見出し画像

企業戦士だった高齢者と遊び続けるために

いつかは父や叔父がそうだったように自分も幹部職に就くのだろうと思っている。仕事が趣味だった叔父のように代表取締役になることは無理でも、おおらかな父が現役時代に得た年収を超えることを目標にしている。父も叔父も昭和の高度成長期を支えたサラリーマンで、団塊の世代のちょっと上だ。新入社員として就職した企業で役員にはならずとも、子会社や転職先での第二、第三のキャリアを全うして、今は厚生年金と企業年金で暮らしている。氷河期の始まりとともに社会人となり、転職を重ねている自分には望めない年金生活だ。

叔父と私は性格や考え方がよく似ていて、親子に間違えられることがある。叔父は「人は使ってなんぼ」と言う。私は仕事の振り分けが上手い。二人とも問題解決型の思考を持っている。相手を尊重しつつ意見を主張するアサーティブコミュニケーションに長けている。父と私は同じ顔をしているのに、「似ていますね」とは言われない。父はあまり細かいことにはこだわらないし、最近は交渉事にも調整にも及び腰になっている。外部とのやりとりでも、今は「私から言おうか?」という長男としての役割を担っている。80歳の父と私は今もよく一緒に過ごしていて、子供の頃に父に「行くか?」と誘われてスケートやプールについていったように、今は「行きたい?」と声をかけて二人で寄席や芝居に行っている。しかし、叔父とはそういう風につるむことはない。

叔父のてんかんとコロナ禍での変化

その叔父が70を超えてから家族との会話にも参加せずボーッとすることが増えた。その頃、日本を離れて赴任していた私は、帰国休暇で会う叔父の理解力が落ち、社会性も衰えていることに気づいていた。その後、二度ほど道端で倒れ、救急車で運ばれたことがあり、高齢者てんかんと診断された。電話越しに、散歩の動機にもなるので、せめて犬を飼うことを犬好きの叔母に訴えていたが、「マンションがペット禁止だから」というのが繰り返される答えだった。海外から二人の高齢者を遠隔で見守ることは難しかった。

叔父と叔母には子供がおらず、私にとってはもう一組の両親のような存在だ。30年前、大学一年の夏、父母が海外転勤した後、2年間叔父と叔母の家に下宿させてもらった。下宿を始めて間もなく、叔母に促され教習所に通い運転免許証を取った。叔母に料理の基礎を教わり、行動力が伴わない私は生花教室にも通った。運転免許取得後は、叔父を助手席に、叔母を後部座席に乗せ、叔父がハンドブレーキに手を添える中、運転を教えてもらった。首都高速での運転練習もし、大学時代は下手な運転で叔父の車を乗り回していた。就職してからは、社長候補路線の自慢の叔父を仕事関係の大先輩に紹介し、食事をご馳走になっていた。

脳梗塞で片麻痺と高次脳機能障害

叔父がてんかんと診断された数年後、私と夫は異動により日本に帰任し、父母が暮らす二世帯住宅での生活を始めた。引っ越して半年が経ち、コロナ渦に巻き込まれた結果、父母と共に過ごす時間が増えた。緊急事態宣言が発令された中、症状が落ち着いた叔父と叔母を招いて、両親と6人で庭でバーベキューやピクニックを楽しんだ。その頃、私たちが飼い始めた犬と庭で遊び、叔父と叔母とも定期的に顔を合わせるようになった。二度目のお正月を迎えた時には、叔父の認知力が60代の頃とほぼ変わらないほど回復し、家族での団欒が弾んでいた。

ところが正月を一緒に祝った数週間後、叔父は脳梗塞を患い緊急入院をした。直前にあれだけ改善した叔父が、脳梗塞による右半身の麻痺と共に高次脳機能障害と診断された。集中治療室にしばらくいた後にリハビリ病院に転院した。コロナ禍で面会もままならない状態で、「家に帰りたい」と涙して叔母に日に何度も電話をかけていた。穏やかでいつもふざけている叔父が、ちょっと待たされるだけでも大きな声をあげる別人となっていた。

入院していればリハビリの効果が上がる事はわかっていたが、精神衛生上は早期に退院する方が良さそうだった。ゴールデンウィークが明ける頃の退院時に、医師から認知力の低下から片時も目が離せなくなるだろうと言い渡された。家の中でも自力歩行は望めず、車椅子での移動となる。高次脳機能障害は徐々に改善しても、自分で歩くことは難しいだろう、と言われた。都内のマンションでの叔母の介護負担が大いに心配された。

引っ越しと三世帯での生活

叔母は住み慣れたマンションの14階で一人で叔父の面倒をみる覚悟だったが、それは現実的ではなかった。母の主導でハウジングメーカーとの打ち合わせが開始し、両親と私たち夫婦が住む二世帯住宅の家の前に小さな家を建てることになった。母と叔母が育ったその土地の庭の中央には藤棚がある。夫がその藤棚の下にウッドデッキを作ってくれて、季節の良い時は藤棚の下で食事を取っていた。その藤棚のデッキに叔父が出やすいような家の間取りにして欲しい、とハウジングメーカーに頼んだ。叔父と私は家族の中でも特に屋外で食事をするのが好きだ。

