見出し画像

第18回 映画『ゴジラ −1.0』を語る!!〜怪獣映画、反戦映画、、、ちょっと違う視点で捉えたい。自分自身や生きることに絶望した男の前にゴジラというさらなる絶望が現れた時、彼は果たしてそれにどう立ち向かったのか。ゴジラという「非現実」だけにフォーカスするなかれ、絶望から這い上がるために求められる構えとは何か。私たちの実人生に直結したストーリーがここにある(シン・ゴジラとの比較も少々)

くに:さーここんとこ注目度No.1の映画をピックアップするよ!!今回はマクラの駄話一切抜きで行きます(笑)『ゴジラ -1.0』です!!はじめに申し上げますと、今回はネタバレ有りです!そうしないと話ができません今回は!!ごめんなさい!!

たけ:きましたねー。くにはどうだった??

くに:面白かったよね。あたし、正直あんま期待してなかったのよ。2016年の『シン・ゴジラ』が面白かったのと、あの後にゴジラ映画作ることのハードルの高さって、、、というスタンスで観に行ったから。したっけ良かったわー。シン・ゴジラより面白かった。
(※以下、シン・ゴジラを「シンゴジ」、ゴジラ -1.0を「マイゴジ」とします)

たけ:そうだねー、結論俺もシンゴジより面白かった。おそらく色んなとこで言われてるだろうから、あまりシンゴジとの比較の話はしたくないんだけどさ(笑) 同じゴジラ映画なんだけど、おそらく面白さに重きを置くポイントが全く違ってて、だからあまり比較しても意味ないかな〜と思ったよ。

くに:お、と言いますと??

たけ:簡単に言うと、それぞれこんな感じなのかなと思う。
『シン・ゴジラ』
→ゴジラをはじめとした様々なデザイン、役者の会話劇のリズムやテンポが生むパフォーマンス感、空間と人物が左右対処に置かれるアレにはじまる独特の画面構図、はっきりとしないが何かを示唆するサブリミナル感のある描写といった庵野秀明的エッセンス満載の、もろ『エヴァンゲリオン』。

『ゴジラ -1.0』
→第二次大戦直下、死への恐れから特攻という自分の役割を果たせなかった男が、その後悔に苦しみ続けるも生き続ける中で出会った大切な存在をゴジラに奪われ絶望するも、ゴジラ退治のプロセスの中でその後悔と絶望にどう折り合いをつけるかの物語。

全然違うのよね。 シンゴジは、ある意味ショーみたいな感じで、映画の中で繰り広げられるパフォーマンスが面白いという感覚があった。ゴジラ退治に精一杯尽力するものの、出てくる人間達がそれぞれどんな個人的葛藤を抱えていて、それにどう向き合っていき、映画の最初と終わりでどう変化したかという点にほとんどフォーカスされない。一方で、マイゴジは主人公の神木隆之介演じる敷島がどう変化していくかというプロセスの人間模様に感情移入していくじゃない?感情移入度としては、そりゃマイゴジの方が強いよね。だから面白いと思っちゃったのかなと思う。どちらが良い悪いではなく、それぞれ面白いポイントがあるってことだと思うよ。

くに:確かに!こうして見てみると面白ポイントが全然違うね。後悔や絶望とどう折り合いをつけるかって、人間誰しもあることだもんね。そりゃマイゴジの方に感情移入してしまうわ。

たけ:あんま比較の話しないどこうと言ったけど、さらに違うとこ、というか対照的なポイントもう一個だけ(笑) シンゴジは、ゴジラと対峙する主体が「政府」だよね。終いには、「この国はまだまだ這い上がれる」というセリフまで出てくる。一方、マイゴジはゴジラと対峙する主体が「民間」。さらに、日本政府の機能不全を容赦無くディスるじゃん?また、特攻をできずに生き延びてしまった敷島をそこまで責めず同情する人達も出てくる。「そういう人もいて良いんじゃないですかね〜」みたいな。その点からいうと、今の日本政府の機能不全や政府に対する絶望、日本の衰退とどうしても結びついてしまうよね。「戦後」という舞台にしたのは、現在の日本の状態が戦後何も変化・成長していないことへの警鐘という意図もあったのかなという意味で全く違うベクトルを向いてるね。だから、マイゴジの方が的を得てると言ったらちょっと違うかもしれないけど、今の現状とものすごくリンクしていると思った。

くに:確かに!!そう考えると、全然違う映画に見えてきたな。どっちも面白かったけどね。

たけ:そう、どっちも面白かったのは間違いないね。

くに:シンゴジとマイゴジの違いについてはっきりしたところで!!たけ的に今回の『ゴジラ -1.0』の最大のポイントは何だったと思う??!

