阿部公彦『小説的思考のススメ―― 「気になる部分」だらけの日本文学』 第7章 志賀直哉「流行感冒」――“名文”って何ですか? (後編)

前編では阿部公彦さんの『小説的思考のススメ』の「おわりに」と第7章の冒頭を少しだけご紹介しました。いよいよ後編で志賀直哉「流行感冒」の本文に入っていきます。前編はこちらから。

「流行感冒」という短編は、タイトルの通り、流行感冒が鍵となって進む物語です。流行感冒とは今で言うインフルエンザのことです(最近では新型コロナウイルス感染症の方が思い浮かべやすいかもしれません)。この作品で描かれているのは、大正時代に実際に流行した「スペイン風邪」のことです。主人公の小説家には左枝子という小さな娘がいます。町中で流行感冒の話を聞くようになると、主人公は過敏に風邪を恐れるようになります。主人公のこの心配性には理由があって、この夫妻は最初の子をなくしているのです。

阿部公彦さんは、まずはこの主人公が自分の心配性について語っている冒頭近くの一節を引用します。

しかしそれは私にとっては別に悪くはなかった。私たちが左枝子の健康に絶えず神経質である事を知っていてもらえれば、人も自然、左枝子には神経質になってくれそうに思えたからだ。たとえば私たちのいない所である人が左枝子に何か食わそうとする。ところがその人はすくちょっと考えてくれる。私たちならどうするかと考えてくれる。で、結局無事を願って食わすのをやめてくれるかもしれない。そうあって私は欲しいのだ。ことに田舎にいると、その点を厳格にしないと危険であった。田舎者は好意から、赤子に食わしてならぬ物でも、食わしたがるからである。
(122頁。元の文章は、志賀直哉「流行感冒」、『小僧の神様 他十篇』岩波文庫、改版2002年、145-146頁。)

この文章が「名文」と言われると、本当にそうなのかなという気がしてきますし、もっと〈名文の鑑賞〉にむいてそうな志賀の文章がほかにいくらでもありそうな気もしてきます。しかし、阿部さんはむしろこの部分に、「志賀モードとでも呼びたくなるような文章の特徴」(122頁)が出ていると考えます。その特徴を浮き彫りにするみごとな所作を、以下で要約してみたいと思います。

阿部さんはここで、文章の特徴を明るみに出すために、文章ではないものにあえて目を向けます。「文章は何の変哲もないかもしれない。しかし、文章というものは文章だけで完結するわけではないのです。必ず別のファクターと絡み合っている」(122-123頁)。阿部さんがここで文章と絡み合っているファクターとして挙げるのは、「意識」です。

この語り手は、「しかしそれは私にとっては別に悪くはなかった」以下の部分を語ることで「悪くはなかった」理由を明らかにしようとしています。阿部さんがまず注目するのは、なぜその理由をいちいち明らかにする必要があるのか、ということです。このように問いを立てたとき、阿部さんがこの一節から読み取るのは、この語り手が「読者の興味の方向とはおよそ無関係に、勝手に理由説明を始める」(123頁)ということです。この「勝手に」という身振りこそ、志賀直哉の文章の特徴をとらえるキーワードのひとつである〈意識をつかまえる〉という点にかかわってきます。ここでのポイントは二つです。

第一に、明確な論理の筋道があるように見えること。先に引用した志賀の一節では、「たとえば」「で」「ことに」「からである」といった文と文の接続関係を示す明確な指標があります。その結果、阿部さんの印象的な表現を用いれば、「まるで数学の証明のような言葉遣いで文章がまっすぐに進行していると思えます」(124頁)。

しかしながら、この点が重要なのですが、第二に、阿部さんはこの一節に文章の進行が迷走する瞬間を指摘します。それは、「やめてくれるかもしれない。そうあって私は欲しいのだ」の箇所です。たしかに、ここからは急に語り手の不安定な気持ちが語られ始めます。物事の必然の説明から「私」の感情の表出へ、というこの変化こそ志賀直哉の文章の読みどころである、と阿部さんは考えます。

語り手ははじめは自分の気持ちについて語っていた。(中略)ところが、やがて語りはその語ろうとした意識そのものへと没入していくのです。意識に没入するということは、もはや意識については意識的ではないということでもあります。でも、意識的ではないことによって、むしろ意識を語るのです。(125頁)

阿部さんはここで「しかし、果たしてそれだけでしょうか」(132頁)とさらに考察を深めていきます。この考察の進展は、自分を突き止め意識しているという語り手の言葉遣いをさらに別の背景のもとに置いてみたときに生じます。「歯切れがよく、格調高く、威厳に満ちていて、つまり、男が男らしさを振りかざすときの言葉」(132頁)のもつ「凛々しさ」(132-133頁)は、たしかに志賀の文章を“名文”として鑑賞するときに念頭に置かれているものと言えます。しかし、この「凛々しさ」をただ立派な名文として嘆賞するだけでは済まない、と阿部さんは考えます。そこで重要になるのは、この小説を構成する言葉は堂々として歯切れのいい”男の言葉”だけではない、ということです。たしかに、一方には「論理的で内省に向いて」(136頁)いる男の言葉がある。しかし、他方で同時に、この男の言葉と対照をなす、「女たちによって語られる言葉」、「立派で正直な男の言葉からすると何となくぐにゃぐにゃしている」けれども「立派さや歯切れのよさにとらわれることのない自由さ」(137頁)がある女たちの言葉があるのです。

