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内村鑑三 著 鈴木範久 訳 『代表的日本人』 岩波文庫

先日、小田原で初めて二宮尊徳のことを知り、その流れで本書を手にしたのだが、尊徳のことに関しては小田原で見聞した以上のことは書かれていなかった。それよりも、不思議な本だと思った。

小田原城趾にある報徳二宮神社境内の二宮尊徳像前の看板
後半に本書のことが触れられている

日本人が外国語で日本のことを書いたものとしては、本書の他に岡倉天心の『茶の本』と新渡戸稲造の『武士道』が代表的なものらしい。岡倉天心は美術史の研究者でボストン美術館の中国・日本美術部長を務めた人で、名前くらいは知っている。たまたまボストンに本社のある会社の東京事務所に勤務していたことがあり、その会社の方針で用があってもなくても半年に一度は本社に出張して自分の仕事と関係のある人々と直接顔を合わせることになっていた。その頃に『茶の本』を読んだ。結構その当時の当地の同僚の中にはこの本を読んでいて、それに関する話題を振られることもあった。当時はまだ茶道を習い始める前だったが、そういう事情もあって読んでおかないと、と思って読んだ気がする。

新渡戸は以前の五千円札の人だったので顔は知っている。しかし、たまに見かける程度で、それほど馴染むことなく樋口一葉に交代してしまったので、『武士道』はおろか何も著作を読んだことがない。ちなみに、樋口一葉の作品も読んだことがない。

で、内村鑑三って誰?と思うのである。キリスト教に関係のある人らしいというのはわかった。本書は外国の人たちに日本とか日本人というものを説明する意図の下に書いたらしいのだが、内村鑑三という人が外国の人にとって引っ掛かりがないと書いたものも読まれないだろう。ということは、内村は少なくとも当時の外国の人々には知られていた存在だったということになる。次に、なぜ本書に紹介されている5人が「代表的日本人」なのか、ということが問題だ。

二宮尊徳以外の4人は西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮上人で、なぜこの5人なのかという説明はない。薄い本なのでサラッと読み流してしまったが、人選その他にまつわるモヤモヤが残って読後感はよろしくない。

西郷隆盛については、そういう人がいたということだけなら誰でも知っているだろう。大河ドラマにもなったし、その元である伝記や物語は数多い。尤も、自分で読んだことがあるのは司馬遼太郎の作品(『翔ぶが如く』)だけだが。倒幕の立役者のひとりであった西郷にとっては、倒幕後に構想した新政府と実際の新政府とが似ても似つかぬものになったのは確かだろう。西郷が本当のところどのような政治体制を標榜していたのか知らないが、維新の結果は徳川時代の社会体制の看板を架け替えて居抜きで人が交代しただけのようなものに見えたのかもしれない。維新後も秩序の基礎になる身分制や社会階級に大した変化がなく、志が高かった者ほど幻滅あるいは絶望したであろうことは想像に難くない。西郷がああいう形で反乱軍の神輿に乗って歴史から消えたのは、維新後の日本というより人間そのものに幻滅を覚えたからではないかと思うのである。

西郷は書いたものをあまり残していないそうだが、本書にちょっとした詩と文章が紹介されている。

道は一つのみ「是か非か」
心は常に鋼鉄
貧困は偉人をつくり
功業は難中に生まれる
雪をへて梅は白く
霜をへて楓は紅い
もし天意を知るならば
だれが安逸を望もうか

46頁

『左伝』にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財も減る。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方しだいで、盛衰、貧富、興亡、生死がある。用心すべきではないか。

46-47頁

いつどのような状況で書いたものなのか知らないが、この気持ちのまま維新後の世の中を生きるのはさぞかし辛かっただろう。西郷は偉人というより、単にまともな人だったというだけなのかもしれない。だから、新政府の中には居た堪れなかったのだ。

上杉鷹山はひと頃ブームになった、と記憶している。なぜブームになったのか、は記憶にない。上杉鷹山は米沢藩主として実質的に破綻していた藩の政治経済を再建したのだそうだ。例によって、倹約と適材適所が鍵らしいのだが、本書の鷹山の章にはさらにその基本となる姿勢のようなことが書かれている。

 封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるにすぎません。もはや忠義はありません。憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決するために文書に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとはしません。献身とそれのもつ長所は、つかえるべきわが君主がいて、慈しむべきわが家臣があるところに生じるのです。封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格をおびている点にあります。その本質は、家族制度の国家への適用であります。

83頁

いわゆる封建制の時代に本当に人間関係が人格的な性格を帯びていたのかどうか知らないが、人間が五感を持つ生物であるということは、それらの感覚を使って環境を認識するようにできているということには違いないだろう。人間関係もその環境の内にある。近世に大衆文芸やそれに基づく演劇の類が人気を集めたとき、その人気の背景にあったのは義理と人情の世界だ。そういうものを望ましいと思うかどうかは別にして、自分の置かれた環境と関係を取り結ぼうというときに、個別要素をデータ化して損得だの合理性だので評価するよりも、生物としての感覚による総体の判断のほうが、その結果が良くても悪くても、心情としては受け容れ易い気がする。鷹山の章で内村はこうも書いている。

