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ドライブ・マイ・カー(2021)

韓国手話者のイ・ユナを妻に持つ、コン・ユンス。
ユンスが家福と渡利を自宅に招く。

韓国手話者と日本語話者。会話が同期されない。間に通訳する人が入ることで、まるで衛星でやりとりしているような時間差が生まれる。そしてそれさえも正確に伝えられているかわからない。通訳者の胸先三寸で如何様にもコントーロル可能である。だけど、不思議だ。日本語話者同士のコミュニケーションの何倍も何かが伝わっているような気がする。

©︎ドライブ・マイ・カー

わたしたちは、ノリ、テンポ、そういったものを会話、もっというとコミュニケーションに求めている。だから、沈黙、ラグ、そういったものに違和感や嫌悪感を抱く。スムーズってのは、それらを排除した言葉のように利用される。だけど、よくよく考えると、わたしたちがしたいのはコミュニケーション。相手の存在を感じ、自分の存在を感じ、それらが混ざり合ったと感じる瞬間。そのために手段として言葉を尽くす。でもそういうのっていらないのかもしれない。逆に言葉にしようとすることで失ってるものもたくさんあるのかもしれない。




消えていく娘、妻。絶対に変わらないと思っていた愛車「サーブ900ターボ」との付き合いに、新たに登場する若いドライバー。マイカーという、聖域に他者を入れて初めて見つめることができはじめた、本当の妻の姿。聖域を介してしか妻を見ることができなかった。それは妻にとっては絶望だったのか、まだ融解しうるものだったのか、「今日夜話す時間ある?」は、それを崩すものだったのか。マイカーを他者に委ねて初めて近づきつつある中、妻との関係があった俳優が登場し、そして消えていく。葛藤自体を表すメタファーなのか。それを受け入れたからこそ消えたのか。だから、自分が再度「ワーニャ伯父さん」をやることになったのか。

不祥事により演劇祭中止の可能性を告げられた家福悠介。葛藤する家福に一瞬視線を向ける渡利みさき。マイカーを共有しあった相手だからこそ、通じた何かがあった。

音声を超えて、言語も超えて、ボディーランゲージさえ超えて。



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