自己紹介②

皆さんこんにちは。
 前回のnoteでは、「熊耳の競技経歴とは?」という部分に触れていきました。

 今回は少し深めて、私が陸上競技を始めた最初のステージ、中学校時代について書いていきます。なお、これは私の備忘録的な部分もあるので、面白くないかもしれません。

変わったきっかけをくれたG先生

 そもそも、何故私が陸上を始めようと思ったのか。話は小学校時代へ遡ります。
もともと私は運動音痴で、スポーツ自体あまり得意ではありませんでしたし、家族の中にアスリートがいるような家系ではありませんでした。運動会のかけっこでは常にビリの方、マラソン大会でも後ろの方が定位置。
走ることでさえそんな状況だったので、球技などもってのほかという感じで、まさかそんな人間が将来箱根駅伝を走るなど、おそらく誰も思わなかったと思います。私もそんなこと思いもしませんでした。

 ところが小学6年のある日、担任だったG先生が「ちょっとこれやってみな」と、股関節周りのストレッチを教えてくれて、言われた通りに毎日取り組みました。すると、その年の校内マラソン大会で10番以内に入り、何が起きたのか分からないくらい進化していました。
多分、G先生との出会いが無かったら、今頃陸上競技とは縁遠い一般人として細々と生活していたと思います。この出会いは本当に感謝してもしきれません。

中学での部活、どうする?

 さて、小学校から中学校へ進学し、厚崎中学校へ進んだのですが、ここで「部活どうするのか問題」が起こります。
 というのも、当時の厚崎中学校では全員が何かしらの部活に所属するルールとなっており、運動音痴の私も何かの部活動に入らなければなりませんでした。運動音痴だし、球技はできないし、さあどうするか?となった時、あったんです。陸上競技部が。

 球技はろくにできない、文化部は何かちょっと自分には合わない、でも走ることならできる。それならば今の自分にできそうな陸上をやろう。

 そんなわけで自分の陸上人生がスタートしていきました。
 仮にこれが隣の中学校だったら、陸上部はなかったし、時代が過ぎて今中学校の陸上部が次々と廃止される流れの中にあって自分が中学生だったとしたら、陸上競技と出会うこともなかったかもしれません。

顧問のY先生、S先生

 陸上部に入部して練習を始めたのですが、この時練習を見てくれて指導してくれたのが、学年主任でもあったY先生です。私が中学3年になるときに、異動となり2年間しか練習を見てもらえませんでしたが、この2年間で色々と面倒を見てもらい、ある程度基礎を作ってくれた先生です。
 Y先生の異動後、練習を引き継いで面倒を見てくれたのがS先生でした。もともと長距離は専門外でしたが、色々と考えてくれて、工夫をしたりコミュニケーションをとりながら熱心に練習を見てくれました。
 お二方とも今でも付き合いがあり、陸上競技に関する事でもそれ以外の事でも、非常に良くしてもらっています。

最初のレース

 さて、色々な奇跡的な出会いを繰り返しながら始まった私の競技人生ですが、何も最初から全てが上手くいったわけではありません。
 最初のレースは5月の上旬、大田原市で開催された記録会からでした。
 ここで初めて1500mを正式なトラックで走ったのですが、記録は5‘38“。始めたてで何も分からないので、当時はその記録の価値がどれくらいのものなのか分かりませんでしたが、今になって考えるとかなり遅かったな、と。
 でも、この時、何かよくわからない赤い楕円の上を、必死に走ってたけど楽しかったな、またやりたいな、と思ったのは今でも覚えています。取っ掛かりで楽しきできたことが長く競技人生を続けられた秘訣かもしれません。