 東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない」。このような儒教の教えを、鷹山は、尊師細井から授かりました。
 鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれている点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたところです。快楽主義的な幸福観は、鷹山の考えに反していました。富をえるのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。「衣食足りて礼節を知る」といにしえの賢者も言っているからであります。当時の慣習には全然こだわらず、鷹山は自己に天から託された民を、大名も農夫も共にしたがわなければならない「人の道」に導こうと志しました。

67-68頁

歴史上、礼節を知った人々ばかりのユートピアのような土地や時代が存在したのかどうか知らないが、権力を握る側が目指すべきはそういうものであるほうが穏当である気がする。行動規範に目標数値を置いた組織が長期に亘って繁栄したという話は聞いたことがない。あまりに個別具体的なものを指向すると、背後にあるべき理念に対する意識が希薄になり、個別要件の方が自己目的化して本来目指すべきものを見失って迷走するものだ。かといって漠然とした理念のようなものは解釈が人によってまちまちなので、それだけでは行動規範にはなり得ない。身も蓋もない言い方だが、社会であるとか国家であるといった大人数の集合体を長期間に亘って統率することはそもそも無理なのである。礼節だの道徳だのといったものも幻想に過ぎない気がしないでもない。人間というものは自分で思うほど賢くもなれければ立派なものでもない、と思う。

二宮尊徳の章で書かれていることも上杉鷹山のところと同じようなことだ。小田原で知ったことだが、二宮尊徳の思想の鍵は「報徳」という概念だ。ここでの「報」は活用するという意味で、「徳」は能力という意味だ。つまり「報徳」とは「適材適所」「相対優位の活用」などという意味になる。本書には次のような記述がある。

尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。尊徳のところへ一人の男が推挙されてきました。ほかの人の三倍は仕事をする働き者であるうえ、好人物との触れ込みでした。このような賞め言葉に、わが農民指導者は、長い間、動かされたことはありませんでした。(略)わが指導者は、自分の経験上、一人前の仕事の限界を知っていたのです。だから、そんな報告にだまされることはありませんでした。その男は罰を受け、嘘いつわりを厳しく戒められて畑に送り返されました。
 労働者のなかに、年老いて一人前の仕事はほとんどできない別の男がいました。この男は、終始切り株を取り除く仕事をしていました。その作業は骨の折れる仕事であるうえ、見栄えもしませんでした。男はみずから選んだ役に甘んじて、他人の休んでいる間も働いていました。「根っこ掘り」といわれ、たいして注目もひきませんでした。ところが、わが指導者の目はその男のうえにとまっていました。ある賃金支払い日のこと、いつものように、労働者一人一人、その成績と働き分に応じて報酬が与えられました。そのなかで、もっとも高い栄誉と報酬をえる者として呼びあげられた人こそ、ほかでもなく、その「根っこ掘り」の男であったのです。

89-90頁

もともと農民であった尊徳であればこそ、現場の仕事で何が問題になるかよくわかっていたということだろうが、評価の公平性という点で別の見方もあったはずだ。現に誰もが素直に尊徳の指揮下におさまったわけではなかったらしい。しかし、それでも尊徳が手がけた村落の再生案件は600を超えるものだったとされている。時の小田原藩主が幕府の老中であったという事情もあるが、やはりその手腕は大したものであったのだろう。本書では次のような話も紹介している。

 村人の信頼をまったく失っていた名主が、尊徳の知恵を借りにきました。わが聖者の与えた答えは、意外なほど簡単でした。
「自分可愛さが強すぎるからである。利己心はけだもののものだ。利己的な人間はけだものの仲間である。村人に感化をおよぼそうとするなら、自分自身と自分のもの一切を村人に与えるしかない」
「それには、どうすればよろしいのでしょうか」
「持っている土地、家屋、衣類などの全財産を売り、手にした金はことごとく村の財産にし、自分のすべてを村人のために捧げるがよい」
(略)
教えどおりに実行しました。彼の影響力と声望は、ただちに回復しました。(略)まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、短期間のうちに名主は以前にもまして裕福な身になりました。

96-97頁

「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できるとは思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。策術は役に立たない」
「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地をも動かしうる」
「なすべきことは、結果を問わずなされなければならない」
 これらのことを述べたり、またこれに類する多くの教訓によって、尊徳は、自分のもとに指導と救済とを求めて訪れる多数の苦しむ人々を助けました。こうして尊徳は「自然」と人との間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。

100-101頁

 「自然」と歩みを共にする人は急ぎません。一時しのぎのために、計画をたて仕事をするようなこともありません。いわば「自然」の流れのなかに自分を置き、その流れを助けたり強めたりするのです。

