私と、コロナと、陰謀論。
私は、コロナワクチンの接種を希望しません。
これまで、コロナワクチンについての記事やつぶやきを公開してきました。
ですが、8月19日の記事以外は、自分の立場をぼやかしてしまいました。
その理由は、はっきりと自分の意見を示すことに、ためらいがあったから。
ですが、ぽくらんさんが私のつぶやきを取り上げてくださったことで、もうためらっている場合ではない!と考えるに至りました。
この記事では、そんな「ためらい」を振り切ろうと決意するまでの経緯をまとめました。
実は、いわゆる「陰謀論」と呼ばれる言説が、この「ためらい」に色濃く反映しています。
0.私がカタカナ表記を使う理由
私の記事では「アタリマエ」「ヨノナカ」というカタカナ表記を使っています。
もちろん、これらの言葉を「当たり前」「世の中」というように漢字とひらがなで表現するのが一般的です。
ですが、私がある言葉を否定的に捉えているときには、あえてカタカナ表記をしています。
「当たり前」や「世の中」という言葉は、肯定的な意味でも否定的な意味でも使われます。
たとえば、「『ありがとう』という言葉を当たり前に使えるなんて、あなたは素敵ですね!」と表現するとき、この「当たり前」は肯定的な意味で使われています。
ですが、「他人に迷惑をかけないようにするのが当たり前だ!」(※)という表現では、他人に迷惑をかけることを非難するニュアンスが込められているという点で、この「当たり前」は否定的な意味で使われています。
私がカタカナ表記を使う理由は、その言葉を否定的な意味で使っている(そんな否定的な意味を私が嫌っている)ことを明確にしたいからです。
ですから、私が(※)を書くときには「他人に迷惑をかけないようにするのがアタリマエだ!」となります。
1.ヨノナカに対する疑問
私は、今のヨノナカ(日本社会)に対して「おかしい!」と感じています。
以前のつぶやきのとおり、子どもの頃から、私は「ヨノナカは弱い立場の人に冷たい」と感じていました。
そんなヨノナカを変えるのが政治の役割だ!と思い、弱者救済を訴える候補者・政党に投票してみても、必ずと言っていいほど敗北します。
だったら、行政を内側から変えればいい!と意気込んで地方公務員になってみても、住民のために仕事をしようとすると「余計なことをするな」と言われるだけで、最終的には私自身が精神疾患になってしまいました。
弱い立場の人間は、弱いまま朽ち果てればいい…
そんな暗黙のメッセージをヨノナカが発していると感じ、私は苦しんでいました。
2.陰謀論との出会い、そして…
陰謀論(いんぼうろん、英: conspiracy theory)または陰謀説(いんぼうせつ)とは、ある出来事や状況に対する説明のことであり、他にもっともらしい説明があるにも関わらず、邪悪で強力な集団や人物による陰謀や謀略が関与しているとするものである。この言葉は、偏見や不十分な証拠に基づいているという否定的な意味合いを持って使用されることが多い。
私は、最近まで、陰謀論を信じていました。
失意のうちに地方公務員を辞めた頃、知人からとある陰謀論者のブログを紹介されました。
詳細を書くことは控えますが、ヨノナカの矛盾を「邪悪で強力な集団や人物による陰謀や謀略」として捉えることで、頭の中がスッキリする感覚を得ました。
また、それとは別の陰謀論を唱える集団(詳細には触れません)にも共鳴していました。
「邪悪で強力な集団や人物による陰謀や謀略」の存在を信じ、その集団や人物が近いうちに駆逐されるという言説を信じることで、ヨノナカに対して抱いている不満が解消されるような気がしていました。
ですが、最近になって、陰謀論に対して違和感を持つようになりました。
「宗教的な胡散臭さ」のようなものを、陰謀論に対して感じたのです。
それは、具体的には、
・「信者」にアヤシイ商品を売りつけようとする
・自分たちの「正しさ」を周囲に押し付けようとする
・自分の心の奥底の感情にフィットせず、何だかモヤモヤする
といったものでした。
「正しい/正しくない」ということを突き詰めて考えると、「正しさ」とは〈情報発信者が信じている「正しさ」〉であり、最終的には「信じる/信じない」という問題に行き着くのではないか?と思い始めたのです。
そして、「正しさ」を他人に押し付けることは、他人に自分の信仰を強制するのと同じで、他人を不快にさせる行為だと思ったのです。
3.他者を信じる前に、まずは自分を信じる
「信じる」とは、「何らかの心の拠り所を、疑わずに正しいと思い込むこと」だと、私は考えています。
その「心の拠り所」が、私の場合、最近までは陰謀論だったのです。
今年の6月下旬、私は陰謀論から距離を置こうと決意しました。
noteを始めた5月下旬は、違和感を持ちつつも、はっきりと決別するには至っていませんでした。
ですが、直前でご紹介した記事の内容を頭の中で整理しているうちに、陰謀論の「正しさ」を疑うようになりました。
では、私は何を信じたいのか?
