました。アメリカ人の書記官達とフラットな関係で仲良くやって、叱責されるようなこともなく、永田町の政治家の先生方もやさしく、大手メディアの政治記者や論説の人や政党の重鎮にもよく食事に連れて行ってもらっていました。それに対して、外務省の方々は夜も遅く、政治家には怒られ、上司も厳しくそれはそれは大変そうな世界でした。
その中でも、防衛協議の時に、大きなグレーのドッジファイルをたくさん抱えて会議中にパラパラとページをめくって融通のきかないことを言う人たちがいました。「条約課」という部署の人たちで、書記官達と「グレーのファイルの人たち」と、前例や解釈に固執したその固い交渉態度を揶揄していました。
外務省の特定分野の臨時募集
自分が馴染めるはずのない世界、と決めつけていた外務省の採用試験に対して、半ばほっとしたように「もう年齢制限過ぎてますよ〜」と笑って返答しました。それに日本の高校受験も大学受験もせずに帰国子女枠で書類と語学と面接で全てを切り抜けてきた私が国家試験の勉強をする方法が会得できているとも思っていませんでした。
ところが、この採用試験は通常の採用ではなく、外務省が若干数を臨時募集しているのだと言うのです。その数年前に外務省の機密費流用事件があり、失望した一定数の職員が辞職した穴を埋めるために臨時募集制度ができたのでした。海外にいる適任者に応募を勧めるように、との本省からのお達しがあったとのことでした。
そう言われてみると、国際政治の修士をとって、自分は外務省に入りたいのだ、という気になりました。その勢いに任せて、応募書類をしたためました。もちろんワシントンの日本大使館の方々から応募を勧められたと個人名まであげてアピールしました。
試験は第一次選考が書類選考、第二次選考が語学、論文、面接でした。試験勉強はしようがありません。「安全保障と軍備管理」という特定分野を第一志望に、語学は子供の頃から使っている「ドイツ語」と、論文が書けるレベルの「英語」で迷った末に後者を選びました。第一次を通過し、第二次選考に挑むことになりました。
小学校はドイツで現地の公立校に入学して、大学に行くまで日本の学校に通ったのは小学校5年生の二学期から中学2年生の一学期までの3年間でした。中学、高校はインドネシアのインターナショナルスクールで国際バカロレアを取得しました。日本で大学に進学することを選んだのは、日本のことが充分にわかっていない日本人であることを父から指摘されたからでした。
国際的に勝負したのであれば自分の母国をよく知った方が良い、そう言われて大学はバンカラで周りにあまり自分と同じような帰国子女がいない学校を選びました。
おかげで居酒屋で「おっとっと」とお酌をし合う環境にも馴染み、仲良くなったクラスメート達は日本育ちでした。そんな彼らは私のことを「立派な日本人だよ」とあえて言ってくれるほどに、周りから浮いていました。ゼミの先輩の中には私のことを「日本語が上手い外国人」だと思ってたという人もいました。
大学3年生のゼミの選考の際の面接の時です。志望先の国際政治と安全保障のゼミで、担当教授は「君は帰国子女だね。僕は帰国子女は信用していないんだ。」と言い放ちました。人生で何度「帰国子女」のレッテルを不信感や異質なものと共に貼られたことでしょう。ちなみに、ゼミの恩師とは卒業して30年経った今も仲良しです。
新卒で日本企業に就職して、大学院に進学するまでの14年間を連続で日本で過ごして、ようやく日本に同化して日本に居場所を確立したという感覚ができたところでした。それでも転職を経て、直近の勤務先はアメリカ大使館という、日本にいながらにしてのアメリカで居心地の良い4年間を過ごしていたのでした。
トライリンガルの帰国子女と官僚文化
そんな自分が霞ヶ関の官僚文化に馴染めるとは到底思えませんでした。大使館の一部の人たちとワシントンで仲良くしていたからと言って、自分が外務省で務まるのか、その仕事ぶりに合わせられるのか、その自信はからきしありませんでした。でも他に就職先があるでもなく、自分には選択肢がありません。一通り試験を受けて、先方が組織文化に馴染むか否かは判断してくれるだろう、それくらいのことは判断する採用のプロ集団だろう、と委ねていました。
