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網野善彦 『中世荘園の様相』 岩波文庫

先週木曜日に職場の昼休み勉強会の講師番が回ってきた。「150人考」と題して、ダンバー数の話をした。脳の容量はホモ・サピエンス誕生以来概ね変化はなく、文化やテクノロジーといったソフトウエアを更新することで大小様々の組織を拵えているが、人が生理的に対人関係を取り結ぶことのできる相手の数は大体150人が限度であるという。このことは以前に何度かnoteに書いたので、それをもとにまとめた。一応、ダンバー数に関連して三つばかり言いたいことを用意したのだが、15分という制限時間の中ではそのうちの一つのことしか言えなかった。話に使うスライドも5枚が上限という決めがあるのだが、主に使ったのは世界人口のグラフだった。

出所:国連人口基金駐日事務所ホームページ

人口の推計というのは容易なことではないのだが、産業革命以降に爆発的に人口が増えているのは事実だろう。人類が新たな動力や燃料を手にしたことで経済活動の生産性が大きく上昇した。同時に人の暮らしは狩猟採集や耕作から解放されて、賃労働者として生きることにより特定の生業に依存しないという選択肢を手にした。その自由な労働形態をその時々の必要に応じて組織化したり再編したりすることで我々は産業革命以前には想像もできなかったような大量の生産物を手にした。巷では貧困だの飢餓だのとの騒ぎもあるようだが、世界全体としては人口が急増中であるのは事実だ。つまり、それだけの人口を養うに足る生産物が地球上に充満しているということだ。世界規模の戦争を何度も経験し、最近は世界規模の感染症の流行もあったというのに。

歴史を語るとなると、史料に基づかざるを得ないので、どうしても所謂「偉人」や「歴史に名を残した」人物や組織を軸に発想しがちになる。確かにそういう人々の業績は無視できないには違いないのだが、その時々の「人口」を構成している名もなき圧倒的多数の大衆は何を思い何をしていたのか。偉人とか賢人というような自分とは無縁の人たちよりも、自分の同輩である有象無象の動向の方が個人的には気になってしまうのである。

本書は若狭国太良荘(現、福井県小浜市太良庄)という荘園を取り上げ、そこでの荘園の成立から太閤検地で近世農村に組み込まれるまでの支配被支配関係の変遷を追跡したものである。当然、関係する古文書や先行研究が記述の下地にあるのだろうが、網野の書き振りは自身がフィールドワークをしたかの如く熱量の高いものだ。その熱に押されて、そこで暮らしていたであろう人々のそれぞれの利害に応じたやりとりや企てが恰も眼前で展開しているかのように感じられる。しかし、ここに記述されているのは網野の推測でしかない。それがいいとか悪いとか言うのではなく、そんな活き活きとした言葉を発することができる人間でありたいと憧憬するのである。また、そんなふうに語られるに足る人々の暮らしが実在したことを願うのである。

本書によれば太良荘は東寺の荘園だが、実質的にはその時々の守護やその地頭に支配され、最終的には太閤検地で荘園としては終焉を迎える。荘園とは権力者の私有地であり、そこで暮らす農民はその権力者に対して年貢を納める。その農民の暮らしは、その土地を実質的に統治する権力によって大きく左右されることになる。守護という国家権力の出張機関が国衙としてではなく、国家権力を背景に己の私物として赴任先の農民の生産物を収奪できるかどうかは、本人の才覚もさることながら、結局は背負った権力の強さに拠るのだろう。

国家が実体あるものとして機能しているなら、守護はあくまで国家の一機関であり、個人として収奪できる余地は限られたものになるはずだ。国家権力が形骸化していれば守護個人の裁量の余地は大きくなるだろうが、守護が拠って立つ権威も頼りないので、やはり容易に権力を行使するわけにはいかない。太良荘の状況がどの程度他の土地に敷衍できるものなのかは知らないが、仮にこれが荘園というものの在り方の典型であるとすれば、その荘園を含む一地域の生産管理と資本蓄積はその時々に状況に応じて大きく揺らぐことになる。

当然、現地を直接管理する立場の者の才覚やその地域を巡る諸事情により、守護が勢力を拡大する場合もあるだろうし、荘園の本来の所有者が相応の収益を享受する場合もあるだろうし、生産活動に従事する農民が実質的に自治権を得て独自の世界を形成することもあるだろう。日本の中世が群雄割拠の戦国時代となったのは、奈良時代に始まる律令制という国家統治の枠組みが一応の機能を維持しながら、肝心の中央権力が脆弱で、実体が乏しかった所為なのだろう。

権力の実体とは何であろうか。社会の秩序や倫理が何によって守られているのか。荘園という限られた地理的空間においては同じ荘園内の他の者の眼というものを意識しないわけにはいかないだろうが、そうした同調圧力だけで秩序が保たれるわけではあるまい。本書を読む限り、荘園の所有者である東寺の統治は機能していないように見えるが、帳面上で所有権を明記し、人を派遣して管理をしているつもりになったとしても、その土地での生活の実態というものの中でその権利が実感として承認されていなければ、帳面上の所有権は実効力を持たないだろう。ましてや、その帳面の効力を裏付ける権威が脆弱なら尚更のことだ。詰まるところ、権力の実体を形成するのは、生活の場での実感とか雰囲気のようなものでしかない気がする。

たぶん、現在進行中の生活において人々は自分の眼前の課題解決に精一杯で、お題目としては綺麗事を並べることができても、実態としては課題の森の中で森という全体像はおろか、眼前の一本の木すらも認識する余裕はなく、木の肌を伝う雫くらいしか目に入らないのではないか。しかし、その雫を己のものとすることこそ、今この瞬間の渇きを癒すためには必要なことであって、森全体の生態系をどうこうするなどに拘っていたら生きてなどいられないだろう。

結局、今、自分は生きているという現実がある。当たり前のように食事をして、風呂に入って、こうして駄文を綴っている。その日常を継続する際に個別具体的な障害に直面したとき、具体的に解決することのできるものこそが権力であり権威たりうるということなのだろう。世界人口は爆増していても少子高齢化で人口が減少している共同体もある。人口が減少を続けているから、人口増加を当然としていた時代の仕組みが破綻している。大地震があってもなくても公共インフラが崩壊している地域は今時珍しくない。現象の表層だけを眺めて、ナントカカードやカントカアプリで人手不足を解決できると安直に思い込めるような人が政治や組織の要所に陣取って、人々の生活の現実に新たな障害を生み出していく社会の権威や権力とは何なのか。

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