「飽き性」と「必要とされていない人」
昨日、おかしいことに気づいてしまいました。
私、自分のことずっと「飽き性」だと思っていたんですが、
飽き性なのではない、ということに気づいてしまったんです。
(昨日いただいた)今回の表彰で気づいてしまい、私の中ではものすごい衝撃でして・・・久しぶりにべコーン!って凹みました。
恥ずかしいことなので伏せたい気持ちは山々ですが、
私自身、根っからの自己否定の塊で長いこと生きてきた身なので、これは自己否定を経験している人はその傾向あるんじゃないかと思い、今回、すごく恥ずかしいけどシェアすることにしました。(もう一人遊びは卒業だ!)
恥ずかしい気づきも、誰かの何かのお役に立てば幸いです。
では本題ね。
前回の投稿(↓)で
「内心、私は必要とされていないのかも」って思っていたんだけど、
と書いたのですが、
そう思い始めてからずっと「この感覚、なんかおかしいなぁ・・・」って思っていたんです。
こんなにLivelyTalk楽しいし、好きなのに・・・
私はもう必要ない存在なのかもな・・・。
ん?でも・・・なんでそう思うのだろうか?と思ったのですよ。
ここから本当に恥ずかしい限りですが、
これがしたい!これがいい!と思って打ち込んだことで、好きだったことから離れたり、突然止めたり、長続きしなかったことが、これまで結構あったんです。
そんな時に(親や周りの人から)言われてきたのが、「飽き性だよね。飽きっぽいよね。何も長続きしないよね。」という言葉でした。
その言葉に何も疑問も持たず、「ああ、私は飽き性なんだ。飽きっぽいんだ。継続なんて無理なことなんだ」とそう思っていたんです。
なので、自分に可能性を信じることができず、これがしてみたい!と言う前に諦めてるような子でした。
だからと言って、興味が湧かないわけではなかったのです。想像力豊かだったので、自分が好きな分野への関心はかなり持っていました。
ただ、何か興味や「これがしたい!」と思うことを見つけるたびに、未知数な出会いへの嬉しさと同時に「またすぐに飽きるのかもしれない。何も結果出せないのかもしれない」と不安で窮屈な気持ちをいつも持っていたんです。
では、本当に私が飽き性だったのか?というと、実際のところ、私がその対象から離れたり、止めたりする時は「私はここに必要ないんだな。必要とされてないな。」と思った時でした。
思っているだけなので、誰にも言いません。
言ったところで理解されるわけがない、、、と思っていたんです。
その証拠ではないですが、私が続けられていることと言ったら、
スピリチュアル・潜在意識のこと、パートナーシップ、ノートタイム、自分観察(内観)、神社のお掃除、オタクっぽいところ、なんならInstagramで発信も、長期どころかずっと続けられることです。
毎日ずーっとできることもあるし、頻繁ではないけど、たまにすることで続けられていることもあります。
なので、飽き性とレッテルを貼ることもなんか辻褄が合わないなって、ずっと思っていたんです。
では、なんで今回、「ホストとして必要とされていないのかも」と思ったのかというと、他のホストさんと比べて、見えるような結果を出せていないと感じていたから。
つまり、私は「ニーズに合っていない。求められていない分野を取り扱っている」と感じ始めていたのです。
お恥ずかしい話ですが、努力不足もたくさんあると思いますし、自己プロデュースは初めてですので、勉強不足どころか視点が合ってないことも多々あるんだろうなとも思っています。
だけど今回、内心とは裏腹に思いがけず貢献部門で表彰していただいたことで、「運営の皆さん、すごく見ていてくださったんだなぁ」って、感動と共に改めて感心したんです。
なので、表彰していただいたことで、もう少し頑張ってみよう、引き続き修正していこうと思い直しました。
そして今回、「あ、なんか、まだ私はホストとして活動しながらできることがあるかもしれない」って思ったその瞬間に、
私の脳内でものすごい勢いで情報を引っ張り出してきたのが、
「なぜ女性は長生きをするのか?」という話でした。
超ザックリですが、過去に見聞きして得た情報が私の脳内でピックアップされでてきたんです(自分の身の周りの人で脳内で例えも出てきます)。
そしてその直後、私の脳と心は、私自身が今まで自発的に離れてきたことを振り返り、
ハッ!と気づいてしまったんです。
その気づきを見つけた瞬間、鼻血が噴き出たかと思うくらい、ぶわ!!!っと後ろにのけぞりました。
ずっと私は、「飽き性・飽きっぽい」と名づけ、必要ではないから離れていく行動をする自分を見ては、「またか(飽きたのか)・・・!」って思っていたんです。
だけど違った!笑
飽きたんじゃない・・・
《 私が必要とされていないと感じたから≫なんです。
しかも勝手に。
なので正しくは・・・
《 私が必要とされていないと、勝手に感じたから≫です。
では逆に、私が「飽きた」と感じるまでしたことって何かっていったら、
などなど・・・。
ありがたい、とか、嬉しい!という感動が薄れてきているのに気がついた時も「飽きた」が発動。
ウケてた話がウケないくらいに、ウケ度数が薄れ、無理やり笑おうとてきた時も「飽きた」が発動します。
