仙の道 29 最終話
第十一章・治(4)
礼司は白龍に力を与えただけではなかった。礼司は今、白龍そのものになっていたのだ…
最も激しい痛みは左の肩口にあった。
黒龍の前脚の爪が鱗を貫いて深く食い込み、その爪先は骨格にまで到達しようとしていた。
礼司は相手の前脚に掛けていた左前脚に力を注ぎ込む…
食い込んだ相手の爪先の力が徐々に衰えてくるのが分かる…
抵抗する握力の為、皮膚が裂けていく…
その痛みを堪えながら礼司はさらに力を強めた…
相手の前脚が外れた…
黒龍は引き離された右前足を振り上げ、束縛を逃れようとする…
礼司はそうはさせまいとさらに左前脚の力を強める…
黒龍は苦しそうに大きく口を開いて首を大きく後方に反らすと地鳴りのような咆哮を発し、その反動で今度は礼司の右肩口に食らいついてきた…
それを避けようと両前脚に渾身の力を集めたが間に合わなかった…
右半身に衝撃的な激痛が走った…
その痛みに瞬間全身の力が緩んでしまった…
後脚の片側と相手に絡み付けていた尾が外れてしまった…
すかさず黒龍は大きく尾を振り上げて全身を力任せに捩った…
まさにこの時、日本を含め、世界各地で同時に大規模な地殻変動が勃発した。
チリ、メキシコ、アメリカ西海岸、アラスカ、千島、日本、ニュージーランド、インドネシア、中国雲南省、イラン、トルコ、エチオピア、イタリア北部、そしてアイスランド…
ある地域では火山の大規模噴火、またある地域では地盤沈下や隆起、直下型の大地震に見舞われた都市もあった。全ての災害は、まるで示し合わせたようにほぼ同時刻に勃発した。
各地域で多くの家屋やビルが倒壊し、道路やライフラインは広範囲に寸断され、全ての交通機関が一瞬で壊滅状態となった。
礼司は痛みを堪え、まだ相手を捉えている三肢にさらなる力を注いで逃れようともがく黒龍を引き寄せた。
尾を再び巻き付け、四肢で相手の動きを抑えると、攻撃の場所を探した。
黒龍は礼司を怯ませようと噛みついた顎に力を込める…
牙が食い込む右肩の痛みはますます強くなっていく…
礼司は相手の急所にダメージを与えないように反対側の首筋に狙いを付けて噛みついた。
黒龍は思わず力を弱める…
礼司はその隙を逃さず身を捩り、相手の牙から逃れる事が出来た。
黒龍は次の攻撃目標を求めてもがき続ける…
礼司は咆哮し襲いかかる相手を威嚇しながら徐々に黒龍の動きを封じ込めることのできる体勢を探してゆく…
その攻防は長い時間続いた…
どの位の時が経ったのだろう…
やがて、少しずつ相手の力が弱まってゆくのが分かった。
礼司も相手の力に応じて力を弱めていった…
次第に攻防は形だけのものとなり、そして…
黒龍はそれ以上の抵抗を試みることはなくなった…
ことの収束を確信した礼司は、そっと力を収めた。
力を収めると同時に中空の球体に戻っていた。眼下で白龍はしっかりと黒龍を抑え込んでいた。
2匹はもう微動だにしていなかった。
『やりました…終わりました。そちらに戻ります』礼司が浮龍に伝えると、発信されていた光線が消えた。
『礼司様、御疲れ様でした…どうも、有り難う…』浮龍の優しい口調に癒される思いがした。
5人はその場で礼司の帰りを待っていた…
『どう?上手く収まった?』真っ先に声を掛けたのは葉月だった。
『ああ、何とか…でも、途中で一度相手が大暴れしちゃって…』
『まずは、その程度で抑えられたのなら上々でしょう。私も覚悟はしていましたよ。さすがにまだお若い。お力も強大でいらっしゃる…善蔵様のお見込み通りでしたね』そう言ったのは浮龍だった。
『なあ、戻ろうぜ。早くゼンさんに報告しなきゃだろ?』戸枝が促す。
『そう、そうだね…それじゃあ、御所様、有り難う御座いました』
『はい…私も急ぎ戻りませんと、いろいろと大変なことが控えていますでしょうし…何かありましたら、また何なりとお申し付けください。では…ご機嫌よう…』
座卓を囲んだ状態のまま5人はゆっくりと我に返った…
「ふう…しっかしきつい仕事だったよなあ…お、もう1時間以上経ってるぜ」最初に口を開いたのは戸枝だった。
「いやあ、あの訓練がなきゃあ、とてもじゃないけどあんなこと出来なかったねえ…自分が龍族だってことが良く分かりました…」荒木は感慨深げだった。
「あら…どがんしたっだろか…誰もおらんばってん…」春江が不思議そうに周囲を見回していた。
「ねえ…ゼンさんの気配が無いよ…ゼンさん、何処行ったんだろ?」葉月が戸惑った表情で訴えた。
「ちょっと待って……」
礼司も善蔵に話しかけようと周囲を探ったが、何処にもその気配は感じられなかった。
「本当だ…お母さんの治療してるからかなあ…」
「でも、治療中だったら、全員上に行くってことはないんじゃないか?」荒木が言った。