たけ:「許し」じゃないかな。

くに:おお。このブログやってて「許し」って結構キーワードだよね。

たけ:そうだね〜。このブログだったか違ったかもだけど、結構前に『対峙』っていう映画について話したじゃん?あの映画でもキーワードは「許し」だったよね。アメリカの銃乱射事件の加害者と被害者の両親が話し合いをするという映画だったけど、話し合いが感情的になっていきヒートアップするものの、被害者側の両親は最終的に加害者側を許すことで和解し、その後の人生を明るく行きていく、という結末だったよね。「誰か」あるいは「自分自身」を憎むことは、その人に「呪い」としてまとわりついてその人の精神や肉体を苦しめていく。だから、その「呪い」を解く方法は、憎んでいる対象を「許す」ことしかない、というメッセージだったよね。マイゴジでは、敷島は特攻という自分の役割を果たせず、また序盤のゴジラ登場シーンで飛行機に装備されている銃でゴジラを攻撃することができる唯一の存在であったのにも関わらず、恐れによってそれができず仲間がほぼ全滅してしまったことを整備士の橘に責められ、同時に自らを責め続ける。最終的にかつて果たせなかった特攻という形をもって、自らとともにゴジラを葬ろうと密かに企てる。そのために飛行機に爆弾を積んでほしいと橘に整備を頼むじゃない?その過程で敷島は「おかしいですね、僕は死にたくないようです」というセリフが出てくる。しかしその後、橘は敷島に「死ぬな、生きろ」と言う。この一言で、敷島は完全に「呪い」から解き放たれるじゃない?で、最終的に爆弾を積んだ飛行機でゴジラの口に突っ込んで、その直前に橘が作り上げた安全装置で脱出し敷島は生き続ける、というストーリー。この橘の一言がなかったら、敷島は特攻でゴジラにアタックしてたんじゃないかなあ。ここに見られるように、橘の「許し」が敷島にまとわりついていた「呪い」を解き、目の前に現れた巨大な敵を倒すための力に加え、「生への希望」を手に入れたという図式が、俺たち見てる側の実人生にも直結するリアリティとして伝わってきたんじゃないかなあと思ったよ。敷島が橘に言うセリフで、「橘さんの中にある”戦争”もまだ終わってませんよね、、、?」ていうのがあるように、同じバックグラウンドや闇を抱えている存在同士だからこそ、相手の「許し」が「希望」へ導いてくれるという関係性もすごく共通していて、個人的なマイゴジの一番のポイントはここかなー。ちょっと補足情報なんですが、最近公開された『ぼくは君たちを憎まないことにした』っていう映画があるんだけど、これも絶望から希望へ舵を切るための構えについて描かれていて、すごくつながるな〜と思いました。

くに:なるほどなー。『対峙』と『『ゴジラ -1.0』って、いろんな具体的要素を取り除いて抽象的要素にしたら似ている映画だね!!『対峙』も観ている途中でめちゃめちゃ感情を揺さぶられるけど、最後にはものすごいデトックスが起こったように希望を感じる映画だったもんね。確かにマイゴジも似たような感覚だったなあ。

たけ:もいっこ加えると、「帰る場所がある」っていうキーワードもこの映画の重要なポイントだよね。これもいろんな回で話してきたけど、「帰る場所がある」っていうことが生きることの希望になるってこといろんな回で話してきたじゃない?スラムダンクとベイビーわるきゅーれの回でも同じこと話したけどさ、マイゴジの敷島にもかろうじて帰る場所があったじゃない?浜辺美波演じる典子の連れ子である明子の存在があるからこそ、それが自分の子供ではなくとも大切な存在だからこそ、死にたくないという願望があったはず。俺たちの実人生と直結してるよね。ありきたりな言葉だけど、やっぱり人は1人で生きていけない。これに尽きる。

くに:ラストでグッときたのがさ、浜辺美波は結果的に生き延びていて病院にいたんだけど、そこに敷島自らが病院に駆けつけていくんだよね。ゴジラを倒した後、船を降りたら典子がいるんじゃなく、典子が生きているということを知らされて、典子の場所へ自ら行く、というプロセスを踏むところに敷島に生きようとする力が取り戻った感じがすごく現れていて、とても良かった。

たけ:良いとこつきますネー、ほんとおっしゃる通り。あのシーンはさ、、、泣くよね(笑) 俺の前の席のおじさん号泣してたなあ。安藤サクラ演じる澄子が無言で敷島に典子の無事を示す電報を渡す演技も良かったよね、セリフにしない、というね。

くに:安藤サクラの安心感半端なかったね!ラストのシーンからも示唆するように、ゴジラは簡単に死なないし、多分また何らかの形でゴジラ映画出来るでしょう!!マイゴジを超えるゴジラ映画ってどんなだろうねー!楽しみ!今回もありがとう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?