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季刊 民族学 174 2020年10月 特集: キリスト教受容のかたち 世界史のなかのかくれキリシタン

以前、巣鴨の地蔵通りに面したところで一人暮らしをしていた。夜のシフトで働き、生協の宅配で定期的に届く食材で自炊をしていた。週末の夜は近所の飲食店に出かけていて、その中に「ここ長崎」という長崎県五島市のアンテナショップのような店があった。地元から出張ってきた主人が一人で、うどんや定食を作ったり、「カンコロリン」という五島産の甘薯を原料に使った甘酒を売るなど切り盛りしていて、「任期がとっくに過ぎているのに上からうんともすんとも言ってこない」とぼやいていた。その店で五島列島の福江島に宿を予約して出かけてきたことがある。廃校になった小学校を宿とカフェに改装したところに何泊かした。頼まれるままに近所の教会の修理を手伝ったりして、長崎に寄って観光し、出掛ける前に電話で注文をしておいたカステラを岩永梅寿軒で買って帰ってきた。

その福江島の教会は、一見したところ普通の民家のようだったが、よく見ると屋根に鉄の丸棒で作った十字架のようなものがあった。中は簡素で、カトリックの教会など見られるような装飾は一切なかったが、工事中で埃っぽいながらも清潔な感じがした。それがどのような教会なのか尋ねもしなかったのだが、五島列島は隠れキリシタンの島と言っても良いような島々だ。しかし、島の中でも宗派は分かれていて、私の泊まったエリアと島内の別のエリアとは昭和の中頃まではあまり往来がなかったらしい。「往来がない」というより、相互に接触を忌避していたようだ。通りすがりの旅行者に深い事情などわかるはずもないのだが、隠れキリシタンとキリシタンは別物であるということは自分の関心の外にあって、本書を読んで初めて「そういえば、あの時…」と思うところがあった。

本書で感心したのは、特集の隠れキリシタンのことではない。本書の後半のそのまた後半にある「ヒトってなんだ??」というイベントの誌上再録だ。これは国立科学博物館の副館長で同館人類研究部の篠田謙一先生と国立民族学博物館人類文明誌研究部の池谷和信教授の講演・対談をまとめたものである。特に篠田先生の話は興味深い。

まず、「進化」というものが自己中心的だというのである。

わたしたちに向かって進化するんだと。これをみて不思議に思わないというのは、本当はおかしいんじゃないかと思います。(本誌90頁)

よくこういう図を見かけるが、なんとなく今いる猿や猩猩が「進化」した姿が人間であるかのような印象を受けるのは私だけではないと思う。

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出所:「脳の進化の5億年~誕生からヒトまでの軌跡~(2016)」脳科学メディア

もちろん、この図はそんなことは示していない。猿や猩猩は人間とは別の進化系で、進化の段階としては猿も猩猩も人間も同列だ。ただ、人類の進化を考える上で、脳容積の拡大は避けて通れないものであり、化石などから推測されるある進化段階の脳容積が今いる猿や猩猩と同じなので参照する対象として猿や猩猩が引き合いに出されるということなのである。当然と言えば当然なのだが、私は「あっ」と思った。

人の心の複雑さ、社会の規模というのも、脳の大きさ、正確には大脳新皮質の発達とも密接な関係があるのではないかという考えが生まれます。
 この考えに立ったのがオックスフォード大学のロビン・ダンパーです。彼によれば、猿人と同等の脳容積をもつチンパンジーは、だいたい50個体くらいでひとつの社会をつくっています。原人になると常に100人くらいの集団をつくっていました。わたしたちはすごく大きな脳をもつのですが、狩猟採集民であろうと、牧畜民であろうと、わたしたちの社会であろうと、顔と名前が一致して、相手が何を考えているのかわかる、というレベルの人間は150人くらいだといわれています。つまり、150人くらいの人間とのリレーションができるというのが、われわれのもっているハードウェアの限界ということになります。
 じつはわたしたちの脳は20万年前にこの大きさになって、それ以降大きくなっていないのです。でもわたしたちは、世界中の人と意見を交換できるような、とても複雑な社会に生きているわけです。それを維持するためには、宗教や芸術、法律、文字、あるいはSNSといったさまざまな仕掛けが必要になります。いわば文化というのは、われわれが20万年前につくってしまったハードウェアを使いながら、いまの社会を維持していくときに必要なソフトウェアであり、わたしたちは20万年前につくられたハードウェアはそのままで、ソフトウェアをアップグレードしながら社会を維持している、と考えられます。(91頁)

「身の丈」という言葉があるが、大勢の人たちと人間関係を維持するのは容易ではないとの自分の実感が裏付けられたような気分になった。

次に注目すべきは、人間の地理上の急激な拡散である。よく「グレートジャーニー」と呼ばれるが、ホモ・サピエンスはアフリカ大陸に生を受け、6万年前に本格的にアフリカから他の場所へ移動を開始する。下は原人以降の人類進化の概念図だが、sapiensが他の系統を包含しながアフリカからユーラシアへ急拡大している。これは端的には生殖能力の高さによるのだそうだ。確かに、人間には他の動物と違って発情期がない。発情する「特定」の時間がないのであって、常時発情しているのである。通常一回の分娩で一人を産むが、世界全体である瞬間を取り上げた時の分娩数はおそらく一年中変わらない。だから、ある時期に天変地異や戦争などで特定地域で人口が減少しても人間全体ではほぼ影響を受けない。ただ、昨年来の世界的な感染症の流行のような事態はこれまでに例がないのではなかろうか。人口も地理上の分布も急激に拡大したことが地球の自然の摂理に反したため自然の自己規制が働き始めた、かどうかは知らないが、個人的な印象としてそんなふうに見えなくもない。

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出所:Wikimedia Commons, phylogeny of the Homo genus, based on Stringer, C. (2012). "What makes a modern human". Nature 485 (7396): 33–35. doi:10.1038/485033a, with modifications.縦軸は年代を表し、単位は百万年。本誌に引用されている図とは別だが同内容。

最近のDNAの解析によると、人間の世界拡散が始まって以来、同じ地域に同じ集団がずっと住んでいたことはないということが明らかになったという。日本に日本人として生まれて暮らしていると、個人の実感としては先祖代々この国で暮らしてきたと思いがちだが、地球を見回せば、国境は常に変化をしているし、アメリカ大陸などは世界拡散が現在進行形であることの証左のような存在だ。「故郷」というのは幻想かもしれない。常に変化を続けることこそが、人間の定常の姿であり、立ち止まったところが終わりなのかもしれない。大禍なく一生を全うすることができたとすれば、それは僥倖の中の僥倖と言えるのではないか。何かしらあるのが当たり前、それこそが人間というものなのだろう。

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