こうして三世帯での生活が開始して一年が過ぎた。春には庭でお茶を飲み、初夏には満開の藤の下で母の手料理を楽しむ。父母か叔母の運転で4人で市内のデパートに出かけて行く。近くの都立公園まで犬を連れて電動車椅子を使って散歩に行く。叔父は通所リハビリに通ってはいるが、叔母は「全然リハビリに熱心じゃない」と不満げだ。1階に住む両親と叔母は、玄関を使わずに庭づたいに長谷のように互いの家を行き来している。母と叔母は仲良し姉妹である。叔父と私に血のつながりはない。

2階にある我が家で夕食会を主催して、叔父にステーキ目当にリハビリがてら階段を昇らせる。夫と父はしょっちゅう二人で飲んでいるが、そこに叔父も加わって車椅子で3人で焼き鳥を食べに行くこともある。叔母のもとを離れると叔父の自立性が格段に上がり、ひとりでできることも増える。

関西出身の叔父の得意のお好み焼きを揃って食べることもある。山芋ベースで小麦粉を入れない、出汁が効いているこのイカ豚玉を食べると、他では関西風お好み焼きが食べられなくなる。右半身が使えない叔父はお好み焼きをひっくり返すことはできないが、叔父の音頭でお好み焼きが焼き上がる。


ある時に私がハルピンの餃子をたんまり買ってきて、叔母の家で餃子パーティーをした。後片付けをする母と叔母がカウンターキッチンに立っている間に私が始めたばかりの合気道の話になった。合気道の動きが右脳に働きかけていること、自分の四肢の使い方がぎこちない、という話題がソシアルダンス、ダンスホールへと移っていった。当時の流行りはツイストだった、と叔父が言うので曲をかけると、叔父が杖をついて立ち上がってツイストを踊ってみせた。私も映画「パルプフィクション」のユマ・サーマンを真似てツイストした。

カウンターの反対側から、長年日本舞踊をやっている叔母が「こうよ」とツイストのお手本を示しに出てきた。リズム感に乏しい父も椅子から立ち上がり腰を突き出し足を動かし始めた。踊り出す父を見て、幼少期にバレエをやっていた母も洗い物の手を止めてツイストしている。
誰に促されることなくツイストをし始めた4人のこのシュールな光景を長引かせたくて、続けてパルプフィクションのダンスシーンの曲「You Never Can Tell」をかけた。


その時すでに私は会社を辞めていた。このひとときは時間に追われることがない心のゆとりが生んだ夕食後の時間だった。仕事を辞める前は、週末であっても公園の散歩の数時間でやるべきことが頭の中を巡る。仕事中に声がかかるお茶の時間は自分の中では30分と捉えているのに、なかなかお茶が出てこないことにペースを乱される。会社員としての時間配分と時間がゆっくり流れている元気な老人達とのリズムは当然合わない。

介護のための辞職ではなく、フレイル予防の辞職

仕事で13年間日本を離れて過ごし、久しぶりに同じ空間で同じ時間を過ごしている高齢の両親と叔父と叔母。4年前の帰国直前に、今度日本に戻った数年間の間にやることとして「おじちゃまとおばちゃまとあそぶ!」とノートに書き込んでいた。叔父と叔母と日本で遊び続けるために、80代となった両親を置いて長らく海外に出ないために、16年間勤めた外務省はすでに2年半前に辞めて、転職をしていた。

これからの自分の5年、10年間は、企業の役員を目指して老人達との時間を切り捨てるよりも、私がやるべきことでやれるべき仕事を厳選すべきではないか。サラリーマンを辞めて、フリーのコンサルタントとして個人事業主となるか会社を起こすかして、何とか暮らしていけるのではないか。

今優先すべきことは、「たすけてくれwifiが止まった」という連絡を受けてルーターの電源を入れ直したり、「プリントできない」と言われて抜けていたコードを差し込んだり、「アイス買ってあげるから」と叔父を散歩に誘い出すことではないか。お好み焼きパーティーを叔父に持ちかけて、従兄妹家族を叔母に引き合わせたりすることではないか。そういった刺激を与え続けることで、こちらが依存し続けることで、高齢者の健康寿命を伸ばせるのではないか。

給与アップと肩書を目指して、時間と心の余裕を奪われて、私に残るものはなんだろうとよくよく考えた末の辞職と脱サラだった。

そんな矢先に踊ったツイストだった。もう家の中を自力で歩くことはない、と言われた片麻痺の叔父がツイストしていた。


そして踊り終わると、長老達はまるで何事もなかったかのように着席してデザートのアイスクリームを食べていた。


この記事が参加している募集

#仕事について話そう

110,014件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?