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夏休みの宿題、無理しないで!

#8月31日の夜に 」の募集に参加します。

機能不全家族で育った私にとって、学校の勉強を頑張ることは「自分がしっかりしていなければこの家庭は潰れる…」「自分のつらさをわかってくれなさそうな人とは関わりたくない!」という強迫観念から逃れるための手段でした。
「宿題を期限内に全部こなすのは当然のことだ」という〈アタリマエ〉が体にしみついていたこともあり、夏休みの宿題を早々と終わらせることが、私にとっての当たり前でした。
宿題に取り組んでいれば、家庭環境のつらさを忘れることができる。
10代の私は、宿題を嫌がるどころか、喜んでこなしていました。


大学生になってから最近までは、塾講師や家庭教師として宿題を出す立場でした。
現実逃避のために進んで宿題をこなすしてきた私は「宿題なんてやりたくない!」と感じた経験はありませんでした。
ですが、日本の教育は何かがおかしいと思って教育学部に進み、そこで「どうして日本の学校では英語・数学・国語・理科・社会を教えるの?」と疑問を持ちました。
また、機能不全家族から離れることができ、強迫観念が薄れたため、学校で学ぶ目的が「不安をかき消したいから」から「自分の疑問を解決するため」に変わりました。
そんな私は、宿題を出す立場として「どうしてこの宿題を出すのか」を意識するようになりました。
生徒が宿題をこなさない理由は、宿題を出された理由がわかっていないからだ。
そもそも、学校で勉強する理由がわかっていないのではないか。
塾講師を生業とするようになってからは、理由を説明したうえで、宿題を出すようにしていました。


そして、一般就労が困難になり、学習塾業界から離れた、今。
宿題に対する考え方がさらに変わりました。

宿題とは「与えられた課題は、異議を唱えず、期限内にこなす」という〈アタリマエ〉教信者の心得を身に付けさせるための「苦行」である

自分の幸せよりも他人の幸せを優先し、自分を犠牲にすることがアタリマエだった私は、家族関係に行き詰まり、心身ともにダウンしました。
それをきっかけに「これからは自分の人生を生きよう!」と決意し、再スタートを切りました。
「自分を生きる」ということは、自分自身を受け入れて愛すること、自分の心の声に正直になることだと思っています。
自分を大切にしようと心がけているうちに、〈アタリマエ〉(ヨノナカの「(す)べき」「~(し)なければならない」という規範・ルール、世間体)に違和感を抱きながらもしがみついていた自分を発見しました。

学校の宿題は、多くの場合、生徒の要望を取り入れて出されることはありません。
宿題の内容は、学習指導要領に定められた内容です。
ですから、そもそも生徒が学習することを望んだわけではない内容について、生徒の要望とは無関係に出される課題が、学校の宿題の正体だと言えます。
「苦行」以外の何物でもないと思います。

自ら望まないことをさせられる。
「それが社会の厳しさってもんだろ?」と言われればそれまでかもしれません。
ですが、自発的に選んだわけではないことを強制されるのがアタリマエになっている社会自体がおかしい、と私は思います。



夏休みの宿題、無理しないで!

「どうして宿題をやって来なかったんだ?」と聞かれるかもしれませんし、宿題をやらなかったペナルティを受けることになるかもしれません。
ですが、それが自分の意思で、だれか・何かのせいにしないのなら、それでいいと思います。
それが「自分を生きる」ということだと、今の私は思います。

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