阿部公彦『小説的思考のススメ―― 「気になる部分」だらけの日本文学』 第7章 志賀直哉「流行感冒」――“名文”って何ですか? (前編)

阿部公彦小説的思考のススメ書影

今回のnoteでは、阿部公彦さんの著書『小説的思考のススメ――「気になる部分」だらけの日本文学』(東京大学出版会、2012年)をご紹介したいと思います。
阿部公彦さんは、2020年3月15日に開催が予定されていた「人文学の学校KUNILABO開校4周年イベント」でご登壇いただく予定でした。しかし、新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防ぐために今回のイベントを中止させていただくことになり、残念ながら3月にお話を伺うことはできなくなってしまいました。このイベントを楽しみにしていた方々にもご心配とご迷惑をおかけし、大変申し訳なく思っております。代わりに、というわけではないのですが、今回はその阿部さんの御著書の一部をご紹介します。

『史上最悪の英語政策──ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房、2017年)などで英語入試改革の構造的欠陥を指摘されてきた阿部公彦さんは、もともとは英文学がご専門です。『善意と悪意の英文学史――語り手は読者をどのように愛してきたか』(東京大学出版会、2015年)のような専門家向けの著書だけでなく、マラマッドの『魔法の樽 他十二篇』(岩波文庫、2013年)『フランク・オコナー短篇集』(岩波文庫、2008年)などの翻訳も出されているほか、英語で小説や詩を楽しむための手引きとなる『英詩のわかり方』(研究社、2007年)『英語文章読本』(研究社、2010年)『英語的思考を読む――英語文章読本II』(研究社、2014年)という本も書かれています。

そんな阿部公彦さんは日本文学についてのお仕事も多く、日本人作家やその作品を中心に扱った『幼さという戦略――「かわいい」と成熟の物語作法』(朝日新聞出版、2015年)という本も書かれています。そして、今回ご紹介する『小説的思考のススメ』は『英語文章読本』の日本語ヴァージョンと言えます(さらに、『英詩のわかり方』に対応する『詩的思考のめざめ――心と言葉にほんとうは起きていること』(東京大学出版会、2014年)という本もあります)。

そこで今回は、阿部さんの小説的思考のススメ――「気になる部分」だらけの日本文学』の第7章「 志賀直哉「流行感冒」」をご紹介したいと思います。今新型コロナウィルスの世界的な流行(パンデミック)が大きな問題になっていますが、志賀直哉の「流行感冒」は、まさに100年ほど前に起こったスペイン風邪(インフルエンザ)の流行を背景とした小説です(現在では岩波文庫の『小僧の神様 他十篇』などに収録されています)。

しかし、内容の紹介に入る前に、確認しておきたいことがあります。というのも、日本語の小説の読み方というのはわざわざ教えられるようなものなのでしょうか。この疑問に対しては阿部さん自身がこの本の「おわりに」で答えています。《なぜ日本の小説なのか》、そして《なぜ英文学者が書くのか》という問いにかかわる重要な点だと感じたこの箇所をご紹介したいと思います。

日本の小説は宝の山なのです。少しでも作品を手にとってもらいたい、そして少しでも小説の言葉の独特な作用を体験してもらいたい、そんな願いをこめて本書を書きました。今さら何を? という方もおられるかもしれません。小説を読むなんて、わざわざ教えられてするものではないでしょう? という意見もあるでしょう。それに小説についての文章など、すでに散々書かれてきた。(216頁、強調原文)

阿部さんはこのように自分自身で問いを引き受けます。それに対する答えは、小説について「すでに散々書かれてきた」数々の批評では問題にされにくい「言葉の旨み」(217頁)を取り上げたい、というものです。批評の語り方とその背後で陰になってしまうものとの関係について、阿部さんはつぎのように書いています。

批評は――そして私が専門にしている英文学研究はとりわけそうなのですが――限定された問題点をめぐる「闘争」という形をとります。まるで敵や競争相手がいるかのように語らざるを得ない。(中略)批評や研究はともすると政治や経済や思想や人類の話題へとジャンプするような大きな物語を振りかざして「闘争」の武器にします。古典化した権威ある論者を後ろ盾にすることも多い。しかし、そうした華々しいメジャーな舞台の陰には、もっと地味だけど、実際に小説を読むときにどうしても避けて通れない領域が潜んでいる。(216-217頁)

批評の語り方は「闘争」という形をとる、と阿部さんは書いています。確かに、小説についての批評はプロスポーツ選手によるゲームのような華やかさがあります。また、そうした華やかさが、批評が作品を語るというよりもむしろ作品を通して「政治や経済や思想や人類の話題へとジャンプする」ように見えることに由来するという点にも頷いてしまいます。しかし、「もっと地味だけど、実際に小説を読むときにどうしても避けて通れない領域」にこそ言葉の旨みがある、と阿部さんは考え、さらに、外国文学の研究や外国語学習はその旨みに気づくための大きな利点になる、と主張します。ここで、《なぜ日本の小説なのか》と《なぜ英文学者が書くのか》の二つの問いに同時に答えが与えられることになります。

