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筆禅道、究極の書。

はじめに

みなさんは筆禅道を知ってますか?

少し前の記事で書道や墨蹟について簡単に紹介させて頂きました。今回はそこから一歩踏み込んで、よりマニアックな筆禅道の世界をご紹介します

筆禅道はその名の通り、筆で禅を行ずる(修行する)ことをいいます。昨今、禅がマインドフルネスの文脈において「ZEN」として世界中で認識されて久しいですが、筆禅道は無心な状態で書を書く行為を言います。

禅とマインドフルネスは似て異なるもの

数ある書派の中でも、墨蹟をルーツに持つ筆禅道は究極の書といって差し支えないほど奥深い魅力を秘めています。今回はそんな筆禅道について知ってもらえたら嬉しいです。

それでは。

筆禅道とは何か

筆禅道とは先に書いた通り、筆で禅を行ずることです。行ずるとは修行を指します。筆禅道の理解を深めるために、禅について簡単に知っていただく必要があります。

禅は、非日常的なものではなく、当たり前の人間生活(日常)から離れずに自己が当面している「いま、ここ」になり切ることです。また、自身の存在(本当の自分)を探求する(見つける)活動そのものを指します。よく無になるといった文脈でマインドフルネスと混合されますが、禅とは明確に区別されます。

なり切るとはちょうどコマがフル回転して、あたかも静止しているような状態であり、無心ともいいます。禅を行うとは、そんな無心を続けながら、自分自身の存在を探求し続けます。簡単ではなく、絶え間ない工夫と努力が必要だからこそ、修行と切って切り離せない関係なのです。

臨済宗の臨済義玄という人は、禅とは無位の真人のはたらきであると言っています。何もないところでの人間の働きとでもいいましょう。

そういった「書を通した無心の自覚的な行為」が筆禅道です。では、どういった経緯で筆禅道と呼ばれる書のジャンルが確立されていったのかみていきましょう。

筆禅道と書道は何が違うのか

筆禅 "道" と言っても、本来の書 "道" と全く異なるものではありません。本来 "道" は一つであるから区別する必要はないはずです。そこをあえて区別しているのにはもちろん意味があります。

筆禅道の創始者である横山天啓先生は、今日一般に言われる書を文字を題材とした造形藝術とするならば、その目標とは違うという意味で筆禅道と称しました。技術を持って表面の形のみを追求していく傾向が出てきた近代以降のジャンルです。

横山天啓(1882年〜1966年)
書道の本源を求めて、八十余年の生涯を書と禅に捧げた横山天啓翁は、書における墨気と境涯を重んじ、筆禅道を提唱、実践した。世に媚びることなく清貧の中で道を求めた翁の姿は"書仙"の趣があった。
禅画報

そんな横山先生の跡を継ぎ、筆禅道を確立した寺山旦中先生(1937年〜2007年)は禅の書の魅力についてこう語っています。

寺山旦中先生

三つの言葉、慈悲(慈しみの心)・和(柔軟でやわらかい心)・直(純粋でまっすぐな心)これらの感情は元々宇宙にあるものであって、人間がつくったものではありません。個人を超えた私たちの源である故に、そこに触れた時に人は感動します。

わたしたちは生かされているという禅の思想に向き合って、書を見てみると新しい発見がそこにはあります。

禅の書は何がスゴいのか

筆禅道が究極の書であると思う一番の理由には、天命を生きている線がそこに現れているという点にあります。いきいきとした気が響きあうといった意味を持つ気韻生動という言葉があります。この気韻生動の顕れている書が生きている書といえます。

久松抱石先生は禅の書に限らない禅芸術全般の性格として次の7つをあげています。

  1. 「不均斉」形の上で均斉はとれていなくても良い

  2. 「枯高」作為がなく、気高くて位がない

  3. 「簡素」さっぱりとして単純で混じりけのない

  4. 「自然」である、無心

  5. 「幽玄」簡単だけど奥深い

  6. 「脱俗」なにものにもとらわれていない

  7. 「静寂」すぐれたものは非常に静かで、確固たる無動からくる

これらを見てわかるように技術だけではなく、精神性や心の内面と定力(無心を持続させる力)といった質を伴う必要があることがよく分かります。

富士画讃 天下第一峰:寺山旦中書

禅書の成り立ちと評価

筆禅道のルーツは墨蹟にあります。一般的に禅宗の高僧達が遺した書のことを墨跡といいます。

日本では臨済宗を主とする鎌倉・室町時代と、江戸時代の大徳寺の著名な禅宗の高僧の筆跡を墨跡と呼んでいます。中国のものだと宋・元時代の高僧の筆跡を墨跡というため、禅書と墨跡は同義です。

この臨済禅の系譜の一つには、3人の師弟が重要な役割を果たします。大応国師(1235年~1308年)、大燈国師(1282年~1337年)、関山慧玄(1277年~1360年)、3人の名前をとって応燈関(おうとうかん)といいます。

この応燈関の流れの中で、後に一休禅師(アニメで有名な一休さん)や白隠禅師といった人物が出てきます。こうした高僧達が遺した墨跡がいつ頃から人々にとって特別な意味を持つようになったのか見てみましょう。

室町時代、茶道に初めて禅的思想を取り入れたのが村田珠光です。珠光は、一休から禅を学び、その悟りの証明として墨跡(圜悟克勤)を与えられました。そして、当時流行していた連歌の美意識である冷え枯るる美しさと、禅の思想に立つ無一物の精神を茶道に実現しようとしました。

珠光の弟子である武野紹鴎(たけのじょうおう)は侘びという言葉を初めて茶道に使い、中世芸術としての茶道を確立しました。珠光と同じく、大徳寺の僧から禅を学び、虚堂智恵の墨跡を秘蔵していたと言われています。

茶道をほぼ完成の域にまで高めたのが、紹鴎の弟子である千利休です。彼もまた大徳寺の僧から禅を学び、茶道と禅の関係をより一層深いものとしました。千利休こそが、茶席における墨跡の地位を飛躍的に高めました。利休の茶の湯の教えを筆録したと言われるという本に以下記述があります。

掛物ほど第一の道具はなし。客亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物なり。墨跡を第一とす。
南方録

掛物が茶の湯にとって最も大事な道具であり、墨跡が第一、墨跡を見ることで悟りうるという意味です。この時から墨跡は、茶掛けとして尊重される歴史を歩むことになります。

墨跡に書いてある仏語、そして書いた人物の徳を学び、筆者のエネルギーを感じる。墨跡を掛けてみるということは、筆者と相対峙することと同じといっても過言ではありません。それ故に墨蹟を見て悟りうる、とわたしは解釈しています。

寺山先生の言葉の中に「本当に無心になって墨跡をみれば道を悟ることができる。それだけのものが墨跡にはある」と仰られていたのを思い出します。

千利休や村田珠光といった人達は、墨蹟のエネルギーを肌で感じることができたので、茶の湯の席に掛けたかったのかもしれませんね。

本来の自分に出会う、そのサポートをしてくれるのが墨跡といえます。

わたしは今も自分が何者なのかに関心があります。若かりし頃の自分探しを今も続けているような感覚です。生きている間に答えは見つからないかもしれないけれど、筆禅道を通じて自分探しを続けています。

永遠の自分探し。その手段である筆禅道。だからこそ究極の書だとわたしは考える訳です。

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