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あをによし 荒うみ渡りし経のみち【海龍王寺 隅寺心経】奈良あるき

前回の歴史散歩からの続きです。

今回の目的地の一つであった海龍王寺
名前は聞いたことあったようなないような・・・でも
この観音菩薩様のポスターは見たことあった。
MERCYとなかなか斬新なデザインなあのポスター。

ただ、改めてこのお寺の名前を認識することになったのは
ある本との出逢いだった。


まずはお参り。

なかなかいい具合の寂れ感ありの山門と土塀。


海龍王寺山門




山門をくぐり参道もなにか他のお寺とはちょっと雰囲気が違う。



参道


土塀



そして入り口なのだが・・・
ここで合っているよね・・・?

なんと言いますか・・平安時代にタイムスリップしたような
源氏物語でいうと末摘花が住っていそうな趣き。

そしてちょっとワクワクするのはなぜ?笑


時代をくぐる




受付嬢




門を入ったすぐ右にMERCYポスターがあり、早速写真を撮って
さて受付は?と振り返ったらそこでした。

拝観料を納め、まずは本堂へ。



本堂


海龍王寺

和銅3年(710)の平城遷都の際、藤原不比等は土師(はじ)氏から土地を譲り受け、邸宅を構えた際、北東隅にあった寺院は壊さずに残しました。この寺院が海龍王寺の前身です。
不比等の没後、娘の光明皇后が相続し、邸宅は皇后宮となります。皇后は遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)が仏法をたずさえ無事に帰国することを願い、寺院の伽藍を整備しました。
天平7年(734)に玄昉が帰国すると、聖武天皇・光明皇后は最新の仏教や鎮護国家の基礎となる仏教政策を学んだ玄昉を重用し、内裏に近いこの寺院の住持に任じます。
玄昉が唐からの帰路、暴風雨に遭遇するも『海龍王経』を唱え無事に帰国を果したことにちなんで、寺号が海龍王寺と定められました。

海竜王寺HP より



正面中央に佇む御本尊の十一面観世音さま
戸張の間に、ひっそりとほっそりと見えます大きくない全身像。
「お近くで・・」と言う案内書きがあったので、かなりの至近距離で拝観。

その美しさに思わずため息とも感嘆とも言える
はぁ〜というか、わぁ〜というか・・が出た。

その、お姿、表情はまさにMERCY



御本尊
十一面観世音菩薩像
海龍王寺HPより


当寺の本尊で、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されました。
檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけており、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞、手には臂釧・腕釧をつけています。
衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されています。
頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いています。

海竜王寺HP より



大きく深く感動したのは、表情はもちろんのこと
その細やかに施された衣、飾り、そして、しなっとした身体のライン。

衣の柄が鮮明にわかり、波打つヒダと透け感。
また装身具の精巧さ美しさに当時の技術力の高さとセンスの良さに
シビレました。

じーっと見つめていると、その繊細な細工が施された首飾りがふら〜っと
小さく揺らいだのです。
本堂の中の、これまた厨子の中にいらっしゃるその観音様の揺れる飾りを
見た時、
この方、息をされているのでは・・・と
そんな淡い息遣いを見た(感じた)瞬間だった。


観音菩薩・・・男性よね?!

美しすぎますよ。





本堂には他に文殊菩薩様、愛染明王様も本堂に拝観できます。


次に観てびっくりしたのが、西金堂に安置されている五重塔


境内西側の西金堂
雪柳が咲くと一面真っ白になるとのこと



こちらの五重塔、これまたビリビリにシビレた!


重文
五重塔


寺宝


創建当時から西金堂内に安置されており、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られていることから、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる上にも重要であること。建造物としての五重塔はこれ一基しか存在していないので、これらの点からこの小塔の価値が高く、昭和26年6月9日、国宝18号として指定を受けました。
小塔は屋内で安置することを目的とした為、近くから見たり拝んだりするので、近くから見た時の工芸的な性格を非常に重視しており、小塔の外部は組物などの細部にいたるまで忠実に作られています。

海竜王寺HPより


高さ4mほどのサイズ。なぜに?

