国宝茶碗
毎週木曜日の昼休みの時間に職場で勉強会がある。部内の各自が順番で毎回2人、ひとり15分で何事かを語るというものだ。先週、私の番が廻ってきた。最初は昨年9月で、それに続く2回目だ。本当は12月に2回目が巡って来たのだが、相方が30分使いたいというので譲ったのである。ざっくりと3ヶ月に一回くらいの割だ。
初回は百人一首にもある崇徳院の「ちはやふる春をもきかず竜田川唐紅に水くくるとは」を取り上げて日本語について語った。15分では収拾がつかずだいぶあたふたとしてしまった。それで、今回は話の的を絞り、「国宝」という「評価」がどのように決まるのか、ということについて茶碗を題材に語った。自分で言うのもなんだが、つまらなかった。
国宝については俳句のネタにもした。
国宝だそれがどうした文化の日
この句については『月例落選 俳句編 2023年3月号』でこう書いた。
しかし、改めて国宝について少しばかり調べてつらつら考えてみたところ、多少は自分の腑に落ちるところもある。モノのそれ自体というより、それを取り巻く巡り合わせの妙の奇跡的な希少性が「国宝」の価値なのだと言うのが、現時点での理解だ。それで、先の句を詠み直した。
国宝だ真似ができるか花見酒
まず、国宝の定義を確認しないといけない。文化財保護法には27条に定めがある。
国宝は重要文化財の中から特に選ばれたものであることがわかる。その重要文化財は有形文化財の中から選ばれたものであることもわかる。同法での文化財の定義はこうなっている。
有形文化財は条文の「一」で規定されるものであり、その中から重要文化財と国宝の件数をまとめると以下のようになる。
上の表の数字は件数を表している。複数の物品からなるものは、それら全体で1件とする。例えば、伊藤若冲の絹本著色動植綵絵は30幅で1件と数えるし、古墳の出土品も古墳(群)単位で1件だ。しかし、茶碗の場合、まだ組み茶碗の国宝はないので、1客1件の指定である。おそらく、箱書や包布も含めるのだろう。
上の表で、陶磁器は「工芸品」に含まれる。土器や土偶の類は「考古資料」になる。「工芸品」の国宝は254件だが、この約半分である122件が刀剣類、仏具・神器が107件を占める。このあたりの内数は私が「正」の字を書きながら勘定したので正確ではないが、違っているとしてもそれほど大きく外れてはいないはずだ。刀剣類の中には神器や寺宝、寺社への寄進物も含まれている可能性もあるのだが、「刀剣」とするか「神器」とするか、あまりきちんと調べていない。誤差があるとすれば、このあたりの事情がある。
陶磁器は15件だ。うち、茶碗は8件、さらにこのうちの5件が天目茶碗。志野茶碗、楽焼茶碗、井戸茶碗が各1件。天目ばかり5件も国宝指定を受けているのは、簡単に言ってしまえば甲乙つけ難い所為だろう。天目茶碗の呼び名の由来は、中国浙江省にある天目山から伝来したことによる。どういうことかというと、天目山には仏教、道教、儒教の大規模な寺院が立地しており、そうした宗教の聖地とされている。日本から渡った修行僧もおり、そうした人々が日本に持ち帰ったものが今に至っている。これら5客の内訳は
曜変天目 3件
油滴天目 1件
玳玻天目 1件
で、いずれも中国南宋のものである。ところが、中国にはこれらの完品は存在しない。天目茶碗というのは、本来は煎茶を飲む器で、天目台という漆器などの専用台に据えて供される上等の茶碗だ。「曜変」あるいは「耀変」と表記されるが、所謂「窯変」のことで、釉薬が想定外の焼き上がりになった不良品なのである。だから、通常は廃棄される。修行僧のような粗末な形で暮らす人の間にはそういうものが日用品として行き渡ったのであろう。
もちろん、古いものでもあり、陶磁器というのは土も釉薬も不純物を含むものであり、また、焼成という物性の変化を伴う製造工程を経るものでもあるので、出来上がったものがどのような制作意図の下でどのように製造されたものなのかを正確に判定することは困難だ。前段で「不良品」と書いたが、そうではないとの見解も当然にある。私は研究者ではないので、そのあたりの判断ができる知見も能力もない。ただ、数多くの陶磁器を見た中で、中国の高貴な人々の用に向けて制作されたものの形の厳しさのようなものには、それ以外のものを圧倒するものを感じる。そういう個人的な「感じ」に基づく見解であることは強調しておくべきかもしれない。
また、これら8件のうち、制作者がはっきりしているのは楽焼茶碗(銘「不二山」)の本阿弥光悦だけである。世の中には「名人」とか、近年では人間国宝(重要無形文化財保持者)が制作したものも数多く存在するが、そうしたものが必ずしも国宝になるわけでもない。技法が精緻で所謂「超絶」なものもやはりたくさんあるが、これら15件の国宝陶磁器はいずれもそうした技法上の事情で国宝になったものでもない。つまり、制作の側の事情というより、使う側の履歴やそのものにまつわる物語が国宝の重要な要件であると言えそうだ。
わずかに8件の国宝茶碗だけを基に語ることは相当限定されたことになるはずだが、個人的な「感じ」ということで国宝という「評価」について無理矢理まとめると以下のようになるのではないかと思う。
評価とは
人が決める:時代や社会の影響
権威と合意(由来・来歴):所有履歴と最終所有者の歴史上の位置付
ということではないかと思うのである。もっと言うと、やっぱり、だからなんなんだ、と言うことだとも思う。つまり、世間の評価はそれとして尊重しつつも、自分がそれにどっぷりと付き合う義理はないということだ。『茶の本』に面白いことが書いてある。
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