第二次選考の面接では、志望理由を聞かれて、外務省に入ることは昔からの夢だった、と答えました。答えながら、それではどうして大学時代に外交官試験を受けていないかのつじつまが合わないな、とよぎりました。
明日東ティモールに行くように、と言われて行きますか、と聞かれて「もちろんです。」と答えながら、行かないさ、と心の中でつぶやいていました。
「結婚についてはどうお考えですか?」と聞かれて、アメリカ社会に浸かっていた私は、この質問は答えなくて良いひっかけ問題だろう、とうすら笑いを浮かべて次の質問を待っていました。回答を促すような視線が面接官から送られて、意を決して「したことはあります。」と答えました。この質問は男女差別や違法ではないのかと戸惑いました。納得したようにうなずいてメモをとる面接官を見て、再婚は考えないとは言っていないのだけどな、と思いました。
この30分間の面接を通じて、きっと自分が役人に向いているかいないかを判断してもらえる、霞ヶ関文化でやっていけるかどうかを見極めてくれる、と期待をかけていました。
そして後日合格通知が届きました。
配属先は、グレーのファイルを抱えていた人たち、自分がもっとも縁遠いと思っていた、英語を話すことはなく、外務省の文書を確認し、法令文書決裁する、外務省の最後の砦だと思え、と言われる条約課でした。
志望した「安全保障と軍備管理」ではなく「条約と法律」の特定分野での採用となった、と大学院で一緒だった省内の友人が明かしてくれました。
周りは優秀な生え抜きばかりで右往左往
そして、条約課というのは、唯一の出向者も裁判官という、他には生え抜きの外務省員しかいない部署でした。他の部署には他省庁や民間の出向者がたくさんいるところもあるのに、よりによって一番日本的で官僚的な部署に配属になりました。課の同僚達は皆日本で育ち、多くは名だたる高校から東大へ進んだ人たちです。専門職の同僚の中には海外で育った人たちもいましたが、幼少期の一時期を過ごし、通常の外務省の試験を受けて入省した立派で優秀な外務省員でした。その課は省内でのステータスも高く、優秀な人たちが集結し、事務次官の登竜門として知られていました。
大学時代と大学院で合わせても片手の数ほどしか法律や国際法の授業をとったことがない政治専攻の私が。アメリカ大使館勤めの4年間で日本語で文章を書いた経験すら長らくなく、翻訳よりも圧倒的に通訳の方が得意な私が。外務省の仕事内容もわからず、官僚になる自信が全くない私が。外務省の中でも最も官僚的な部署で外交の真髄のような法律部門に、根性のない私が。憲法や国際法の授業さえもまともに聴いていなかった私が、厳しくハードで長時間勤務で知られる外務省の法律家として扱われる部署に配属されました。
そこから、他部署からの課長の決裁を済ませた決裁書に見様見真似で鉛筆で修正や訂正を日本語で入れていく日々が始まりました。自分の唯一の武器である英語での話術を使うことなく、法令用語を学び、法的整合性を吟味し、時には内閣法制局にお伺いをたてに行き、閣議請議、条約署名、国会への条約提出が主な仕事になりました。
右も左もわからなかった数ヶ月た経ち、半年も過ぎて状況が少しは見え始めた頃には、まちがったところに来てしまった、という思いでいっぱいでした。
採用ミスに違いない
採用の判断も、配属先の選定も大いに見極めが甘かった、と痛感したのは私よりも当時の上司達だったと思います。「中途採用を条約課になんて無茶すぎる」と課長が言うこともありました。泳げもしないのに荒波に放り投げられた状態でした。採用時に英語の成績は良かったようです。そして学部と院の学校名もそこそこ名が通っています。それだけが理由での配属なのかしら、と日々叱られながら耐えていました。
