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宴の後のさくらと雨

「あー、歯が生えてきてるんですよ。」


今日は、息子と歯医者さんに出かけた。息子が何日か前から「歯が痛い....痛いっていうかなんか気になる!」と言っていたので「歯が生えてきてるのかな....うずいているのかな....全く犬じゃあるまいし」と思っていたら、案の定そうだった。ますます犬みたいな子である。

「じゃあ、大丈夫だと思うんで。今日はこれで。」と言われてあっけなく歯医者をあとにして、私はそこから買い物をして息子は本屋さんで待機して、合流して帰路に着く。


そのあと、家に着いたら夫と目があった。

「散歩行く?」

と聞いたら

「いいよ」

「でも雨が降りそうだけども」

と言いながらなんやかんやで外に出る。


確かに小雨が降りはじめていた。


(まあいいか)

で、お互い、海に向かってずんずんと歩く。


自分に問いを立てること、考えることは、自分を大切にすることでもある。

私の好きな哲学者さん(永井玲衣さん)は言っている。

私はしばらくnoteのコメント欄を閉じていた。
こんなことは初めてだ。
最初に断っておきたいが、私はコメントを書かないという選択肢も尊重したい。沈黙が力になることも大いにあるからだ。それはスキを押さない選択肢も言わずもがなである。
私にとってのコメント欄というのは....私が書いたものを、さらに広げてくれたり、深めてくれたり、とても貴重な場だと思っている。いつもコメントを頂くと皆さんのアイコンが見えるのも嬉しいし、学びになるし、驚いたり、一緒に悲しんだり、思わず笑ってしまったりする。


「対話の場」


対話というのは、私とあなたの境界線が曖昧になって、やわやわになって、混ざる。

そして、私は前の私と少しずつ変わっていく。

自分が弱くなる。

その弱さから、またひとまず今の自分を作り上げていく過程を経るのだが、今回の3作はそれができないと思った。

1人で自分に問う。

私は孤独を選んだ。

孤独と孤立は違う。

孤独は自分の中の安全地帯....安全性が保たれていると自ら取ることができるイメージである。

だからこそ、信頼できる人に囲まれているからこそのアクションであると私は勝手に思っていた。

「くまさんがそういうならいいんじゃない」と言ってくれそうな何人かの顔が浮かんで、私はここに問いを立たせてもらった。

保健室の記事におすすめをしてくださった3人のメッセージを読んで、それは許されたものであることを感じて、ほっとひと安心している。

自分を大切にしたい、そんな方法をおそるおそる、いろいろ試してみるのだ。


そして、またコメント欄は開けよう。


そんなことを考えていると、夫から不意に話しかけられる。


「下北沢は行ったことがないんじゃない?」


夫は私が来週、都会に行くことを心配しているのだ。いつもお父さんスタイル。10歳も違うと仕方ないのかな。

「昔、本多劇場というのに行ってね、17歳の頃。」

「三宅裕司のスーパーエキセントリックシアターを見に行ったんだ。」


へえええ

と思った。


20年一緒にいる。

まだまだ知らないことがたくさんあるようだ。私は面白がっていろいろ聞く。



海が見える。


かすかな潮の匂い。



記事に書いたのと変わらない、私の好きな街の匂い。


同じ街にずっと住んでいる。


また頭が考え始める。


昔から自己責任論が嫌いだった。


なんでつらさや弱さを話さないのかと私は思って言ってみる。話してくれたらそれはそれで、今度はレジリエンスだ、困難には自分で打ち勝ちなさい、感情をセルフコントロールしなさい、スキルや能力を身につけなさいとつい思ってしまう自分がいる。
結局自分の中では、その人の自己責任にたどり着くような気がする。

あー自己責任。

ここに書いてある数々の方法はどれも私がいいと思って実践しているものだ。

しかし、怖いのは私自身がこれをできない人に対して、相手に自己責任を強要しているかもしれないこと。

それができない人たちはいる。

両方とも大変な人たちもたくさんいる。

それを忘れてはならないし

できないのであれば

意識して分散させられないかなと思う。

自分を責めてしまう人に。

生きづらさを感じているかもしれない人に。

そのままでいいよ。


みんなで考えようよとも私は考える。

何より私だって、いつでもできてるわけではないのだ。

自分にも言いたい。

でもなかなか難しい.....


また頭が脱線してると、雨足が強くなってきた。

「ここで帰ろうか、キミが風邪ひいちゃうといけないから。」

ひねくれものなんで、素直に受け取れない。

「私のせいかい。」とかわいくないことを考える(口にはしない)


昨日は宴だった。眼鏡のオジサンの。

無駄なことや

余計なことを

もっともっと私たちはした方がいいと思う。

くだらないことの中に

たぶん大事なことが潜んでいる。

続けてみると何かあるかもしれないし

何もないかもしれない。

でも、思い出すのは

きっとそういう取るに足らないことだろう。


そんな気がする。


雨が冗談じゃなく本降りになって


2人で笑う。

私の緑のシャツはどんどん雨でぬれていく。

「もうあそこの新しくできたコンビニで傘を買おう!」


見かねた夫は小走りになる。

なんとも滑稽である。

眼鏡のオジサンはわたわたと走っていく。


走る眼鏡オジサン。

走れ正直者(西城秀樹)

リンリンランランソーセージ(頭が脱線中)


コンビニで傘を買い、外に出ると


雨は止んでいた。


また私たちは笑う。


「こんなことなら買わなきゃよかった。」


夫の声を半分無視しながら、私は目の前の公園に向かう。


桜の写真を撮る。

夫は待っている。

待っている顔から察するとたぶん何にも考えていない。

ぼーっとしている夫を気にせずに

公園の写真も撮る。

ここの公園は引っ越す前に住んでいたところから近いので、我が子とのたくさん思い出がある。それこそ、私が小さい頃から遊んでいた場所でもある。おばあちゃんを不意に思い浮かべる。


雨はすっかり上がり

少し日がさしてきた。


さあ、うちへ帰ろう。


おなかがすいたから、昼ごはんにしよう。


「キミと散歩できて僕はうれしいよ」

と言われたので


「ずいぶん演技がかったような感じでいいますね」

と、相変わらずかわいさマイナス100%で
返事を返しながら

私は夫と心地よい春の道を歩いた。



※ある友人の方からコメントを頂きまして、私のこの記事の中で、レジリエンスということばに対して乱暴な扱いをしていると私自身が感じましたので、ここでお詫びさせてください。

以前レジリエンスについて書いた記事もあります。
よろしかったらご覧になってください。

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