ここで引かれるのは、語り手の「私」と妻とのやり取りです。夫妻の家には石という名前のお手伝いの若い女性がいます。感染を恐れる「私」は芝居などにはいかないよう家族やお手伝いに命じるのですが、ある日のこと、自宅に石の姿が見えないことから、「私」は石が忠告を無視して芝居を見に行ったのだと疑います。石が「見に行っていない」と言っても信じられない「私」は、石に子どもを世話させるわけにはいかないと思って左枝子を石から引き離してしまうのですが、その仕打ちに傷ついた石は家から飛び出してしまいます(とはいえ実際には石は芝居を見に行ったことがあとの場面で判明します)。問題の会話はこのあとに出てきます。阿部さんも引用している夫妻の会話をここでも引いてみたいと思います。

「おとう様があんまりしつこくおうたがりになるからよ。行かない、とあんなにはっきり言っているのに、左枝子を抱いちゃあいけないのなんの……だれだってそれじゃあ立つ瀬がないわ」
気がとがめている急所を妻が遠慮なくつッ突き出した。私は少しむかむかとした。
「今ごろそんな事をいったってしかたがない。今だっておれは石のいう事をほんとうとは思っていない。お前までぐずぐずいうとまた癇癪を起こすぞ」私は形勢不穏を現わす目つきをしておどかした。
「おとう様のは何かお言い出しになると、しつっこいんですもの、うちの者ならそれでいいかもしれないけど……」
「黙れ」
(135-136頁。元の文章は、志賀直哉「流行感冒」、『小僧の神様 他十篇』岩波文庫、改版2002年、156-157頁。)

この場面は、「私」が堂々と歯切れよく石に対する半信半疑の気持ちや不愉快さという自分自身の意識を提示する一節に続くものです。そして、阿部さんによれば、この夫妻の会話が効果的なのは、まさにこの〈男の言葉による内省〉のあとに続くことによるものであるとされます。なぜなら、ここでは、意識を提示する理詰めの内省が妻からすれば「しつっこい」だけのものである、という事態が暴露されているからです。すなわち、志賀直哉の文章の面白さは、単に〈男の言葉〉の堂々さにあるのではなく、それが小説内のもうひとつの言葉によって「木っ端みじんに粉砕されてしまっている」(136頁)という事態まで提示しているという点にあるのです。最後に、阿部さんのまとめの言葉を引用したいと思います。

志賀直哉の語り手は美しい男の言葉を語ることで堂々とそびえ立っているように見える。自身の見苦しさを探求する禁欲性までも含めて、その内省する精神の道徳的な高潔さは志賀の“名文らしさ”を保証していると見える。しかし、志賀の“名文”のほんとうのおもしろさは、そのような立派さが、一見嘘つきでいい加減で劣ったものに見える”女の言葉”にいとも簡単に敗れ去ってしまう、そこまでが私たちの目に見える形で書かれているというところにあると思うのです。(137-138頁)

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阿部さんは、「小説には読み方がある」(viii頁)こと、「スポーツやゲームにルールがあるのと同じで、小説にもルールがある」(viii頁)ことを指摘します。どんな作品でも好きなように読んでよい、それで小説のおもしろさがだれにでもわかる、とは阿部さんは考えていません。しかし同時に阿部さんが強調するのは、小説のルールはひとつひとつそれぞれの作品から独立して文法のように存在するわけではない、ということです。小説のルールは、ある特定の小説を読むなかで探究されなければならないし、そこに小説の面白さがある。「私たちがするのは、ルールを探しながら読むということです」(viii頁)。小説を読むということの面白さは、読むというゲームに参加することが同時に当のゲームのルールを探す作業でもある、という点にあると言えそうです。しかし、〈ルールを探す〉というのはやはりいきなり取り組めるようなものではないため、阿部さんは「気になる部分」をとっかかりにすることを勧めます。「どの作品にも「気になる部分」がある。(中略)私たちはまさにそこを読まなければならないのです」(ix頁)。そのためのコツを示すのが『小説的思考のススメ』という本の目的のひとつとされます。

しかし、本書を読む私にとってとりわけ興味深かったのは、この「コツ」もまた成文化されて箇条書きにされるようなものではなく、それぞれの作品を一字一句読む阿部さんの実演を通して体得していくもののようだ、ということです。たとえば、今回の「流行感冒」では、(1)意識をつかまえると(2)男の言葉という二つのキーワードで志賀直哉の文章のおもしろさが浮き彫りにされましたが、(2)のポイントにまで洞察を深められるかどうか、ということが「コツ」の体得に大きくかかわっているように感じました。それは言い換えれば、(1)から(2)へと議論が移行する箇所に阿部さんが書かれた、「しかし、果たしてそれだけでしょうか」(132頁)の「しかし」を自分の思考の途中に置くことができるかどうか、ということだと思います(阿部さんの『小説的思考のススメ』にはこの「しかし」がしばしば非常に効果的なしかたで姿を現します)。

本書を読んだあとでは、一度読んだ作品もまた別のしかたで見えてきました。この機会にまたあの作品を読み返してみよう、あの作家に触れてみよう……と思わせてくれる、すばらしい本だと思います。

(執筆者:守博紀/NPO法人 国立人文研究所事務)

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