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流転のぼくらは

「ヒロシ君は、私を定点観測していてよ」

真洋(まひろ)さんはそう言った。

髪が風に吹かれてなびく。白いつばの帽子が海に飛ばされないように、帽子と同じくらい白い手は頭にのびる。

僕はその光景を繰り返し思い出す。


***


風鈴が鳴る。

お盆前になると兄夫婦がくる。
僕の家は祖父母の代で建てられた古い日本家屋で、今どき珍しく畳や縁側がある。僕は縁側でネコときままにのびているのが好きだった。

夏休みだ。

しかし、こう暑くては何事もやる気は起きない。


「久しぶり。あれ、バイトは?」

兄さんは焼けた顔で僕を覗き込んだ。彼は地元では名の知れた企業に勤めている。この前とまた違う時計をしていた。僕は兄さんの顔を見て相変わらずだなと思った。ネコも僕の気持ちを察したのかそそくさと離れていった。

「今日は休み。しばらくは行かない。」

後ろで僕の母と兄の嫁の真洋さんが会話をしている。

真洋さんの声が僕の鼓膜を通って振動する。あの日から僕は随分と離れていた。

離れた月日はぼんやりとした何かをくっきりと鮮明にした。

離れているからカタチがわかった。

僕は、やはり彼女の事がまだ好きらしい。


***


大学2年の僕が今から遡る事、2年前。

僕が高校の頃、兄さんは大学生だった。

真洋さんは兄さんの一つ下で近所の幼なじみだった。兄さんと真洋さんの関係性が深まったのは2人が高校に入ってから。気づくのは容易い事であった。なぜなら僕は真洋さんをよく眺めていたから。

真洋さんはふんわりとした人で、例えるなら海月のようだった。肌が白くて、少し下がった目尻の瞳を見つめると、吸いこまれそうな雰囲気を携えている。華やかではないが、控えめな美しさに惹かれる人も多かった。海月のようにふわりと音もなく訪れては、落ち込んだ人たちを癒す力を持っていた。

僕たちは昔から3人でよく遊んでいた。特に夏休みは、祭りや海遊び、花火などたくさんの思い出がある。

気づいたら真洋さんを目で追うようになった。

そして、兄さんも同じような眼差しを投げかけている事に気づいた。

僕がそんな自分や兄さんの気持ちに気づかない振りをしている間に、2人が恋仲になっている噂を人づてに聞き、その後兄さんからも報告をうけた。


それから僕は真洋さんとはあまり会わなくなった。
もちろん意図的に避けていたのだが、あの夏の日彼女はいつものように1人でふらりと訪れた。

「ねえ、また私の絵を描いてほしいの」

僕は絵を描くことが好きだった。兄さんと違って真洋さんは僕の絵の事を昔から褒めて励ましてくれた。

僕は普段は風景画しか描かない。けれどもどんなきっかけかは忘れたが、度々彼女をモデルにして僕は絵を描く事があった。

いつものようにだが。

もう、いつもじゃないんだよ、真洋さん。

しかし、真洋さんの眼差しを見て、僕は彼女の申し出を断ることができなかった。この日の彼女からは、ふとこの世から消えてしまいそうな、あやうげなものを感じた。何か抱えているものがあるのだと感じ、僕はその願いを受け入れた。


いつもの海へ行きキャンバスを広げる。

「ヒロシ君は美大へ行くの?」

真洋さんは海を見つめながら横顔で僕に話しかける。2人で他愛もない話を久しぶりにした。話の途中に不意に彼女は沈黙した。次のことばを待ちながら僕は筆を走らせる。


彼女は沈黙を破る。

「ヒロシ君はずるいんだよなぁ。昔から空気を読みすぎるんだよ。
ねぇ、私、疲れちゃったんだ。
自分がなくて、人の顔色を見てばかり。ふらふらして、流れるまま。海の中を漂いすぎて自分がわからなくなっちゃった。
ヒロシ君に絵を描いてもらえると、本当の私が戻ってくる気がするの。
私はヒロシ君に随分と依存してたんだね。」

彼女は横顔のまま、涙を流していた。


「ヒロシ君は、私を定点観測していてよ」

「宙(ヒロシ)という名前があなたをあらわしている。いつだって、そらから私を捉えて形にしてくれていた。」


「私が流されないように。もし、流されたとしても私を見つけてほしい。」

僕は気づいたら筆を投げ捨て、彼女を抱きしめていた。


僕ではだめですか

「・・だめなのよ」
真洋さんの華奢な指は言葉とは裏腹に強く力を入れた。
僕は彼女を掻き抱いた。


血が燃えた。




しばらくして、絵の続きは描かずに帰った。ふれるかふれないかの手の距離がもどかしく、僕の体温は涼しくなった夕刻でも冷めないままだった。


***



その後、2人は結婚したが式はあげなかった。僕は呼ばれずに済んだ事に内心ほっとしていた。


夜になり、兄の思いつきで3人で花火をすることにした。

「ちょっとビール買ってくるの忘れてたから、お前ら先にやっててよ。」

兄はそう言いながら、近所のコンビニへ向かっていった。

真洋さんは、僕に話しかけた。

「久しぶり。元気でやってる?」

「元気ですよ。手に余るくらい。余った元気はバイトにつぎこんでる。一人暮らししたいから。」

「あの時以来だね。」

僕ははねる心臓をなだめながら、一つ提案をした。

「今日は兄さんと2人の絵を描かせてよ。」

「あの時、絵、描けなかったでしょ。」

「僕もそらも星も流れるままで、いつも同じじゃないんです。定点にいると思ったら大間違いですよ。」

「流れる僕たちの瞬間を捉えておきたいと思って。これは僕から2人への餞別。」

真洋さんは黙って聞いていたが、しばらくしてうなづいてくれた。

兄さんが帰ってきて、僕らは花火をした。

それはまるで小さい頃のように楽しい雰囲気だった。
僕はその消えていく火花を見つめながら夏の終わりが近づいている気配をひしひしと感じていた。




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