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書道の世界と墨蹟にみる精神性

こんにちは、kuniです。

今回の記事では、書道やその一分野である墨蹟についてお話しさせていただきます。わたしは、書道のプレイヤー(書家)として活動しながら、それ自体を対象に12年間に渡り研究を続けてきました。伝統文化である書道について、その魅力を伝えられればと思います。

ヒトは何かを伝えることを目的に、文字を書くという手段を身につけました。デジタル社会においては、文字を書かずともコミュニケーションが成立し、もはや書くこと自体が特別なことになりつつあります。

だからこそ、文化や古典という観点から書道を見直すことが重要だと思っています。古典から創造性や精神性、表現力を養うといった点において、わたしが今やっている能楽の事業と本質的に変わりはありません。

ちょっとでも書道の見方が変わったり、文化や古典について関心を深めてくれたら嬉しいです。それでは。

人は心に思うとおりのひととなる(書:髙津久仁枝)

書道と習字の違い

ここまで書道という言葉を使ってきましたが、一般的に馴染みがあるであろう習字と書道は別物です。習字は、読んで字のごとく字を習うこと。書写ともいったりしますが、意味合いはほとんど同じです。書写は小中学校の必修科目名であり、学習指導要領に「文字を正しく整えて読みやすく書くこと」と記載があります。文字を書くにおいて、正解が存在し、規律が重要視されるのが習字であり書写です。

一方で、正解がないのが書道。毛筆を用いて文字を巧みに書く術。基礎があって成立するものであり、造形芸術といっても差し支えないでしょう。書道は2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。(申請は中国)

なお、小中学校における科目名は書写ですが、高校では書道に変わります。高校の書道では、筆の穂先のはたらかせ方やはこび方等の書法や、一度の墨継ぎで気持ちを切らさず書くようにする気脈に代表される表現方法を学びます。

高校の書道科目は選択制であることが大半のため、書写で基礎を学んだ人の応用編という位置付けでしょうか。表現だけでなく鑑賞の能力を伸ばすことも目標におかれています。なお、書道の教員は書道科の教員免許が必要です。(小学校は教員免許、中学校は国語の教員免許です。)

壮大な書道の世界

そんな書道の世界ですが、現在においては大きく分けて芸術系と教育系と2つの会派に分けられています。会派ごとにそれぞれ独自の検定試験などを主宰しており、書道の普及活動に努めています。

わたしは、芸術系会派の毎日書道会に長らく在籍していましたが、2007年に同じ芸術系会派の読売書法会へ移ることになります。誰に師事するかによって所属する会派が変わるのも書道界の特徴かもしれません。

職業人としての肩書きは大きく4つでしょうか。習字教室の講師、学校教員、芸術家(アーティスト)・デザイナー、筆耕士に分けられます。日本を代表する書道家として武田双雲さんの名前は聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。

表現方法は自由(書:髙津久仁枝)

墨蹟がバズった鎌倉時代

そもそも書道は中国が起源であり、飛鳥時代頃に仏教伝来と共に日本に広がっていったとされています。時代ごとにその位置付けは異なりますが、古くは仏教の教えを広く伝えることが目的でした。その後、かな文字など日本独自の文化として書道は発展していきます。

さて、掲題にある「墨蹟(ぼくせき)」は鎌倉時代に多く取り入れられた書風のひとつです。

鎌倉時代は、武家と僧侶の台頭があり、書道は貴族だけでなく、武士や僧侶のたしなみ(教養)として重要視されていました。この時期、中国から禅宗を普及する僧侶が来日するようになり、日中の交流が盛んになります。

中国から日本に来る禅僧は、位の高い僧侶のため禅林高僧といいます。その禅林高僧の筆跡のことを禅林墨蹟と称し、禅宗とともに当時の武士の間でとても流行しました。今風にいえば、インフルエンサーである禅林高僧によって禅宗や禅林墨蹟が武士階級の間でバズったといえば良いでしょうか。

当時の武士は、戦(いくさ)という生業を正当化するための拠り所を必要としていたこと、また貴族階級に対するカウンターとして禅宗を新しい文化として受け入れられたのではと考えられています。

そんな禅林墨蹟は、精神を重視する自由で人間味に飛んだ書風であり、当時の伝統や格式と一線をかくしていました。

その後、墨蹟は茶の湯文化とともに日本独自の進化を遂げ、やがて日本書道史において重要な位置を占めることになります。

わたしが禅林墨蹟に出会ったのは、大学院博士前期課程で書道専攻に在籍をしていた頃。一山一寧という禅僧の墨蹟に心がときめきました。

大学院時代の卒業制作(書:髙津久仁枝)

墨蹟と茶道のおいしい関係

さて鎌倉時代に、教養的なニーズを獲得し普及していった書道ですが、室町時代から戦国時代にかけては一時衰退してしまいます。

一方で茶の湯の普及に伴い、茶室を装飾する文化が生まれます。そんな中、茶室の掛軸として墨蹟は欠くことのできない地位を獲得していきます。

墨蹟は、書風の一つとして実用的に取り入れられていった鎌倉時代とは異なり、アートコレクションとしての役割を果たすことになります。

ちなみに、茶道には掛け軸にお辞儀をするという作法があります。おもてなしの主題であり、茶室で修行を積んだ僧侶に出会う事になるため、お軸に対して頭をさげるのです。

茶道は禅に精神的な拠り所を求めていたため、禅と結びつきの深い書である墨蹟とも密接な関係性があります。

皇室から認められた外国人僧侶

先に触れた一山一寧禅師(以降 一山)について。

一山は、元の使者として来日しました。来日当時はスパイと疑われ、伊豆の修善寺に幽閉されることになります。しかし、その優れた才能はやがて認められることになり、時の執権 北条貞時は一山を建長寺、円覚寺、浄智寺の住職に迎えます。更に、後宇多上皇は一山を京都に招き、南禅寺に勅任せしめることにもなりました。

南禅寺は、国家鎮護や皇室の繁栄などを祈願して創建された日本最初の禅寺であり、最も高い格式を持ちます。そんな南禅寺にいわゆる外国の僧侶が住持したのは日本で最初のことでした。

これは、貴族階級にも次第に禅が取り入れられるようになった事を示すものであると同時に、一山の人望が厚く人格も優れていた事を明らかにします。更に、優れた弟子を育て、中国書法だけにとどまらず日本独自の優美な感覚を兼ね備えた流麗な墨蹟を残します。

今から700年以上前の中国の僧侶が、国の文化の違いをこえて日本に貢献していたとは驚きです。

一山一寧 700年大遠忌@帰一寺(左:水墨画家 林 静佳先生|右:高津久仁枝)

一山の墨蹟には、さっぱりしていて俗気がない素直な線であると同時に、スカッとした筋のある厳しい線質を感じさせます。それは、一山の人柄を映しだすものであり、細やかで繊細な心情を自然なメロディのように吐露するものだと感じます。

「雪夜作」は、晩年の一山の代表作です。その姿は、当時の一山のありのままの心情が表れ眺めていてもいつまでも飽きることはありません。機会があればぜひ一山の墨蹟を見てみてください。

最後に。

ここまで色々とうんちくめいてしまいましたが、言葉というのは書いてあるとついつい読みたくなるもの。しかし、そこに書かれている意味を先に求めてしまうと、文字や言葉の形としての美しさを感じるセンサーも鈍ってしまいます。

形に宿る精神性に想いを馳せながら、まっさらな心で書に向き合ってみてください。きっと新しい発見があるはずです。

では、また。

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