自分が上司に出した決裁書が、原型を止めないほどに真っ赤になって戻ってきていました。自分が見る意味はないのではないか、と萎えていました。法的文書を見る際に「英語なんて別に出来なくって良いんですよ。」と言われることもありましたが、自分の唯一の心の拠り所は英語です。せめて通訳がやりたい、と訴えても生え抜きでないとその仕組みに乗れないと言われました。通常の仕事が満足に出来ていないのに、追加で通訳どころではないという判断もあったのでしょう。
上司が変わっても、「全然ダメ」とか「意味がわからない」とポストイットが貼って戻ってきたことも一度や二度ではありません。忙しい同僚を煩わせて、要点の捉え方を教えてもらい上司に「やればできるじゃん」と言われたこともありますが、何をやるかさえも分かっていなかったのです。
上司はいつも朝方まで残っているのだから、と「大急」と赤い紙がついたままの決裁書を置いて帰宅すると後で大目玉を喰らいました。「大急」をあげている場合は当然待ち受けるものですが、そもそも私がたてた決裁書でもなく役人になりたてで当事者意識も足りていないので、当たり前のように置いて帰っていたのです。
新入省員の徒弟制度のような課内研修も受けていないので、国会周りの担当も仰せつかり、定時よりも早く毎朝出勤することになりました。定期的に回ってくる国会当番の際は朝方まで書類を回すことも多く、定時で帰ることをモットーとしていた自分にとって、人生初めての超長時間勤務でした。
そしてお給料は10年前の新入社員時代よりも安く、これまた実家ぎ東京という事で宿舎もあてがわれず、久しぶりに実家で暮らすことになりました。給与明細を父の目に触れるところに置いておくと、その額の低さに驚き、家に入れる金額がだいぶ下がりました。
課内一筋の悪い案件を三つも抱えている、と言われるほどに複雑で整合性の取れない大量殺戮兵器条約や軍縮関連の案件に悩まされていました。モスクワ出張の話が出ていた頃、朝早く夜は遅く、何をやっても壁にぶち当たるその状況にもう限界を感じました。すでに局長から「大丈夫?」と廊下で声をかけられるほどに体調も崩していました。
日本には四季がある
疲弊している私に、同じ臨時募集で入った元自衛官の同僚が、「私は四季のない国にも住んでいたので分かりますが、日本には四季があります。春になれば気持ちも変わりますよ。」と語りかけてくれました。省内に散らばっているサークルの先輩やゼミの同僚や先輩が話を聞いてくれました。「最初から残業しない人なんだ、っていうスタンスを貫くべきだったんですよ」と言った大学院の同級生もいましたが、時はすでに遅しです。
それでも課内で席替えと担当替えを施してもらい、「課内一の筋悪案件」から担当部署から頼りにされる前向きな経済協力案件を見ることになりました。それに加えて通訳業務も入るようになり、省内に知り合いが瞬く間に増えました。
違う視点を持ち、違う世界を知っているということ
そして気づけば16年半の年月を外務省で過ごしました。条約課から異動してそのまま13年間海外の在外公館に勤務していたおかげかもしれません。
帰国して本省に戻ってきた時は、恐れていたよりもすんなりと新たな仲間や居場所を見つけることができました。
本省に戻って、周りには中途採用の人もたくさんいて、任期付きの職員の人やパート契約の人、出向者、と様々なバックグラウンド人たちと一緒に働いていました。部局が違えば文化も違うのでしょう。
コロナ禍を機に人生を見直して、外務省を卒業しました。世間的に見ると私は「元外務省員」、「元外交官」です。
でも自分が胸を張ってそう名乗れる資格があるとは思えません。中途採用だし、ほとんど総領事館での勤務だったし、専門職だし、16年しかいないし。でも異質だったからこそ、他の組織での経験があるからこそ、外務省から転職し、そして独立したからこそ分かる汎用性のある外務省員のスキルに気づけました。
バンカラ大学に行った時と同じように、霞ヶ関にいっときでもプロパーとして内部から日本の意思決定を学び、参加できたのはこの上なく貴重な経験でした。そして外務省は私の心のふるさとです。
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