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還暦に、日本初の能楽學舎を立ち上げた理事長の備忘録

はじめまして、kuniです。

2年前に日本初となる能楽の学校を創立しました。正確にいうと、能楽に関連する教育事業を行う一般財団法人を立ち上げ、そこの代表理事をやっています。いわゆる一般企業における社会経験がないわたしにとっては、全てが初体験で、毎日失敗や挫折の連続です。

学校が3期目に入る今年、少しだけ気持ちに余裕が生まれて、もっといろんな人たちに能楽を知ってほしいという欲がでてきました。それがこの記事を書こうと思ったきっかけです。

わたしは、能楽という日本の伝統芸能を通して、世界とつながることを夢見ています。文章を書くのは苦手だけれど、少し変わったキャリアの振り返りや、現在進行形の学校運営について備忘録的に気ままに綴っていきます。

よろしくお願いします。

能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

学歴コンプレックスに悩まされた専業主婦時代

42年前、わたしは高校を中退しました。

当時は確固たる意志を持って自ら辞めると申し出たつもりでいたのですが、いま振り返ってみると社会に対してちょっとだけ反抗的な態度をとっていたのかもしれません。紆余曲折を経て就職はせずにお見合い結婚をし、3人の子どもに恵まれました。

そんなわたしが学歴コンプレックスを発症したのは、長男が小学校に上がるタイミング。PTA役員を断れずに務めたとき、ママ友との交流の中で飛び交う「わたしは〇〇大学なの〜あなたは?」という言葉。悪気がないのはわかっているのですが、ズキズキと心に突き刺さったのを鮮明に覚えています。学歴や就業経験がないというラベルは、呪いのようにわたしを悩ませることになります。その時のわたしは、とにかく自分に自信がなく、情けなさでいっぱいだったように思います。

子どもの頃から唯一得意だったのが書道。長男が書道教室に習いはじめるタイミングでわたしも一緒に通いました。コツコツとした努力が求められる書道は、わたしの性分に合っていました。また家事や育児が生活の中心だったため、書道という居場所ができたことに喜びを感じていました。学歴コンプレックスから逃れるようかのように始めた書道でしたが、何かを追求する欲求に自分自身が気づきました。

17年前、書道を体系的に学ぶため、短大進学を決意します。子育てがひと段落したのを自分への言い訳に、青春を取り戻す気持ちでいました。そして、大学編入、大学院進学、海外留学、そして大学院博士後期課程修了と、結果として13年もの間 学生生活を謳歌しました。書道は歴史が長い分、解釈や表現の多様性があり、時代ごとの価値観にふれることができるのが魅力です。そんな書道を通して得た学びを、如何にして社会に還元するかが関心ごとになっていきます。

45歳で学生に。講義中の一コマ。

すべてが偶然だった能楽との出会い

2015年、運命の歯車がまわりはじめます。小学校の同窓会(43年ぶりの開催)で、偶然隣に座った当時の担任から能楽の体験会に誘われます。わたしは大学院博士後期課程に在籍中で、ぼんやりと大学講師として仕事をしようかなくらいに思っていました。体験会へのお騒いは、単純に着物で外出できる機会が増えて嬉しい、という軽い気持ちしかありませんでした。

ところが、いざ能楽堂で体験会に参加をすると妙に懐かしい感覚を覚えました。祖母との記憶です。そういえば子供の頃、祖母は夕方になると着物に着替えて、小唄や三味線の習い事をしていたなぁ。その時の情景が鮮明に思い出されてきました。実家と能楽堂は目と鼻の先だったことも影響しているかもしれません。自分もあの頃の祖母と同じように、着物で発表会に出たいと思うようになりました。

そして、習い事として稽古に通います。毎年、春と秋には国立能楽堂で仕舞の発表会をしました。世阿弥のつくった演目にちりばめられた古典に感動し、身体表現のツールとしての仕舞に身体がときめきました。すっかりと能楽の深みにはまっている自分がいました。同時に、書道をはじめとした伝統文化の研究をしていたわたしだからできることは何かを必死に探しました。

