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妖の間(あやかしのま)終

理恵と翔太と真理は談笑しながら妖の間に戻ってきた。

「いい風呂だったね。湯船にお父さんがいるみたいだった」翔太が言うと理恵が笑った。少し寂しそうな笑顔だった。

「お前たちは20年前にお父さんとここに来たことを良く覚えているんだね。湯船の中で溺れたお前が見えなくなってさ、お父さんが慌てて必死になって、湯船の底に沈んでいたお前を助け出して…」

「うん、覚えてるよ…って、うろ覚えだけどね。あのときのお父さんは背がすらっと高くてかっこよかったよね」

「ああ、かっこよかったよ。今のお前はあの人にそっくりだよ」

「そうかな…」翔太が照れて笑った。

「本当に似てるよね。アタシは写真のお父さんしか知らないけどね…」真理には健太郎の記憶がないようだ。

「ほら、早く部屋に帰ろう。お父さんが待ってるから」

「待ってるだって…」翔太と真理が笑った。

「お父さん、待っててねぇ」真理が両手を口に当てておどけてみせた。

「こらっ!お父さんの命日なんだから真面目になさい」

「ははは、ごめんなさい」

健太郎は20年前にこの宿の露天浴場で死んだ。酒を飲んで露天の冷気にあたって心筋梗塞を起こしたのだった。当時、理恵は健太郎と離婚するはずだったが、まだ離婚していなかったので健太郎にかけていた保険金が入った。金額は1千万円だった。貧乏しても何かあったときのためにと夫婦で入った生命保険は解約していなかった。そのおかげで理恵は、ふたりの子どもたちを育てることができた。

スーパーの仕事も辞めずに頑張って働いた。ふたりの子どもたちも優秀で、無事に大学に入ることができた。ふたりとも医学部だった。翔太は大学を卒業すると地元の総合病院の医師になれた。理恵もスーパーを辞めずに頑張った甲斐あって店長になれた。真理は翔太同様に医師を目指している。

3人は、健太郎の一周忌から毎年の命日になると、この「妖の間」に泊まって健太郎に思いを馳せた。最後は健太郎と離婚することを決めるまでに仲が冷えてしまったが、健太郎のおかげで今の幸運を掴み取ることができたのだ。理恵は健太郎に離婚を迫ったことを後悔していた。

妖の間のテーブルの上には写真立てに入れた健太郎の写真を置いていた。

「戻ったよ、お父さん」翔太が健太郎の写真の前に座った。

「だめだよ、そこはアタシの席…」真理がドンと翔太にぶつかって席を横取りした。

「あ、てめぇ!お父さんの前は俺の席なんだよ!」翔太が真理の前に割り込んで真理を横に押し出した。

「キャハハハッ」翔太と真理がじゃれ合っているのを見て「いい加減にしなさい!」と理恵が大声でふたりを制した。

その隙に「ここはアタシの席よ」と健太郎の写真の前の席に座った。

「あ、ずるい」翔太と真理が理恵の左右に身体を押しつけた。

「キャハハハッ」親子3人は楽しそうだ。理恵が正座に座り直して健太郎の写真に向って「ケンタ、今年もありがとう」と言って手を合わせた。それを見た翔太と真理も健太郎の写真に手を合わせた。

「お父さん、本当にありがとう」理恵と真理が泣いていた。

「おいおい、お母さんと真理は、毎年泣くんだね。もういい加減にしないとお父さんが心配するよ」

「そうね…」理恵は浴衣の袖で涙を拭いてから健太郎の写真を見た。健太郎も泣いているような顔をしていた。

「こら、泣くな」健太郎に向ってそう言うと理恵は、また泣いた。

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