初めて握った襷

 初レース後、何回かレースを経験し、6月の那須地区中学総体・1年男子1500mで3位以内に入り県大会出場権を獲得。県大会でも8位入賞をするなど徐々に練習の効果を発揮して1年生のシーズン前半を終えました。
例年中学校は夏になると、秋に開催される駅伝大会へ向けて、各学校が特設駅伝部を組みます。我が厚崎中学校も例外ではなく、各部活動から走るのが速い人を招集して駅伝部を作ります。
 普段は陸上部だけで練習をしているので、人数が少ないですが、駅伝部ともなると人が増えて、たくさんの人と練習できることが結構楽しかったなと、今改めて思います。
 そして迎えた10月の駅伝大会。当時の私は「まあ、先輩たち速いし、今回は自分の出る幕はないだろうな」程度にしか思っていませんでした。しかし、レース前日の練習後、駅伝部員全員でミーティングと走る6人のメンバー発表をしたときの事。1区から順に名前が呼ばれる中、「4区、熊耳」。

ん??今呼ばれた?

なんと、1年生ながら駅伝の出走メンバーに選ばれたのです。これが人生初の駅伝でした。
レースが始まってみると、走るときは一人なのに結果は集団の合計タイムという、なかなか他のスポーツにはない駅伝の面白さに気づき、ここからどんどん沼にはまっていったのです。この時の襷の感触は今でも忘れられません。

今でも忘れない0.36秒

 学年が1つ上がり2年生となった私は、昨年よりいい成績を出して県のトップの人たちと張り合ってやろうという欲が出てきました。
 6月の那須地区中学総体、2年男子3000mで地区優勝すると、その時の私のタイムは県内各地区の代表選手のタイムの中でトップだったのです。顧問のY先生とは「これは県のタイトル行けるぞ!!」という事で、そこへ向かって必死に練習していました。

7月の県中学総体3000m、優勝を取りに序盤から4人の集団を形成しレースが進みます。ちなみにこの時、4人の中に順天堂大学から日立物流に進んだ栃木渡選手もいました。この時はまだ張り合えたんです(もちろん今は栃木選手が速いですし、今となっては私は栃木選手を神として崇拝しています)。
レースは終盤になり、先頭争いは私と知り合いだったB選手の2名による先頭争いに。ラスト100m、最後の最後、優勝に向けて渾身のスパートをかけました。振り切れたか?と思ったのも束の間、ラスト50mになり足音が迫ってきたと思ったら、あっという間にB選手に抜かされました。フィニッシュラインには、私とB選手がほぼ同時に駆けこんだものの胸の差で負けました。
その結果は0.36秒。1秒もない差ですが負けは負けです。優勝が狙える位置だっただけに、あれほど悔しいレースは無かったですし、今でもこのレースは強烈に記憶に残っています。
ちなみに、この時優勝したB選手は、後に進学することになる作新学院高校でチームメイトになり、ともに全国高校駅伝を目指す仲間となりました。昨日の敵は今日の味方、ではないですが、これも不思議なめぐり合わせでしたね。

Y先生の異動

 中学2年から3年に上がる3月。ここで予想だにしない事件が起きます。
 それまで練習を見てくれていたY先生が、教育委員会へ異動してしまうという知らせが届きました。2年間、ずっと見守ってくれて熱心に指導してくれましたが、その先生がいなくなるという事で、当時の私は「何で今なんだよ」と強烈に憤った記憶があります。まあ、先生という仕事に異動は付きものなので、仕方ないといえば仕方ないですが、それが今じゃなくてもいいのにと、ずっと思ってました(し、今も思ってます)。

 そんなこんなで迎えた中学最後のシーズン。
 もう一人の顧問だったS先生が練習を引き継いでくれて、色々と試行錯誤し、時には他の学校の先生方にもアドバイスを頂きながら色々とやっていたのですが、なかなか上手くいかず、思うような結果を残せなかったのが中学3年の前半でした。
 このシーズンは、それまで無敗だった3000mでも平気で那須地区内のライバルたちに負けてしまい、地区大会のタイトルは無し、県大会でも入賞の当落線上にいるという苦しいシーズンになりました。

再起をかけた最後の駅伝シーズン

 中学3年の前半戦は苦戦する状況を強いられましたが、夏以降は息を吹き返します。
 例年の通り、夏休みの少し前に召集される臨時駅伝部が、この年も結成されました。ただ、この年の厚崎中駅伝部は、とにかく走れそうな人が集まり、練習もレベルが高いものをできていました。私は、陸上部のキャプテンだったという事もあり駅伝部のキャプテンにも指名されました。掲げた目標は、

