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岡倉天心 大久保喬樹 訳 『新訳 茶の本』 角川ソフィア文庫

岩波文庫版を読んだことがあるのだが、遥か以前のことなので、殆ど記憶になかった。先日、青花の会の講演会で講師の土田さんが本書からの引用を挙げていたので、読み直そうと思い手に取った。昨年4月に内村鑑三の『代表的日本人』について書いたときに本書について触れた通り、日本語を母語とする人が英語で書いたものを別の人が翻訳している。岩波版は岡倉とほぼ同時代を生きた村岡博が訳している(1961年の改版時に村岡訳は子の博人によって改訂されている)。本書は岡倉の研究者で我々の方の同時代を生きた大久保喬樹が翻訳しており、訳語改定後の岩波版に比べても格段に読みやすい。

ボストン美術館で東洋部門の責任者を務めていた岡倉は、日本の茶道を欧米に紹介する目的で本書をニューヨークの出版社から1906年に刊行した。彼の地の人々に「茶」を、その背後にある日本や日本の文化を語ろうとした。1906年といえば日露戦争終結の翌年だ。日本は戦費を賄うため1904年から1907年にかけて合計6次の外債を起債し、約13億円相当の外貨を調達した。開戦直前の1903年の日本の一般会計歳入は約2.6億円であったことから、その起債規模が尋常ではなかったことは明らかだ。その海外からの資金調達には日本の対外宣伝が必要不可欠との時代の空気のようなものがあったことは間違いあるまい。つまり、海外で日本やその文化についての情報発信を行うことは、本来的に理想化された内容である必然があったということだ。しかも、対外宣伝というのは開国からわずか40年ほどしか経ていない日本にとっては全くの未知の事業であり、こうした事業の担い手として、いわゆる異才が求められたであろうことは想像に難くない。

岡倉は1862年に横浜の貿易商の家に生まれ、幼い頃から外国人や外国語に親しんでいた。また、東京大学の第1期生でもあり、卒業後は東京美術学校の創設をはじめ明治の新生日本の創建に深く関わった。しかし、そうした一見すると華やかな経歴は、当時の日本の社会ではおそらく孤独であったことを意味したのではないかと想像するのである。今から振り返ってみればこそ、当時の最先端の学識や教養に恵まれていたと見ることができるのであって、その時代の真っ只中にあっては変人奇人の扱いを受けていたとしても驚くには当たらない。世間というのはそういうものだと思う。

そう思って本書を読むと、やはりここに描かれている「日本」とか「日本の文化」というものは、現実の世情からは浮いたものだったのではないかと思わずにはいられない。東京大学での恩師のひとりであったアーネスト・フェノロサとの関係から米国に渡って本書のようなものを執筆したり、ボストン美術館の東洋美術部門の責任者として収蔵品の蒐集に尽力したり、あるいはインドのタゴールと交流を図ったり、というような活動に精力を傾けることができたのは、岡倉の異才の証明でもあるが、あるいは当時の日本に彼が活躍する適当な場が他に無かった所為という面もあったのではないか、とも思ってしまう。

50年ほどの岡倉の人生の中で、後半生は海外での活動に軸足を置きつつ、北茨城の五浦という辺鄙な土地で、釣りや読書をして仙人のように暮らしも楽しんだという。1913年に入ると健康状態が急激に悪化し、4月にボストンから帰国する。五浦で療養生活を始めるが、詩劇『白狐』の執筆に取り組むなど、最後まで仕事の絶えることはなかった。1913年8月5日に古社寺保存会に出席するため上京したが、7日に床につき、一旦は五浦に戻るが、16日に療養のため赤倉の山荘に移る。29日に重態に陥り9月2日に没した。山田風太郎の『人間臨終図巻』にはこうある。

危篤が迫っても、頭だけはたしかで、
「これが人間の最期かな」
とか、
「神様、あなたのなさることには感心できないことがある」
などとつぶやき、また辞世の歌をみなに聞かせた。
「我逝かば花な手向そ浜千鳥
 呼びかふ声を印にて
 落葉に深く埋めてよ
 十二万年明月の夜
 弔ひ来ん人を松の影」
天心節ともいうべき彼独特の歌である。

山田風太郎『人間臨終図巻2』徳間文庫 47頁

本書で岡倉が茶道について語ったことの肝は「日本人」云々というよりも、もっと広く人間全体についての在り方のように見える。

 茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である。そこから人は純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。茶道の本質は、不完全ということの崇拝 — 物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試みが茶道なのである。

16頁

茶道の理念はことごとく、暮らしの細々とした事柄のうちに偉大さを見出すというこの禅の考え方に由来する。道教によって美学的理念の基礎が築かれ、禅によってそれが具体化されたのである。

72頁

当時の茶道人口がどれほどであったのか知らないが、全国的に見れば少数派であったのではないか。抹茶は一般家計にとっては高価なものであったであろうし、今とは比べものにならないほど家事労働が重かった時代に茶に時間や心を割く余裕があったとは思えない。果たして、茶を語ることは「日本」や「日本人」を語ることになり得るのか。

岡倉は、茶あるいは茶道の背後にある「暮らしの細々とした事柄のうちにある偉大さを見出す」理念であるとか、「たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ」というものの方を語ろうとしている。

結局、「道」として語られることは、ありたい姿あるべき姿であって、今眼前にはないことなのだ。何のありたい姿かといえば、当然、人であり人道だ。華道も書道も各種武道も、具象としとしては様々でも、抽象としては概ね同じような精神の在り方を語っているのではないか。であるとすれば、「人」に東西南北の区別はなく、普遍的に「人」であり、岡倉は自分が考える日本の「茶」の道、「茶道」の思想を語れば、自ずと欧米の心ある人々の共感を得ることができると信じたのであろう。実際の本書への支持や共感のことは知らないが、日露戦争に際して、国家財政の5倍規模の資金を4年で調達できたのは事実であり、その順調な資金調達に岡倉らによる日本の宣伝が寄与したことは確かだと思う。

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