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その気持ちは2年越しだった

娘と先日雑談をしていた。

2人ともお気に入りの無印良品のソファに座って、だらっとしていたのだ。

娘はたまに話をしたいモードがあって、そういう時はなるべく付き合うようにしたいと思っている。おそらくその日もそんな雰囲気だった。

他愛もない話だ。

何がおいしかっただの。

スプラトゥーンでこんなだっただの。

弟がこんなこと言ってただの。

そんな調子だと思って、私は気が抜けていたが、実際はおだやかなせせらぎのような水は、気づいたら速度をはやめていた。それは傾斜がついて水かさが増し、川のようになった。そして、荒れた天候のあとのあの力強い川の勢いのように、娘の話は、ただそこにつよく流れ始めていた。
私は水の中で静かに身をまかせていた。

それはおそらく小学校高学年から中学1年までの話をしていたのだと思う。

彼女は中学1年生の途中から学校に行かなくなった。

行けなくなった、という方が表現としてはただしいのかもしれない。

行きたいけど行けない。

そして今は3年生だ。


当時、彼女は「なぜ学校に行けないのか」ということを、私たちにはっきりと言うことがなかった。
遠回しに聞いたりしても、最後まで「これが原因」という明確な答えは彼女から得られなかった。

私たちは困惑し、彼女も混乱し、まわりはもっと戸惑いが広がっていた。

私は学校に行かないことなど、全く気にならないかと言えば嘘になるが、それよりも彼女を苦しめているものの正体をただ知りたかったのだ。そして、なるべく力になりたかった。


しかし、答えはわからなかった。

私はそれをただ待つことにした。
そして、彼女にも問うことをやめた。


息子が学校で得た体験の記事を昔書いた。(この記事はいまだに新しい方が読んでくださることがある。以前も書いたが、関心を持つ方が多いことは複雑な気持ちにもなる)

その時、私は「今ここでできることをしなければ」と思ったし、「これを逃すと全ては曖昧になってしまう」と思っていた。なので、早急な判断や行動が必要だった。

この時とは随分違ったものになった。

結果として、そうなったと言ったらいいのか。

まあ、なんにせよ。彼女が言えないのか、言わないのかもよくわからなかったが、ずっとこのまま言えなくてもいいかな....とさえ最近は思っていた。

たとえお姑さんに「ねえ、娘ちゃんはなぜ学校に行けないのかしら。解決しないものなの?原因は何なの?」と毎回聞かれても。

「いや、私も原因はわからないんです」と笑顔で返した時の、あのお姑さんの信じられないというような表情を毎回見ていても。

私はいいやと思った。

しかし

今回、おそらくその原因に近い出来事について彼女が急に語り出した。まるでそれは何かが彼女におりてきたように。


その内容は割愛するが


一言で言うなら「人間不信」なのかな、と思う。


彼女は世界を愛していた。
人を愛していた。
世の中がよくなることを望んでいた。

でも自分はできないことも多いし、何も解決できなかった。いい人間だとは自分のことを思っていないようだし、不十分さも自覚していた。自分の若さや悪意も自覚していた。そして、気持ちがすれ違って、人が離れたり、人から攻撃されたり、誠意のない対応をされたり、自分自身や相手にもがっかりした。

そういうことがあって、もう学校には行けなくなったのだろう。そう思った。


私は、子育てをしている感覚が最近、特に薄くなっているような気がしている。

この人は私から生まれてきたが、私ではない。違う生き物である。

私と違う人間で、私が好きな人で、一緒に暮らしている人。

そして話していて楽しいし、一緒に過ごせる時期は過ごして行きたいし、この先健やかに過ごしてほしいと願っている人。

「親として」の前に当たり前なのかもしれないが「人間として」接しているような感覚の方が最近大きい。

期待はしない。
でも、信じている。
それをずっとできる限りは続けていた。

私は彼女から学ぶことが多い。
彼女に随分と成長させてもらった。

以前も書いたが、親としては全部の出来事、全てがはじめてである。何が当たり前で何が正解なのかもわからない。まわりからその関係性について「変だ」と言われても「すごい」と言われても、正直よくわからない。はじめてであって、私もかなり手探りなのだ。


今回、2年越しに彼女が自身が思っていたこと、感じていたことを話せたことが、私たちにどのような意味をもたらしたのか、またあせらずゆっくり心においておきたいと思う。

「結び目」のようなものだと思うのだ。

心の結び目。

私と娘で、きゅっと結んで繋がったもの。

それはでっぱっていて、なだらかな線に現れた凸の部分。

それをそのままにしておくのも。

ゆっくりとほどいていくものなのかも。

また、それは流れにまかせていきたいと思う。

結び目は私と娘を繋ぐもので、それを頼りにしてもらってもいいし、それを「親子」の絆のように捉えてもらってもいい。でも、いずれ、その結び目をほどいて、彼女はまた新たな人たちと….大事な結び目を結べることも私は願っている。

そうやって私も生きてきたのだと思うから。


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