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翠とオーバーヒート

 何を書けばいいのだろうか。いつも思う。noteを書くことを決めて、noteを開く。他人の文章を読みながらネタを探す。正確には違う。
 書きたいことは決まっている。自分が書くことがこれでいいのだと思い切るまでに時間が掛かる。ただそれだけなのだろう。フォローしている人のnoteが更新されていた。名古屋に行ったらしい。それも予定も組まずに。計画的無計画らしい。おそらく今自分がやっていることは、彼(彼女)が言う「計画的無計画」なのだろう。

 似たような言葉で、友人から「行き当たりバッチリ!」と聞いた。今自分の行為はあてもなく書き続ける行為。ならば、行きつく先はばっちりだろう。その精神でとりあえず書くことにする。

 オーバーヒートを読んだ。デッドラインも読んだ。千葉雅也さんの小説を読むと煙草を吸いたくなる。お酒を飲みたくなる、なぜか。煙草を吸ったことはない。お酒もこの6か月飲んでいない。お酒を飲む行為に価値を感じていないのだろう。できるだけ現実に接していたい。お酒を飲んで、周囲と一緒に気持ち良くなることが苦手なのかもしれない。
 お酒はできれば一人で飲んでいたい。誰にも邪魔されない領域で、ゆっくり好きな音楽と一緒に。もしくは今みたいに物書きをしながら。
 オーバーヒートを読み進める。

 僕はいつか東京に行くことになるのは当然だと子どものころから思っていた。閉塞した栃木から十八歳の時に解き放たれて、確かに自由になるにはなった。ずっと東京で生きて似ぬことになるのかは未定だった。僕は今大阪にいる。どういうわけか大阪にいて、どこで死ぬことになるかまだ分からない。一人で死ぬのか、誰かがそのときそばにいるのかもわからない。

(オーバーヒート, 千葉雅也, p.142)

 読んでから気が付く。自分も子どもころから東京に行きたかった。東京に行くことが家を出る理由になると思っていた。10歳のころ、家を出たいと思った。自分の親と一緒にいることがつらくなったのだ。家庭環境が悪かったわけではない。けれど考え方が合わないことを悟った。ませた子どもだった。けれども現実は東京ではない場所に来てしまった。東京に行けなかった自分がいる。
 18歳になったら自由になりたかった。解き放たれたかった。それが最短で、誰もがなっとくできるものだったから。でもそうはならなかった。得たかったものを得られなかった1年間の記憶はほとんどない。最近、過去の話になり言われて思い出した程度だった。あの1年間は何だったのだろうか。


 よく人は自分の与えられて環境で頑張るように言う。確かに、自分の与えられた環境でやるしかない。これはある種の諦めの結果だろう。しかし、自分の環境に文句ことはなぜ否定されなくてはいけないのだろうか。自分の環境は多くの場合、外因だろう。自分が選んだことはほとんどないかもしれない。借りている家だって、家の経済状況も考慮している。自分の生活水準だって、自分の収入に依存している。自由になれなかったのも、自分のせいではない。内因ではない事実に対して、否定的な言動をしてもいいのではないか。それとも自分がいけなかったのか。


 今日はお酒を買った。買うしかなかった。翠ジンソーダを飲んだ。あまり好きではない。甘くないお酒は苦手だ。けど、自分みたいな味がする。

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