大好きだった祖母に抱えられているわたし。

茶道の裏千家学園のような、能楽を学べる学校をつくりたい。

2018年、わたしはそう決意します。大好きだった祖母から背中を押されているような気分でした。長かった学生生活が終わろうとする頃でした。

専業主婦から経営者へのジョブチェンジ 

我ながらセンセーショナルな見出しをつけたなと思います。

しかし、これはフィクションではなく現実です。専業主婦だったわたしが、0から財団法人をたちあげ、事業を運営する経営者になる。途中、学生生活を挟んだけれど、まさか経営に携わる日がくるなんて。自分がやったことだから夢にも思わないという表現は不適切かもしれませんが、いまでもそう思います。

能楽の世界に導いてくれた先生に学校をつくりたいと相談をすると、大真面目に話を聞いてくれました。そして、すぐに先生の先生を紹介してくれました。それが、日本を代表する能楽師であり、重要無形文化財総合保持者である坂井音重師との出会いです。

坂井 音重(さかい おとしげ、1939年(昭和14年)11月6日 - )は、シテ方観世流坂井職分家当主の能楽師、重要無形文化財「能楽」の保持者(総合認定)。 白翔會(坂井音重助成会)主宰。元社団法人能楽協会常務理事東京支部長。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

師は、わたしの想いを受け止めてくださりました。いわゆる「あたりまえ」を知らないわたしだったから良かったのかもしれません。必死に、純粋に、学校をつくりたいという想いを師にぶつけました。

師の協力を仰ぎながら、すこしづつ事業の輪郭がみえてきてました。能楽学校としてのコンセプトは、いわゆる習い事ではなく、体系的に能楽を学ぶ場所。そして、能楽の持つ美意識を世界に発信する場所。カリキュラムは裏千家学園を参考にしました。

2年間の準備期間を経て、2019年8月に学校を創立、2020年の春開校を目指すことになりました。わたしは還暦に、日本初の能楽學舎を立ち上げた理事長にジョブチェンジしました。

学校名は仁和能楽學舎と名付けました。

開校2年間、赤字経営の現実

時は 2020年。開校準備で忙しくしている中、新型コロナウイルス感染症が世界全体を覆います。その影響は日本にも訪れ、政府による緊急事態宣言が発令。予定していたすべてのカリキュラムは一旦延期。開校日は緊急事態宣言下で迎えました。自室で放心状態になったのを鮮明に覚えています。

そもそも、創立時のメインターゲットは顕在層であり、口コミや紹介経由で顧客を構成していたため、宣伝やPRに時間を割いてきませんでした。また、カリキュラムは対面を想定していたため、すべての計算が狂います。

大幅な方針転換を、来る秋季講座に向け迫られ、気持ちは焦る一方。オンラインで講座を受けられるようにカリキュラムを見直し、講座を自宅で見られるように収録・配信。何から何まで初めて尽くしです。

オンライン講座収録の様子。

方針転換に伴う出費がかさみ、赤字が続きます。

営利を主目的にしている訳ではないものの、気持ちがどんどん追い込まれていきます。そんな想いから逃れるように、毎月何千枚ものチラシを、ホテルや美術館、能楽堂、レストランへ持ち込む営業活動を行います。もちろん初めての経験です。

コロナ禍は逆境でしたが、事業のオンライン化へいち早く舵をとれたのは良かったです。どうしても敷居が高く感じてしまう能楽の世界だからこそ「気軽にオンラインで参加できる」という選択肢を、顧客に提供できることは事業の強みになっています。能楽は観るだけはなく、学ぶものという価値観を拡げていくためにまずは知ってもらうことが重要だと考えています。

さて、そんなこんなで徐々に現実を分かってきました。この2年間の経験はわたしにとって尊く、まるで月謝を払っているような感覚でした。

能楽を通して世界とつながる未来

能とはつまり能力。ここでいう能力とは、人が本能的に持つ美意識であると坂井音重師はいいます。そんな能楽の学びは、人のこころの中に備わっている美意識を取り戻す手立てになるとわたしは考えています。

能楽を通して世界とつながることを夢見て。

まだまだ未熟ですが、やるべきことは見えてきました。この記事で、能楽に少しでも興味を持ってくださる方が増えると嬉しいです。

では、また。

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