外国文学の研究はちょうどいいモデルになります。たとえば日本に生まれ育った人が英文学研究を目指すのであれば、まずはじめに覚えなければならないのは辞書の引き方です。外国語である英語をいったいどうやって読むのか。英語を母語とする人であればいつの間にか知っている言葉の決まりについても、私たちはいちいち調べたり確かめたりしないと理解できないということがある。しかし、実はこれは大きな利点でもあるのです。なぜなら、まさにそのような「当たり前」の部分にこそ、言葉の旨みは潜んでいるからです。(217頁)

外国語を学習し外国文学を研究することは、その外国語を母語とする人が「当たり前」とする部分にいちいち躓くことである。しかし同時に、この躓きは、その外国語を母語とする人であれば素通りしてしまうかもしれないひとつひとつの言葉の魅力に気づくきっかけにもなる。このように阿部さんは考えます。そして重要なのは、いったんこのような〈外国語で文学を読んで躓く〉という視点に立ったことがあるならば、日本語で書かれた小説も同じような視点に立って読む(そしてそれによって、当たり前だと思って素通りしていたひとつひとつの言葉の魅力に気づく)ことができるということです。すなわち、「外国語を読むようにして日本語を読んでみる」(217頁)というのが、この本で阿部さんが勧めることです。これは、英語入試改革の問題を指摘する阿部さんの考えともつながる、重要なポイントだと感じました。

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今回はまるごと一冊全体をご紹介するということはできなかったため、ひとつの章だけを取り上げたいと思います。それは、第7章「志賀直哉「流行感冒」――“名文”って何ですか?」です。

この章のテーマは「名文」です。阿部さんは、1919年(大正8年)に発表された志賀直哉の短編「流行感冒」を題材にして、「名文とは何か」という問いに迫っていきます。

しかし、ここでは注意が必要です。章のサブタイトルにある「名文」に引用符(“…”)がついているように、阿部さんはこの言葉に何か含みをもたせているようです。この含みを理解するための一歩として、章の冒頭にある阿部さんの言葉を引いてみます。

この章では“名文”というレッテルにいきなり飛びつくことを極力避け、なるべく先入観なしに素手で志賀の文章に取り組んでみたいと思います。志賀はいったいどのような文章を書いたのか。それを私たちはどう受け止めるのか。そのあたり、例によって一字一句読み解きながら考えていけば、「“名文”とは何か?」という問いが「人々が“名文”と呼びたくなる文章にはどのような特徴があるか?」というふうに変換されることになるでしょう。(120-121頁)

ここでは「名文」という言葉が「レッテル」と言われています(また「“名文”という神話」(121頁)という言い方もされます)。これはすなわち、「志賀直哉の文章は名文だ」という評判を頭に置きながら志賀直哉の作品を読むとむしろ志賀直哉の文章をちゃんと理解できなくなってしまう、ということです。しかし同時に、「志賀直哉の文章は名文だ」という評判はまるっきり否定されるのでもありません。多くの人々が志賀直哉の文章を名文と考えているという事実はたしかに存在します。そこで、阿部さんは、《この事実を説明できるような特徴が志賀直哉の文章にあるか》という観点から志賀の作品を読み解こうとしているのです。志賀直哉を「小説の文章が話題になるときに必ずと言っていいほど引き合いに出される作家」(120頁)と呼びながらも、けっして志賀直哉の文章を〈名文のお手本〉として鑑賞しようというわけではないのです。

それでは、志賀直哉の“名文らしさ”はどのようにとらえられるのでしょうか。そのキーワードは二つあります。ひとつが〈意識をつかまえる〉ということであり、もうひとつが〈男の言葉〉です。

この二つのキーワードについて、以下で阿部さんの議論を追いつつ説明したいと思います。しかし、前もって注意が必要なことがあります。それは、この二つのキーワードは単純に志賀の文章の特徴として列挙されたり足し算されたりするわけではない、ということです。「志賀直哉の文章は語り手が自分の意識を分析する男の言葉である、だからそれは名文である」という話ではないようなのです。議論はもう一歩豊かな複雑さが与えられます。その道筋は以下のようにまとめることができるでしょう。

(1)まず、志賀直哉の一見変哲もない一節から、〈論理から感情へ〉という語りの変化が読み取られます。それは、〈意識について意識的に語る言語〉から〈意識的ではないかたちで意識を語る言語〉への移行です。「意識をつかまえる」というキーワードはこのような身振りを意味します。

(2)さらに、こうした身振りをもつ言語が「男の言葉」として、「女の言葉」と対照をなすものとしてとらえ直されます。すなわち、(1)の論点だけでも「だから志賀の文章は名文である」と言えそう(そしてそれで済ませられそう)なところなのですが、阿部さんはさらに踏み込んで、《「だからそれは名文である」と言いたくなるような語りの言葉は、それと対照をなすもうひとつ別の言葉によって粉砕される》という事態を志賀直哉の文章に読み取ります。そして、そのような事態を読み取り可能なかたちで提示しているということに志賀直哉の文章のほんとうのおもしろさがある、と主張するのです。

前編はここまで、後編に続きます。

(執筆者:守博紀/NPO法人 国立人文研究所事務)

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