105頁

よく、大局を見よ、などと言われるのだが、自分の手足を動かす現場を知らない者には大局はわかるまい。尊徳が語るように「誠実」であることは尊ばれるべきことではあるが、それが尊ばれるということは世の中が誠実ではないからに他ならない。昨今の感染症騒動での先を争うかのような人の行動を目の当たりにするまでもなく、誰しも世間の狡猾とか身勝手を嫌というほど見聞きし、また、体験もしているだろう。

中江藤樹は江戸初期の陽明学者だ。やはり農民の家に生まれ、武家に養子に出されたが、士官先の国替えで米子から伊予大洲へ移住する。近江の生家の母への孝行と自らの健康上の理由から辞職を願い出るが容れられず脱藩。京都に潜伏した後、生家のある近江高島へ戻り、私塾を開く。学者として生きた人なので、本書での記述も学者としてのあり方に関することが多い。

「学者」とは、徳によって与えられる名であって、学識によるものではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。

123頁

学者は、まず、慢心を捨て、謙徳を求めないならば、どんなに学問才能があろうとも、いまだに俗衆の腐肉を脱した地位にあるとはいえない。慢心は損を招き、謙譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるなら、善悪の判断は自然に生じる。

135頁

世の中の桜をたえておもはねば
春の心は長閑なりけり

137頁

谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない。

139-140頁

いわゆる「立身出世」は近代以降の考えだ。身分制が敷かれていた時代には、おそらく今とは身の丈の感覚が違っていた。また、情報伝達や交通の違いから明らかなように、人の世界観は今とは比べものにならないくらい違ったものであったはずだ。そうした中での承認欲求と現代のそれとは自ずと違う。村落の中で互いに見知った関係性の中で暮らすのと、隣に誰が住んでいるのか知らない社会で暮らすのとは、人の自己認識も当然違う。違う、のである。違いすぎるくらい、違うのである。

今は主に感染症の影響で移動が思うようにはできないが、そういう特殊事情を除いてみれば、我々はいつでもどこでも誰とでも交渉ができる。しかし、それはその交渉相手を知っているということと同じではない。生活に必要なあれこれを見ず知らずの相手から瞬時に受け取って暮らすことができるが、今とは比べものにならないくらい認識できる世界が狭かった時代に比べて友人知人が増えた、かどうかはわからない。むしろ、見ず知らずの相手と交渉できるようになったおかげで、生身の人と知り合いになる機会は激減したかもしれない。

いわゆる「心の病」が増えているらしい。生活の道具類が発達して見ず知らずの相手との交渉だけで生きていける時代になった。その結果、人は生物として持っている感覚と生活に使うそれとが適合しなくなった、のかもしれない。それで感覚の方が麻痺して悲鳴をあげる、つまり、病に陥るのかもしれない。もちろん、医学が発達して、それまで病気として認識されていなかったような状態が「病気」として認定されたということもあるだろう。しかし、我々の生活が我々の適応能力を凌駕するほどに変化を続けているのは確かである、気がする。

結局、自分の身の丈という尺度を持たないことには、いつまで経っても流動し続ける世間を追い求めて心身の消耗の無限地獄から抜け出すことができないのだろう。身の丈を知るには自らの手足を動かして生活をするしかない。と言っても、今更できることは限られているのだが、飯をつくるとか、洗濯や掃除をするとか、歩いていくことができる先には歩いていくとか、些細なことでも自分の身の丈のわかる経験をコツコツ積み上げていくことが何よりも大事であるように思われるのである。

本書5人目の「代表」は日蓮だ。キリスト教徒の内村が日蓮を挙げるのは妙な気もするが、内村が日本人であるのだからそこに神仏に関係する人が取り上げられることに違和感はないという人もいるだろう。いずれにしても、いわゆる「宗教」となると、その類の言説には素直に感心するようなところが少なく、本書でも日蓮の章には付箋を貼ったところがなかった。

本書の原書は日清戦争の最中に書かれ、同戦争が日本にとっての「義戦」であることを諸外国に訴える宣伝図書として発行されたものだそうだ。日清戦争当時は内村も義戦であると信じていたようなのだが、その後、それが義戦ではなかったとの認識に変わり、宣伝的な箇所を削除して、人物描写にも修正を加えて本書の姿になったとのことだ。宣伝図書とみれば、それに合わせて「代表的」人物を挙げ、宣伝したいことを連ねたものであるわけで、不思議な本でもなんでもなかったのである。日露戦争の前には、内村は既に戦争と名のつくものに「義戦」というものはあり得ないとの非戦論者になっていた。それでも本書を取り下げなかったところに、内村の考える理想の人間像があったということだろう。

人間という生物が何者であるのか、本当のところはわからないのだが、とりあえず直立二足歩行をするというだけなのではないか、と私は思っている。生物「進化」の頂点に当然のように己を置いて他の生物を睥睨している感があるが、自分が優位になるような尺度を選んで自分を物事の中心に据えること自体が馬鹿馬鹿しいことのように思われるのである。

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