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いちいち、たちどまる。

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ほっとけばいいのに「あれ?」って思ったことを書いてます。 400〜800字程度の短いエッセイです。 メンバーシップに入ると全部読めます。
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かくりゆう。

顔を上げたら青空があるって気づく。 なんかそういう。そういうことがあるから書いてる。

好きじゃないけど成果がでてしまう。

ここ数日、人間関係について深く考える出来事が続いた。こういう時は、内心の繊細さと外面のロジ仮面が相互に混ざり合いとてつもないパワーを発揮してしまう。相手の痛みや突かれたら弱い箇所が本当によくわかってしまうんだ(自分も共感しつつダメージを受ける)。

好かれるということ。嫌われるということ。

わたしは文章を書いている。 わたしにとって書くということは、できるだけ正確に今の心や感覚をとどめておくこと。今持ってる語彙とロジックとを駆使して。うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。だけどこのことにずっと挑戦してる。 書いて表現することは、誰かに届く可能性があるということ。それは時に好かれることにつながる。「読んで元気をもらえた」「もやもやを言葉にしてもらった気がした」そんな誰かからの応答を受け取ると書いてよかったなぁって気持ちになる。 一方で嫌われることも

「コミュニティをつくりたい!」ってのは寂しいからなのかな?

立ち飲み屋。ホタテのバター醤油を食べた。貝の上に残った汁に、お米を入れてリゾット風。おかわりを2回した。倉敷駅徒歩1分のこの立地で、この味のクオリティは反則。こっそりまた来よう。 「コミュニティをつくりたい!」 そういう人にときたま会う。熱い想いを持ってて素敵だなと思いつつも、でもどこか自分の居場所を求めてるのかな?とも思う。まっすぐに言うと、寂しいのかな?と。 わたしの周りにはコミュニティをつくってきた人が何名かいる。その人たちの特徴は、みんな「コミュニティをつくろうと

ぽちぽちと、想像の外まで歩いてく。

今日はnoteを書いた。

夢に本気は必要か?

東大寺の再建。 京都を碁盤の目上に一軒一軒回って、7年かけて費用を集めたらしい。並々ならぬ実行力。 13歳の頃から夢描き、諦めることなく実現。 とっても格好いい。 でも、わたしはこういう話を聞くといつも思うことがある。

イベントの振る舞い。

イベントに誘われて参加する。 素敵な登壇者のお話。でも、座って1時間話を聞くことができない。昔はできたのに、なんでだろう。 交流の時間が始まる。 わたしから話しかけることなんて当然できず、ご飯を食べる。美味しい。とくにおにぎりが。ビジネスチックなイベントの交流会でおにぎりはなかなかない。二つ食べる。お腹が良くなる。眠くなる。 前から歩いてくる人と視線が合いそうになり目を伏せる。あからさまにしたくないから、焦点をぼかす。わたしは後ろのポスターを見てるんですよー、と心の中で呟

不幸に無関心な人。

たとえば道でこけちゃった人がいたとき、救助者がいて、転んだその人自身も大丈夫だと遠目に確認できたら、声をかけることで騒ぎになってしまうかもしれないから近寄らずに立ち去る。 そんな人と、人に無関心で立ち去る人。 この二人をわたしたちは見分けることができない。 もしかしたら、この世界は想像しているよりずっと優しさに溢れているのかもしれない。 他のエッセイはこちらから👇

なぜまだチャレンジを続けるの?

外に出る。青空。春の訪れを感じる空気。自転車の音。名前も知らない、だけどいつも聴く鳥の囀り。いいなって思う。 満たされてる。 もうこれだけでいいんじゃないかって何度も思う。 人生を何度かやってんじゃないか?ってすごい人に会うことがある。そういう人たちに「なぜまだチャレンジを続けるの?」って聞くと、一瞬

痺れるチャレンジ。

先日発表した2つ目のVCを作るって話。 規模も10倍にして、テーマも新しく、そんな中でも「瀬戸内」って制約と誓約はずらさず背負い続ける。とってもチャレンジ。ただ

対立構造。

男vs.女、とか。 東京vs.地方、とか。 スタートアップvs.VC、とか。 わたしも無意識でやってしまう。だってその方が反響があるから。おそろしい。人は数字の奴隷。 対立構造を作ることで、もっというと敵を作ることで人は結束する。仲間になる。「あいつはどうかと思う」というコミュニケーションは不健全だけど、わたしたちに居場所を与える。 対立構造の罪深いところは、どんどん小さくしていけるところ。 東京vs.地方だったものが、岡山vs.広島になる。 スタートアップvs.VCだ

嫌いな人がいない。

「あなたのこと嫌ってる人がいますよ」