「那須地区駅伝優勝」

 簡単ではないことは分かっていますが、この年はとにかく人が集まり、本気でやれば優勝できると感じていました。
 練習は厳しいものにはなりましたが、確実にチーム全体での底上げが図れました。また当時の体育科の先生方が、校内全体を巻き込んで駅伝を応援する空気を作り出してくれたので、いい雰囲気の中で練習ができました。

 そして力試しに、と迎えた10月上旬の市内駅伝大会。
 厚崎中は3チーム出しましたが、私はAチームの1区を走ることに。
 夏の練習の成果が出て、区間賞を獲得することができました。私以外にも、他の区間での区間賞獲得者がいるなど成果は上々。いよいよ「これは那須地区駅伝で優勝できるぞ」という自信を掴み、その2週間後の地区駅伝に臨みました。

 10月中旬、那須地区中学駅伝の本番です。
 私は再び1区を担当し、ここで区間賞を獲得。シーズン前半には負けていた地区内の選手を圧倒し、見事に区間賞を獲得できました。
 その後もアンカーの6区まで、一度も先頭を譲ることなくレースを進め、ついに悲願の地区駅伝優勝を勝ち取ることができました。
 トラックレースで個人で優勝するのはもちろん嬉しいです。しかし、駅伝でのそれは格別です。個人競技と団体競技の中間の形態という独特な戦いをする駅伝において、優勝するというのは簡単なことではありません。そして、それまでの2年間で負けたり、県大会に行けても地区内で4位での県大会進出だったりという苦しい経験があるので、なおさら嬉しかった思い出があります。
 ちなみに、個人的にはシーズン前半が燻っていただけに、大好きな駅伝で成果を出せることがとても嬉しかったのです。

それから…

 地区駅伝で優勝し、11月の県大会に行きましたが、こちらは県で10番目という順位。やはり地区で勝てても県ではまだまだ通用しないなというのが実感でしたが、この期間は、駅伝部キャプテンとして、また一人の中学生ランナーとして、非常にいい経験をさせてもらえたと感じています。

 さて、県中学駅伝が終わり、それまで一緒に頑張っていたメンバーの殆どが高校受験へシフトしていきます。
 この時の私は、既に作新学院高校へのスポーツ特待での入学が決まっていたので、受験という受験はしませんでした。むしろ毎日走ってばかりで、普段の練習が更にエスカレートしていった感があります。
 冬になり、残るレースは栃木県の郡市町対抗駅伝。
 私は那須塩原Aとして出場しましたが、ここでも奇跡が起きます。この駅伝に出るのは2回目でしたが、中学男子の走る3km区間で区間賞を獲得したのです。さすがにこれには驚きました。まさか区間賞を自分が取るなんて思っていなかったので、ラジオ中継の速報を聞いたチームスタッフから「お前区間賞だぞ!!」と聞いて驚いたのは、今でも鮮明に覚えています。ちなみに、この時襷を貰ったのが八木沢元樹選手(那須拓陽高→明治大→ヤクルト)で、襷を渡したのが郡司貴大選手(那須拓陽高→駒澤大学→小森コーポレーション)で、チーム全体の結果としても総合優勝を収め、いいこと尽くしのいい経験になる駅伝でした。多分人生でこれほど豪華なメンバーで駅伝することは、今後一切無いような気がします。


 いかがでしたでしょうか。
 私の中学3年間を振り返っただけでしたが、かなり中身が濃い3年間でした。上手くいくことも、失敗も、全て乗り越えて駆け抜けた3年間です。同時に、自分の運命を変えた3年間だったと思います。
 今振り返ると、色々な人との出会いがあり、色々な経験をしたから自分の陸上人生があったし、出会った人々には感謝しないといけませんね。この思いは必ず返せるように、自分なりの方法で頑張っていきたいと思うところです。


 さて、まだまだ続きます。
 次回は高校編です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?