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#31 作家は三代で作られる?


「作家は三代で作られる」
そう、わたしに教えてくれたのは、誰だったかしら……。

わたしは、書くことが好きでいながら、書籍に関わらせてもらったこともありながら、まだ、まだ、作家でもライターでもないと思っている。

そんなわたしだからだろうか。
上記の言葉を聞いた時に、「わたしは何代目なのだろう」と考えを巡らせたことで、その言葉を覚えていたのだと思う。

そして、その言葉は、読書好きの娘が、本にのめり込んでいる姿をみるたびに、ああ、こういう子こそ、作家になるのかもしれないな、と思い、「わたしは二代目なのかもしれないな……」という考えをよぎらせた。
少しばかりの虚しさと、期待の混ざる複雑な心情の中で。

虚しさの背景にあるのは、望んでも、望んでも、それでもまだ書くことを仕事にできていないわたしの現状であり、期待は、もし彼女(娘)が望んで、作家という職業につくことがあるのなら、またクリエイティブな世界の中で、自己を表現することに喜びを見いだせるのなら、ぜひ、その時間の中に身を浸して欲しいな、という思考から生まれる期待だ。

親が子に多くの期待をもつことを良しとしないわたしの考えからすれば、その思考には矛盾が生じる。
だから本音を言えば、彼女が、作家を含め、クリエイティブなものに興味を示さなくても、全く持って構わないのだ。

けれど、幼き頃より本が好きな娘が、読めない漢字も「本が読みたい」という欲求に従い読み進めるうちに、前後文から汲み取って、なんとなく読めるようになってゆく姿や、数時間本を読み続ける(音読で!)姿を何年も見てきたわたしからすれば、

「ああ、こういう人が作家になるのかもしれないな」

と思うのは、至極当たり前なことのような気がする。

しかも、あんなにしょっちゅう、グータラして、いつもぼんやりしている人(わたしです)が、本を出版できたのだから、わたしにもできるかもしれない、という考えが娘の中に根付いているのであれば、娘が実際に作家を目指すようになったときに、
「わたしだってできる」
という根拠なき自信が、目指す場所へ娘を運んでいくかもしれない、などと思うのだ。

そんな娘が昨日、
「ママ、いつもありがとう」
と、小さな包みをプレゼントしてくれた。

行事ごとに関心の薄いわたしが、ほへ? みたいな顔をしていると、
「母の日だよ」
と、半笑いの娘につっこまれた。

「ありがとう。うれしい。だいすき……」

それしか語彙をもたない子どものように、同じ言葉を連発しながら、お手製の包みを開いてみれば、中身はなんと、中村文則さんの『教団X』。

小6の女の子が母親に選ぶ本としては、センスがいいな、と笑いながら、わたしは疑問を彼女に向けた。

「なんで、これを選んでくれたの?」

「ママの本棚になかったのと、後ろを読んで、面白そうだと思ったから」

娘の返答に、さらに感謝を述べ、わたしは背表紙の文字を追った。

宗教団体
快楽と革命
四人の男女
神とは何か、運命とは何か。
絶対的な闇とは、光とは何か。

目に飛び込んでくるワードに、さらに笑いながら、これらのワードを拾って、「面白そう」と言う彼女の感性を愛しく思った。

「あなたは、素晴らしいね」

そう告げたら、娘は、少し前のわたしみたいに、ほへ? というような顔をしていた。

まだ幼さの残るその顔を、わたしはいつか忘れてしまうだろう。
全ての記憶をとどめておくことなどできないからだ。

けれど、本は残る。
それは、物質がもつ素晴らしさだと思う。
わたしは『教団X』を見るたびに、12歳の娘が、わたしを想い、この本を選んでくれた時の心情を想像して、心を温めることができるのだ。

これ以上、素敵なプレゼントなんて、ないよな……。
心から、そう思う。

そして、彼女が三代目でもいいと思いながらも、わたしも作家として生きたいという欲がまた湧き上がる。

なぜなら、わたしが紡いだ物語に、いつか彼女が手を伸ばすことがあるのなら、その中には、少なからず「わたし」がいるからだ。

わたしがどのように生き、どのようなものに思いを馳せ、どのような言葉を集め、どのように人を愛したか。

本に長く親しんできた彼女なら、きっと、そこに含まれている想いを汲み取ることができるだろう。

ここまで書いてみて、ひどく胸が高鳴る。

もしかしたらわたしは、そのためにだけに、一作を書くかもしれない、という思いが、胸中で疼いたからだ。

「心を込めて、いつかの彼女に届くためだけに書きたい」

高鳴る鼓動の中に生まれたそんな思いは、彼女がわたしにもたらしたものなのかもしれない。

ありがとう、R.

前作からのもらいワード……「至極」


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