通常、寺院には高さが数十mの大きな五重塔があるのが一般的ですが、海龍王寺は飛鳥時代から建っていた寺院をもとに創建されたことに加え、光明皇后の住居(光明皇后宮)内という限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にありました。
この事情の中で「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられています。

海龍王寺HPより



それはそれは美しい木造建造物。
千年の時を超えて現代まで立ち堪える歴史の傍観者。
お寺、時代の栄枯盛衰の立ち証人。
次の千年も頑張ってほしい。




東金堂は焼失して現在は跡地だけ残る。
そこにはクチナシの実が黄金色に輝いていた。



本堂と西金堂と
クチナシの実



これだけ見事に実が成っているということは、花が咲く頃はさぞかし
甘い香りで境内が包まれることでしょう。
そう、帰りがけに受付でお話したら、以前その香りでトイレの芳香剤の匂いがプンプンだったというコメントがあったそう・・・
そうか〜クチナシの花の香りを知らない方には、そうなるのですね〜と笑った。




大きくなはない境内


龍王舎



クチナシと経堂



経堂




御本尊、五重塔、境内散策ですっかり満足して、そうそう目的目的!

最初に受付で伺っていた写経所へ。


そう、このお寺を改めて知るきっかけになった本というのが

写経の古寺巡礼』 乾 侑美子


ある知人の本棚で見つけてパラパラめくった一番最初に出てきたのが
確かこのお寺だった。

奈良時代にここ海龍王寺で般若心経の写経が盛んに行われ、隅寺(皇后宮の北東隅にあったため)の別称にちなんで『隅寺心経』と呼ばれている。
そんな内容が綴られていて、これは要チェック!となったのである。

そしてここに弘法大師空海の筆による写経手本が伝わるというではないか。
これもかなり有名なことのようだが、始めるまで全く興味も知識もなかった写経、
知る由もない。



写経所内





受付に戻り、写経手本を求めさていただきました。
折れないように段ボールの箱に入っている。
開けるまでどんな書、字か楽しみ。


お手本をいただきながらお話ししたのが、建造物の傷みと老朽化のこと。
本堂などの外観を写真に収めながら、その劣化具合に驚きと悲しみを覚えた。
これだけの歴史と由緒があるお寺、山門を入った時から感じた衰退感と言いますか
朽ち感?!
只事ではないと実は感じていた。

やはりそれは厳しい状況のであり、復旧、解体修理が必要であるようで
色々動いているとおっしゃっていた。
その動きの一つが勧進写経。

現在『隅寺心経』と称する般若心経の写経は世間に多数存在しておりますが、正真正銘の隅寺心経は海龍王寺に伝わるもので、弘法大師空海筆と伝わります。海龍王寺のお写経は、弘法大師空海が唐に無事渡ることを願い、隅寺心経を写されたことにちなんでおりますので弘法大師空海の追体験になります。弘法大師空海が書写した隅寺心経を写していただくことで古代の人と心を重ねていただくとともに『令和の隅寺心経』として般若心経写経のルーツを後世に伝え、本堂を解体修理するための勧進写経にさせていただきます。

海龍王寺HPより


小さな小さな微力な勧進ですが、心をこめて納めたいと思います。


その般若心経の写経、はじめた話は以前綴ったが一応現在も毎日書いている。
もちろん敷き写し。しかも筆ペン。
今まで二つの字体の手本で書いている。
どちらも好きで、それぞれの文字を味わいながらなぞっている状況。



箱からお出ましの『隅寺心経』

伝 弘法大師筆



弘法大師といえば達筆で有名。
「弘法も筆のあやまり』という言葉、子供の頃は意味を知らずに使っていた。
弘法さんが誰かも知らず・・笑

なかなか豪快なイメージの方だが意外と几帳面?
そんな印象の字だが強い意志は感じる。

なぞるのが楽しみ。
ただ、これをなぞるにはもう一歩進む計画(筆デビュー)があり
それはつづきにて。




遣唐使船で暴風雨にあい遭難しかけた玄昉達が種子島に漂着し
命懸けで持ち帰った最新の唐の仏教情報と仏典。
海龍王の霊験のおかげということからの寺名。
そこから、旅の安全祈願のお寺にもなったとか。


荒波越えて
いい旅を!




今年の龍の波にのって、お寺の修復計画がうまく進むことを祈ります。






境内の大きな梅の木
綻んできた





黄金の実る朽ちる古刹は、荒波を越えて次世へ渡ろうとしている





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