「うちん亭主もおらんばい…」春江も次第に不安げな表情を浮かべていった。
「おい、上に様子見に行こうぜ」戸枝が立ち上がった。
善蔵の部屋の襖を開けると、そこに全員がいた。その光景に5人とも声を失った。
善蔵は部屋の中央に敷かれた敷布の上に目を閉じて仰向けに横たわっていた。
傍らで昌美が善蔵の片手をとっていた。反対側に座った征夫が膝の上で両拳を握りしめたまま声を押し殺して泣いていた。佳奈が部屋に入ってきた礼司を見つめ、そっと話しかけた。
「善蔵さん…さっき、亡くなったの……つい、さっき…」
半年が過ぎ、阿蘇は初秋を迎えようとしていたが、世間ではいつまでも長い残暑が続いていた。
世界各地を襲った大規模な同時地殻変動によって、数百万人が被災し数え切れない人々の命が奪われていた。
ここ半年を経てもなお、世界中で被災地の復興と被災者の救済が懸命に繰り返されていた。
あれから阿蘇は火山活動もすっかり治まり、騒がしい世の中から隔絶された様に長閑でゆったりとした時間が流れていた。
あの時善蔵は、残された僅かな力を全て注ぎ込み、昌美の体内の癌細胞を跡形もなく駆逐してくれたのだった。治療が終わって昌美が我に返った時、善蔵にはまだうっすらと意識があったそうだ。善蔵は横たわったまま昌美にこう言い残した。
「これで…ようやく…母様に会えるぜ…奥さん、礼ちゃんを宜しくな。それと…母様の味を有り難うよ…ああ、これでようやくおいらもいっちょ前に死ねるんだな…しかし、死ぬってのは、こんなに幸せなもんだったんだなあ...天にも昇る心持ちってなあこのことだ…はは……お然らばだ……」
善蔵の遺体は八尺神社に運ばれ、棺に納められた上で歴代の智龍たちと同じ地下の霊廟に収められた。善蔵は、戸籍も他の公的な記録も全く無く世間にその存在すら知られる事の無いままこの世を去った。
忌み明けの五十日祭には浅川兄弟やその親族、そして香港から帰国した中川、成田親子と尾崎、宮内庁幹部の面々、飯場で馴染みだった人々、さらに浅川組・成和会の構成員たちなど、思った以上に多くの人々が訪れ、それぞれに善蔵との別れを惜しんでいた。
そして皆、次の時代を引き継ぐ礼司に敬意と励ましを送ってくれた。
あれから礼司はすっかり落ち込んでいた。
あれ程頼りにしていた善蔵を失った悲しみはもとより、自分があの黒龍との闘いの時、一瞬痛みに心を乱したことで、数え切れない人々が命を落とし、数え切れない人々が家や仕事や生活を失うことになってしまったことを悔やまない訳にはいかなかった。
戸枝や葉月は、礼司が智龍として最善を尽くしたこと、今回の災害の原因は礼司のミスではなく、礼司はむしろもっと大きくなる筈だった被害を最小限に食い止めたのだと力説してくれた。
しかし…あれが自分の油断であったことは、礼司が一番良く知っていた。
『ま、そん時ゃそん時…それも運命ってことだ。次のことをいろいろ考えて、四苦八苦すんのがお前えの仕事なんだよ。な、五代さんよ』善蔵の言った言葉の本当の意味が心の奥に突き刺さっていた。礼司は智龍という自分の立場には、世の存亡に関わる重大な責任があることを今更ながら思い知った。
「礼司くん、そろそろ行かない?」
庵のデッキから阿蘇の中岳を眺めていた礼司に声を掛けたのは荒木だった。
あれから荒木は自分本来の仕事と、戸枝や隆司たちの手伝いを両立する為に、阿蘇と横浜の往復を繰り返していた。
「そうだね…いよいよ開店だね…早いなあ…」
その日は、戸枝たちが皆で準備を進めていた飲食店がいよいよオープンを向える日だった。
礼司は荒木と一緒に車で水源地近くの店に向かった…
店頭には沢山の花が飾られ、昌美を中心に戸枝、隆司、葉月、佳奈、春江、そして神官装束の征夫が集まっていた。周囲を開店の噂を聞きつけた地元の村人たちが囲んでいる。
駐車場に停めた車から礼司たちが降り立つと、戸枝が大きな声で叫んだ。
「おーいっ!礼司くん!先生!早く早くっ!」戸枝は満面の笑顔だった。
「征夫さんが祝詞あげてくれるんだってーっ!待ってたんだからあ!」葉月の声も弾んでいた。
礼司と荒木は皆に近付きながら、改修の終わった新しい店の外装を見上げた。
逞しいしっかりとした大きな木造家屋の表に二本の太い柱を備えた優美な店構えが出来上がっていた。
その上に掲げられた看板には開店する店の名がこう大きく描かれていた。
『善の蔵』…
了
連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。
カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com
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