何かを信じることは、私にとって本当に必要なのか?
現時点での私の結論は、まずは自分自身を信じよう、です。
このヨノナカ(日本社会)は、他人軸社会。
自分の心の声よりも、周囲の〈アタリマエ〉(ヨノナカの「(す)べき」「~(し)なければならない」という規範・ルール)を優先するように、知らず知らずのうちに教育されてしまう。
〈アタリマエ〉から外れることや世の中の冷たさに苦しんだ私は、他人軸を信じては疑うようになることの繰り返しで、常に心の拠り所となる他者(他人や、他人が作った言説など)を探していました。
ですが、noteで様々なnoterさんと交流するなかで、自分を信じることの大切さを痛感するようになりました。
それに、かわいがっているぬいぐるみを信じる(依存する)ことが、巡り巡って自分自身を信じること(自分を愛すること、自分を大切にすること、自分の人生を生きること)につながることもわかりました。
私の心の拠り所は、他者ではなく、自分自身。
そう思うようになると、陰謀論に対する未練はなくなりました。
4.私がコロナワクチンの接種を希望しない理由
以前の「陰謀論信者」だった私は、「陰謀」(人口削減)を阻止するのがアタリマエだと思っていたので、接種に反対していました。
ですが、その「陰謀」を「正しい」と思うことが信仰のようなものだと思うようになってからは、理由が変わりました。
今の私にとって、接種を希望しない理由は、ワクチンを接種することのリスク、特に「シェディング」(ワクチンを接種した人が、有害な粒子や物質を周囲にまき散らすこと)を恐れるから。
とはいえ、このような現象が本当に存在するのかを、私には検証することができません。
それに、仮に「陰謀」が働いているとしても、その事実が公になるのは遠い未来のことでしょうから、現時点では信じることはできません。
あくまで「そのような現象が起こる可能性がある」と信じているだけです。
あくまで、私の感覚・直感による判断に過ぎません。
他人の「信仰」(他人が信じている「正しさ」)を真っ向から否定することは、その人を傷つけることになる、と私は思います。
逆の立場で考えれば、そのような否定は不快です。
ですから、私の「信仰」を、他人に押し付けたくはありません。
ですが、ありのままの自分を大切にしたいと思う私は、この場で「コロナワクチンの接種を希望しない」と表明することで、自分に正直に生きることができると思っています。
(…何とまあ、自分勝手な言い草ですがw)
5.「ためらい」の正体
「せっかくつながることのできたnoterさんから嫌われたくない」
これが、はっきりと自分の意見を示すことへの「ためらい」の正体です。
ヨノナカから危険視されている「陰謀論」にかぶれていた自分や、今でも世の中の主流派とは異なる意見を持っている自分を知られることで、否定されるのが怖かったのです。
でも、嫌われるかどうかは、自分の課題ではなく、他人の課題。
自分自身の人生を生きたいのなら、自分の意見を堂々と主張すればいい。
だから、あえて「私と、コロナと、陰謀論。」というテーマで記事を書きました。
おかげさまで、気持ちがスッキリしました。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
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