そう、散々やって「もう、じゅうぶんしたわ!飽きた!やーめた!!!ぽーい!」ってな感じにやめていったことが「飽きた」ことでした。
では、なぜ自分は必要がないと思うのかというと、
自己否定が土台としてあったがためでした。
自己否定の塊だった私は、いつもどこにいても、自分不在で、何をしてもダメな子で、必要とされていない存在だと思い込んでいたんです。
なのでベースが「自己否定=私は必要ない」だったんです。
このベースで居ると、自分が居られる場所をいつも無意識に探したり、居られる(要られる)かどうかを常に伺ったりしているような感じ。
なので、人を信じることもできないし、何事も長期的に関わることに対して怖いと思っていました。
ある程度、世渡りができるようになっても、ベースは無意識のままにあるので、いつも出たり入ったりを繰り返します。
ちゃんと言葉の意味を理解していないまま、いつの間にか「飽きる=必要とされていない」と紐付けしてしまっていたんです。
私がなぜ結婚生活が続いているのかも、実は謎だった(!?)のも判明しました。
実は、結婚して7年くらいまで、ずっと「いつか飽きるんじゃないか?いつか飽きられるんじゃないか?」とビクビクしていました。
なぜなら、自分の価値なんてわかっていなかったどころか、自分には価値がないと思い込んでいたから。澄み渡る大きな青空を見ては、自分の不甲斐なさで泣いてました。自信なんて全くなかったんです。
私が夫や子供たちに飽きられていないのは、この人たちが生きる上で困ることがないように身の回りのことをするためだ、と本気で思っていました。
(なので、怒りが頂点になって爆発すると「私は召使じゃない!!」と怒鳴ってました。笑)
そんな経験も踏まえ、今回振り返ってみたことでわかったのが、
やっぱり「必要とされている・必要としている」というのをいつも感じているから、そして、お互いにその気持ちを伝え合っていることが大事なんだってこと。
もしも、夫や子供たちとの会話が少なかったら・・・
子供が独立するまでの辛抱とか、何を考えているのかわからない、早く会社に行ってくれればいいのに・・・とか思いながら、結婚生活は続かなかったかもしれないし、毎日がこんなに楽しくなかったんじゃないかと思います。
ただ「いっしょに住んでいる」状態で表面だけニコニコしていたかもしれません。(書きながら、悲しくなる)
今まで参加してきたコミュニティーにいた頃を振り返っても、私が離れる時は「私はお呼びじゃない・必要じゃない・私じゃなくても代わりはいるもの」、そう感じたことがきっかけでした。
仲間ができない、SNSを見ていると苦しくなる、自分に無価値観を感じるという方も、同じことが当てはまるのではないかと思います。
(これはまた別記事にしますね。私の経験で本当に恥ずかしくなってしまう話ですが、同じように感じている人にとても大切なことだと思うので。)
さらに、もう一つわかったことは、
自分とのコミュニケーションを大切にしていたことは本当に大きいってこと。
これも断言できます。
いったい自分は・・・
今、何を感じているのか?
今、体の状態はどうなっているのか?
今、何を考えているのか?
今、何を思っているのか?
今、何を望んでいるのか?
自分が反応しているなと感じた時も、そうじゃない時も、いつも、いちいちいちいち気にするようにしていたら、気がつくと世界はガラッと変わってました。
自分というひとつの個が、全てに繋がっているのです。
だから、外側の誰か/何かを変えようとするよりも、内側の自分とのつながりをしっかりしていけば、外側は勝手に反映されていきます。
これは私自身の人生はもちろん、世界各国の成功者と呼ばれる人たちの人生でも実証済みです。
◉ 簡単にまとめると・・・
せっかく素敵な巡り合わせであっても、「必要とされていない」と勝手に思い込んでしまうことで、ご縁がきれてしまったりしたら、すごく残念ですよね。
しかも、それを「飽き性」とか「飽きっぽい」と勘違いして、自分を責めたり、勇気をだせなかったりしたら、それも残念ですよね。
私は可能性を狭める考えではなくて、可能性を拡げる考えが好きなので、今回の気づきはとても大きな衝撃ではあったけど、気づけてよかったと思いました。
だからこそ、日頃のコミュニケーションはとっても大切。
お互いに感謝を伝え合って、損することは何一つありません。
人によっては「この人嫌だな、苦手なんだよな〜」と思う面もあるかもしれないけど、「私はここにいてもいいんだ。必要なんだ」という気持ちを常に持つことは、個人だけじゃなく、みんなでする努力の一つなんだろうなと思います。
そうすることで、よりよいチームや関係になったり、全ての成長発展にきっとつながります。
そして、一番身近な人、パートナーと子供たち、家族にはちゃんと伝えること。
家族にできたら、自然と周りにもできるようになってくるからです。
今回気づけたことで、益々、コミュニケーションそのものを愛おしく感じました。
私は、これからもLivelyTalkで、絶対的な安心安全の場で在り続けます。
とっても恥ずかしい話でしたが、この経験が誰かのお役に立てたらこの上なく幸いです。
皆さんにとって素敵な1日となりますように。