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SNSで疲れた人に薦めたい「禅」

つい1-2年前に「マインドフルネス」という言葉で、座禅のように瞑想を行うことが海外でも話題となりました。

禅をある歴史小説で知ってから、禅とは何なのかを自分の中で掴みたくなり、鈴木大拙の「禅」という本を読みました。

読むうちに、SNSなどで情報を大量消費する現代だからこそ、大事な考え方なのではないかと思いました。

本の内容はけっこう難解なのですが、禅の捉えにくさ、奥深さをもって禅のことを少し知れた気がしたため、本にある内容をもとに「禅」とはどういうものなのかを書いてみます。

(※文章には一部私の解釈も含まれていますので、真に禅を知りたい人はぜひ読んでみることをおすすめします)

禅とは、自己の本性を見抜く術

「術」とあるように、物事への接し方、向き合い方を示した、いわゆるHowであるに過ぎません。

禅はそもそも、インドで発祥した仏教が中国に渡って派生し、日本にも伝わってきたものです。
インドから中国へと伝わる中で、思想の内容そのものよりも、日常にどういった効果があるのかに関心が寄せられてきました。

禅の境地に達することができれば、自己の本性、物事の本質を捉えられるようになる。この境地に達するため、僧は日夜修行を重ねたといいます。


禅は自分を一切の束縛から解放し、本来の力を解き放つもの

生きている中で、自分にとって束縛だと感じる物事ってあると思います。その中でも禅で強調されているのは、「二元論」の世界から離れることです。

二元論とは、「良い or 悪い」「勝ち or 負け」といった、相反する2つの原理や要素でできる概念のことです。

この考え方をした経験が、全くない人なんて居ないんじゃないかと思います。何と言ってもわかりやすいですし、例えば年収や学歴だったり、社会の中で様々な二元論が溢れていると言えます。

禅ではこの二元論から自己を解放し、真に自分や物事と向き合うことの重要性が書かれています。


禅は知性で捉えるのでなく、自己の体験の事実に基づくもの

禅は論理的な概念ではありません。何より自己の体験に基づき、自分の言葉で捉えることが大事だとされています。

本の中で、禅の師から学ぼうとする僧が、師にめちゃくちゃに振り回されるエピソードが多数出てきます。

例えば、禅の真理を得たいと言う僧に、師が持っていた杖を渡し、「これが真理だ」と言います。
はてなマークが浮かびまくる僧に、「私がこれを真理だと言えば、お前は受け入れるのか」と言い捨てます。

僧を馬鹿にしているかのようなやりとりですが、
これは、あくまで第三者の言葉ではなく、自分の体験と言葉で辿りつくことの大事さを分からせようとした話です。

一切の外的関係を離れて、目の前の物事を捉えるとき、そこに禅があるといいます。(真に理解することはなかなか難しいので、ぜひ本を読んでみてください笑)

インターネットが発展し、SNSで様々な人と簡単に接せられ、1日に膨大な情報を得られる現代において、違和感を感じつつも周りに同調したり、「いいね!」など他の人からの承認を得ようとする行為が、過度になっていないかを思い返すきっかけになりました。

こないだ実際にお寺に座禅を組みに行きました。そこでは何も考えず、頭を空っぽにするのだと言われました。

やってみると結構難しいです。
普段から暇さえあればスマホを触っているので、何も考えない時間を1時間も続けるのは苦痛でもありました。
しかし座禅は日頃考えていることを完全にシャットアウトするので、禅に触れてみるのにおススメです。

座禅までいかなくとも、日常の中でSNSを閉じ、スマホから離れてみる時間をとってみてはどうでしょうか。リアルな日常の世界で触れて感じたことから自分と向き合ってみる。

「最近ネットしか見ていないなぁ」「同じ毎日に疲れたなぁ」という人に、1,000年以上も昔の人々が作り出した禅は、そうした自分と向き合う時間の大事さに気づかせてくれる、新鮮な存在かもしれません。

引用・参考元:「禅」(著者:鈴木大拙、翻訳:工藤澄子)

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