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ポール・オースター編 柴田元幸 他訳 『ナショナル・ストーリー・プロジェクト 全2巻』 新潮文庫

5月に一週間ほど入院した。入院中に退院予定日の夕方に予約を入れておいたマッサージ店にその後も通うようになった。その店は普段利用している駅の隣の駅の駅ビルにある。ビルと言っても二階建てで、一階がスーパーで二階はマッサージ店のほかに書店や床屋などが入っている。その書店の品揃えが気に入っていて、マッサージに出かける度に何かしか買って帰る。先日ここに上げた『古本屋 タンポポのあけくれ』もそこでたまたま目にとまって購入したものだ。二週間ほど前にはポール・オースターが編集したというこの本を買ってきた。

ポール・オースターが書いた作品ではなく、ラジオ番組の中で募集した聴取者の体験談の中から彼が選んだものを編集して一冊の本にまとめたのだという。しかし、そういう体裁にして彼が書いたのだ、と言われても、そうかなと思うような内容である気がする。尤も、彼の小説を読んだことはないのだが。ポール・オースターは今年4月に77歳で亡くなった。彼の両親はポーランド系のユダヤ人だという。

アメリカというところには仕事でしか行ったことがない。短期間の滞在ばかりで、いつも目的がはっきりしていた。空港から訪問先へタクシーや予め手配されていた車で直行して、用が済んだら宿で一服して次の目的へ向かうか帰国するかというような慌ただしいものばかりだった。そんなふうなのに、なぜか記憶に引っ掛かって忘れないことがたくさんある。本書を読んでいて、そういう記憶の断片が次々に浮かんでは消えていった。アメリカを最後に訪れたのはいつだったか俄に思い出すことができないのだが、前世紀のことであるのは間違いない。

本書の元になるラジオ番組での聴取者への原稿募集の呼びかけが行われたのは1999年10月第一土曜日の放送でのことだそうだ。投稿の条件は、事実であること、短いこと、だったという。約一年で4,000通を超える原稿が寄せられ、そこから厳選された原稿が編集されて一冊の本として世に出たのは2001年9月13日のことだった。同時多発テロの2日後だ。あの事件を境に「アメリカ」は大きく変わったはずだ。しかし、もし今、同じ企画があったとしても、寄せられる原稿の内容は本書と然程変わらないのではないかとも思う。

「Sioux Falls」と書いて「スーフォールズ」と読む。出張で行き先が書かれた書類を見た時、何と読むのかわからなかった。サウスダコタ州最大の都市だが、人口は今でも15万人ほどでしかない。ダコタというところはノースもサウスも辺鄙なところの代表らしい。ジョン・レノンが最後に暮らしていたのは「ダコタ・ハウス」という名のアパートだったが、ニューヨークの市街から外れたところに位置していたので、その外れた感から「ダコタ」という名前が付けられたという話を聞いたことがある。

スーフォールズにはサウスダコタ州の教職員組合年金運用部がある。そこが当時の勤務先の顧客だった。州の教職員組合というのはかなりの運用資産を持っている。有名なのは「カルパス」と呼ばれるカリフォルニア州の教職員組合で、その動向が有価証券市場に大きな影響を与えることもある。米国で顧客訪問をすると、そういう年金運用の客先がいくつか必ず入った。

カネ周りの仕事をしているのはクセの強い人が多く、大抵は人相が良くない、と自分を棚に上げて思っている。ところが、スーフォールズでお目にかかった運用担当者は、全身で善人感を発散していて、話をしていて気楽で愉快だった。その一事が米国という土地の何事かを私の中で象徴している。つまり、そこに自分が「アメリカ」という国に対して抱く漠然とした地政学上の印象と、そこで暮らす個人に対するなまの感じとのギャップに自分なりの「アメリカ」を想うのである。

本書にはスーフォールズが登場する話がひとつある。「お祝い」という題が付されたその話はこんなふうに始まる。

 一九四五年八月十四日——日本が降伏して第二次世界大戦が終わった日だ。私はサウスダコタ州スーフォールズ郊外の空軍基地に配属されていた。我々はその日の夕方近くに降伏の知らせを受け、基地にいたほぼ全員が勝利を祝おうと直ちに町へ向かった。充分な台数のジープやトラックがあるわけではなかったので、大部分の人間はヒッチハイクした。なだらかに起伏する牧草地を通っていく道のりは、なんとのどかだったことだろう。点々と牛が草を食み、頭上には見たこともないぐらい真っ青な明るい空、ふわふわ浮かぶ白い雲もいつにも増して白く明るかった。

