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孤独は必ずしも排除すべきものではない、という話

大雨でキャンプの予定が流れた三連休、箱根で湯治ついでにアート補給をしてきた。久々に訪れたポーラ美術館、私の知らなかった時代のピカソ、めちゃくちゃ良かった。

海辺の母子像 1902年

そんな展示の中で、壁にこんな言葉が書かれていたのを見て私の足は止まった。ピカソが50歳くらいの頃に残した言葉だった。意外だな、と私は思った。

孤独なくしては、なにも成し遂げられない

私の中で彼は、恋多き男という印象だ。途切れない恋人たちとの関係の中で生まれる刺激が、彼の創作意欲をかきたてたのだと想像していた。

確かにその側面もあったのだろうとは思う。ただ、この言葉を見て思った。なるほど。人は誰かと一緒にいるから孤独じゃないという訳でもない。誰かと一緒にいても、いや、誰かと一緒にいる(いた記憶がある)からこそ、感じる孤独というのもあるのだろう、と。

この「孤独」という言葉がトリガーとなり、かつて誕生日に友人がくれた「水瓶座」という本の中に、こんな一節があったのを思い出していた。(私は水瓶座です)

たくさんの友達がいて、仲間がいて、支持者に囲まれているようなときでも、あなたはどこか(中略)ふわりとした分断を、ひそかに心に抱きしめています。(中略)

あなたはいつも自分の足で立ち、広い宇宙に乗り出していこうとするがゆえに、いつも微かな孤独を抱えているのです。(中略)

あなたは寂しがり屋で甘えん坊なところがありますが、それは不思議と、あなたの自立心や孤独感とは、関係がないのです。

あなたは、「孤独を癒されたい」とは、思っていないと思います。

あなたが必要としているのは、孤独による疲労や苦しみをあたためてくれる存在であって、孤独そのものを消し去ってくれる誰か、ではないのです。

あなたを大切に思う人は、あなたの孤独の本質を理解し(中略)、あなたの孤独を、払拭しようとするのではなく、むしろ、まもってくれるはずなのです。そして、決してあなたを、孤独の中に一人ぼっちに置き去りにはしないのです。

石井ゆかり著 「水瓶座」

私は初めてここを読んだとき、泣いた。文字通り泣いた。自分の言葉にならない思いを代弁してくれているようだった。いや、もしかしたら自分でも気づいていなかったそのことに気づかされたからかもしれない。あるいは、そんな風に大切にしてくれた人のあたたかさを思い出して泣いたような気もする。

自立心の強さに「一人でも生きていけるでしょ」と言われて悲しい気持ちになるのは、きっと、広い宇宙に置き去りにされる感じがあるからなのだろう。たぶん一人でも生きていける、自分でもそう思う。でもそれ(自立心)とこれ(孤独感)は関係がないのだ。一人でも生きていける自分を丸ごと受け入れて誰かにまもってほしいと思っている、そういうことなのかもしれない。

ピカソが残した「孤独なくしては、なにも成し遂げられない」が本質的に何を言おうとしているのか、正しく理解できているとは思わない。けれど、孤独は消し去るべき悪ではない、という点で私はピカソに激しく共感する。

私は、明確に言葉にしてそう思ったことはなかったけれど、自分の孤独を大事にしてきたように思う。孤独から得られるものを、そういう自分を、丸ごと抱きしめてきたような気がする。

私の孤独も、いつか私が何かを成し遂げる一助となるのだろうか。またはもしかしてもうすでに、そうなっているのだろうか。

美術鑑賞はいろんな感覚や記憶を刺激する。その結果、同じ世界が違うように見えたり、自分の中のことがもう少しだけクリアに見えるようになることがある。そして同じ作品でも、その時の自分の状況によっては、受け取り方も変わる。だから面白い。だから私は美術館に行く。

ピカソが好きだからとか、油絵が好きだからとかそういうこと関係なく、アートが何か分からなくても、美術館は行ったほうがいい。ピカソが何を伝えたかったのかを受け取らなくてもいい。自分が何を受け取ったか、それだけでいいのだ。

ポーラ美術館、建築物としても素敵なので近くに行くことがあったら是非。

開放的な吹き抜け


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