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何気ない日常の大切さに気づいた瞬間

歳をとればとるほど、何気ない日常の大切さというものをしみじみと感じる。
たとえば朝起きたときに、体のどこにも痛みがない。「さあ、朝ごはん作るか~」と、一人ですっと起き上がる。それだけで、その日一日はとてもハッピーだ。(カンのいい方ならお気づきだと思うけれど、私は少し前にプチぎっくり腰になり、朝、一人で起き上がるだけで痛みと戦いながら10分かけて起き上がった)

今週は、卵が2パック手に入った。
いつも、週に一度ネットスーパーで、1~2パック購入するけれど、ここ最近の卵の値上がりに加え、お一人様1パックまでとなったり、そもそも卵が在庫切れになっていたりした。ならばと街のスーパーに買いに行くと「鳥インフルエンザの影響で、供給が安定していない旨のお詫びとともに、卵コーナーはガランとした空虚なスペースに変わり果てていた。
しかし、前述の通り、今週の私は卵を2パックゲットしている。惜しみなくスクランブルエッグを作りパンにのせ、チーズをたっぷりかけてトーストした。
めっちゃ美味しい。

今の私は、そんなことにとても幸せを感じる。感じることができる。

認知症の母と暮らし始めた時、母と一緒に毎日散歩をするようになった。
それまでの私はそこそこに毎日忙しくしていて、精神的な余裕もほとんどなく、そんな中、母の介護も始まってしまった。
ただ、母との散歩の時間は、そんな喧騒から離れ、とても穏やかな時間が流れていた。

母の歩幅に合わせて歩く。
いつもは自転車かっ飛ばして通っている道も、入ったことがない脇道も、杖をついて歩く母と腕を組み、ゆっくりと歩く。

母と途中で休憩するために立ち止まり、そこで久しぶりに空を仰いだ。
空をこんなにゆったりとした気持ちで見上げたのはいつ以来だろう?
何の変哲もない、白い雲がちょっぴり浮かんだ青い空。
びっくりするほど、その空は美しかった。
いつも見上げれば、そこには空があるのに、全く見えていなかった。
この頃からよく、空を見上げ、写真を撮るようになる。

家に戻れば、また心も体もごっちゃごちゃになる。
何も考えず、母と一緒にぼーっと空を見上げるこの瞬間は、なによりも贅沢な時間だった。

毎日がしんどかった若い頃、そのときはそのときでもちろん苦しみはあったのだけれど、今の私が喉から手が出るほどほしい、健康で体力がある体、自分だけの時間、どこにだって行ける気力、そして美味しいごはんを作ってくれる母がいた。
あのときは、そんな幸せな自分の環境に全く気がついていなかった。
つまらない自分の人生を呪ってばかりだった。

凡庸な日常の、何気ない瞬間が、実はとても幸せで、美しいのだ。

私はそのことに気づくまで、ウン十年もかかってしまった。
もっと早くに知りたかった。
自分には凡庸に見えている風景も、他の人から見たら非凡な景色かもしれない。だから私は凡庸な毎日を日記で綴るし、何の変哲もない日常は素晴らしいと物語に書く。

つまらないと思う日々の中に、幸せはひっそり佇んでいるのだ。


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