2巻 84頁 「お祝い」 レジナルド・セアー ニューヨーク州パリセーズ

本書には戦争に纏わる話も多い。「戦争」という章立てがあり、そこに20篇の物語があるが、それ以外の章にも戦争に絡んだものがいくつもある。「お祝い」は「戦争」の中にある。本書に取り上げられている「戦争」は南北戦争からベトナム戦争にかけてのものだ。本書の元になっているラジオ番組の聴取者の間では第二次世界大戦とベトナムの記憶が大きな位置を占めているということなのかもしれない。おそらく、「アメリカ人」としてのアイデンティティの形成にもこれらの戦争が大きな役割を果たしているのだろう。

戦争の終わりは停戦や終戦の合意というはっきりとしたものだが、始まりは必ずしも宣戦布告からというわけではない。宣戦布告を行う時にはもはや後戻りのできない状況に陥っていることの方が多いのではないか。主義主張の対立というような綺麗事ではなしに、種々雑多な対立が積み重なり、ついにはのっぴきならないところまで行ってしまう、また行かざるを得ない状況がある、というような。それをこの国は18世紀の「建国」からわずか二百数十年の間に何度も経験するのである。「建国」に至るまでにも平坦な道のりではなかったであろうし、独立宣言が引き金となって旧宗主国との間で独立戦争が勃発する。その後も領土を広げながら、先住民や近隣との間で数限り無い血生臭い経験を重ねてきた。その末裔が語る「戦争」が日本語で言うところの「戦争」と同じとは思えない。

国産み神話というものがある。長い歴史を紡いできた共同体には大概あるだろう。宗教の聖典と一体化していることもある。そうしたものに語られているのは、それが描く世界観に拠って生きている人々の「私」の存在根拠なのだと思う。「日本史」がどこからどのように始まるのか知らないが、記紀や万葉集のような古典を超越した古典文学が当たり前のように現代の書店の棚に並んでいる国は他所にはないらしい。そういうものを読んだことがあるとかないとかに関係なく、そういう社会に生を受けて生きていること自体が「私」の自己認識に大きな影響を与えていることは確かであろう。

そういう「私」の暗黙の前提が無い場合はどうするのか、ということに対するひとつの回答がアメリカという国のありかたであると思うのである。「私」をゼロから拵えるにはどうしたらよいのか。

アメリカは「建国」から僅か二百数十年の間に何度も他所に出かけて大きな戦争に参加し、膨大な数の「国民」が命を落としている。ベトナムのときはさすがに大きな反戦運動が起こったが、それにしても多すぎないか。1776年7月4日に独立宣言を発して以降、独立戦争、米英戦争、米墨戦争、南北戦争、インディアン戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、東西冷戦(朝鮮戦争、ベトナム戦争、中米戦争など)。本書の発行後も世界各地で武力紛争に絡んでいる。単に国益に反する組織や地域に対して武力を行使せざるを得ない現実があるというだけのことかもしれないが、それにしてもという感じは拭えない。

戦争はそれ自体は消費蕩尽行為だ。国を挙げて武器弾薬を生産し、国家経済の生産活動の主力となるはずの体力知力の充実した若者を戦地に送り出す。当然、その間は当たり前の生活が犠牲になる。勝利するか和解するかによって相手方から何事かを得ることで戦争行為やそのための犠牲が意味を持つ。敗北して隷属したり滅亡したりすれば、意味もクソも無い。正気でできることではない。

神話の無い共同体が存在し続けるには、自ら神話を代替するに足る強力な存在根拠を創り上げなければならない、はずだ。しかもそれは共同体の構成員が遍く容易に確信できるに足る単純明快なものでなければ効力を有しない。勝つか負けるか、儲かるか損するか、二択や数量で表現できることが共同体の存在を保障することになるのは自然なことではないか。勝つこと、勝ち続けること、儲けること、儲け続けること、その共同体で「私」を保つにはそれ以外に途はないのである。そう考えると、けっこう多くのことが腑に落ちる。その「私」をより確かなものにするのに、何がしかの物語で単純明快低俗なコアを包み込むことで、そのコアが神話に昇華されるのではないか。刀は手の込んだ装飾のある鞘に納め、拳銃は上等な革のホルスターに収納してこそ有り難みがあるように、ドロドロの欲望は美しい物語で包み込むことで人を強く引き付け続けることができるのではないか。

何を意図して「ナショナル・ストーリー」なのか知らないが、本書に収められた物語の多くは人の縁というものの必然を描いている。それは巡り巡って「私」の存在の必然をも語っているように見える。「アメリカ」という共同体に生きる「私」の物語だ。つまり「ナショナル・ストーリー」だ。なんとなく我が国の万葉集のようではないか。

とはいえ、神話は完璧では神話にならない。生身の個人の日常の中の一コマを寄せ集めたくらいの方が、かえって深さを持つようになるのかもしれない。

自分が何もかも答えを持っているわけではないと認めることが肝要なのだ。すべて答えを持っていると思っている人には、大切なことは何ひとつ言えないだろう。

1巻 17頁 編者まえがき

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