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私の帰ってくる場所。

走ることが生きること。と言うと言い過ぎな所はあるけれど、私の今は走る事を通じてできている。もし私が走ることに出会ってなければ、今の私はなかっただろうと言っても過言ではない。走ることが私にくれたものを今から書きたいなと思うが、その前に私と走る事について書きたいなと。

私と陸上競技の出会い

私が中学入学時に陸上部に入ったのがきっかけだ。球技センスが皆無で、母親が陸上部出身、走る事は人並みにできたからとりあえず陸上部に入った。そんなにめちゃくちゃ強い学校ではなかったけど、私たちの代はそれなりに走れる人が多かった学年。そして素敵な先生にも出会えて、真面目に走ってた。と言えるのは1年間だけ。2年生に上がる時に、大好きな先生たちは居なくなって、新しいコーチがやってきた。

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the真面目ちゃんなワタシ。大人には好かれる生活をしていたと思う。けれど、仲間をうまいこと作るのは難しかったらしい。中学時代の事を今でも暗黒時代と揶揄しちゃうこともあるけれども、なかなか人間関係では苦労していて、必死に居場所作りをしていたなかで、次第に走らなくなっていった。周りが走らないから、走らない。同調することしか出来なかった。そして、引退試合は過去ワースト。もう陸上トラックには二度と戻ってこないと思ってた。

バドミントンをしていても走るのは好きだった。

今ある環境を変えたくて必死に勉強して入った高校。陸上にはなんとなく未練はあって見学には行ったけど、陸上部の実態が分からずに入部を悩んでいた時に、横にいた友達がバドミントン部に入ったから一緒に入った。実は陸上部と間違えられたことがあるほどに走るバドミントン 部。人並みには走れるからかもしれないけど、走ることが好きなんだと気付かさせられた3年間。大学生になったらホノルルマラソン走りたいなーってぼやくくらいにはなっていた。そして高校を卒業して大学に入学前、バドミントン部の先輩に大学の陸上部ってどうなんですかーって聞くほどにはなっていた。

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迷ったけど陸上競技を再開した。

ブランクありありで大学の陸上部。当時陸上部に女子プレーヤーがいなかった。野球も好きで野球部のマネージャーもいいかなーって思うこともあったけど、自分がプレーヤーとして活動したかったこと、一緒にプレーヤーをする女子同期がいたこと、中学時代の憧れの先輩に再開したこと、いろんなことが重なって走る事を再開した。最初は何をやってもできないけど、どんどん記録は伸びていくから楽しかった。けれどまたここでも人間関係に悩むことがあったり、他にやりたいことが出来たりして、陸上に集中できないようになっていく。当時の私は記録至上主義なところもあって、結果が出ないと分かるともう走る意味ないなと思うようになってしまっていた。

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でもひとつだけやり残したことがあって。それはホノルルマラソンをはしること。陸上部の現役時はそんな時間が、引退してからはお金がなかった。そうやってまた社会人になってからの持ち越しとなった。卒業前、与論島に行った時に、走りないなーってなって朝走っていた。この行った時、ちょうどヨロンマラソンのまっただ中。来年は走れるようになっていたいと思っていた。

走るのを再開したきっかけ。

大学陸上部で走らなくなってから、私は殆ど走らなくなってブクブク太った。社会人1年目の夏、富士山に行こうとなった時、どうせ頻繁に山に登るわけじゃないからと言って登山靴の代わりにランニングシューズを買った。富士山登頂は山頂で大雨にやられ、御来光こそ見られなかったが無事終了。この時ダイエットしようと思ってたころで、富士山を戦ったランニングシューズで走った。走れないとはわかっていても、今日は30分、今度は40分と少しずつ走れる時間が伸びていくとやっぱり楽しい。60分がなんとか走れるようになる頃に1人で走るのは辛いから仲間が欲しいとなった。そして社会人サークルに足を踏み入れるように。

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MAX太ってた晴れの日、大学の卒業式。

走るの多様性にやっと気付けた。

社会人サークルrun run tokyoに足を踏み入れる。様々な年代の人が色んな目的を持って走っている。タイムを追うも追わぬももちろん自由、楽しく走れる場を作り続ける善意の塊で成り立っている場だと思う。私の場合はタイムを追うことをきちんとやり切ったと思えてなかったから、今でもタイムを追い続ける族をしているなとも思う。けど学生時代の私と違うのは、タイムを追わないといけないという洗脳から解き放たれて、走りたいから走ると言うスタンスを貫いていること。走らなかった期間が一定続いてそれなりに楽しく過ごせていたからこそ、走らなくても死なないし、なによりも走らなくても良いけど走りたいから走ってるんだと言う気持ちでいることで心の余裕を作っているのだと思う。

ホノルルマラソンではないけれど。

サークルに参加するようになると、多くの人がフルマラソン を完走していて、もともとホノルルマラソンを走りたいと言っていたくらいだから、フルマラソンを走りたい!と申し込みに至るまでには時間は掛からなかった。そして初フルマラソンは2018年3月の古河はなももマラソン。今でも1番走ってて楽しかったのはこの時だったと思う。走ると決めた半年くらい前から段階を経て距離を伸ばし準備していった。申請タイムが遅かったこともあって、後ろからゴボウ抜き。35キロ超えたらやっぱり辛いけど、失うものが何もないから純粋に楽しんで走ったのだと思う。

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サブ4をしたから次はサブ3.5。取り憑かれるように練習して、その間に怪我もして、毎月ハーフ以上の距離があるような凄い状況になるくらいにはサブ3.5が私の欲しいものらしい。記録出さなくてもいいって思ってても、欲は尽きないのだった。

新たな世界への入り口

サブ4をしたから次はウルトラマラソンじゃない?とか、トレラン一緒に行こうぜ!などお誘いが増えるようになった。そっから足を引きずるまで練習して、痛み止めを飲みながら100キロ完走してみたり、そんな怪我を引きずって全然練習できてない状態で初トレイルレースに出場してみたり。レースでなくても変態的距離を走る練習や、ただ綺麗な景色を見たいからと山を走るようにもなった。東京に来た4年前には想像もつかないくらいに沢山の人に溢れている。そんな沢山の人がいるからこそ、その人一人一人が見せてくれる世界があって、また私にも私の世界がある。仲間が増えれば増えるほどに、走るを通じた新たな楽しみ方を知られてくれるようになった。

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今しかできないと言う思いと共に。

私自身が最前線で走れるのは、いつまでだろうかと思いながらずっと走り続ける。記録を求める族でいるためには懸けるものが沢山あって、エネルギーと時間と(もちろんお金も)。だからこそ、目標を達成したら記録を求める族は引退かなーとかも言っちゃうし、私が人生の中でやりたいことはマラソンだけではなくて、数年後には結婚して子供が欲しいって思ってるんだろなと思うと、自分のやりたいことに100エネルギー使える期間ってあとどれくらいあるのだろう、結局どうするかはその時の私が決めるのだろうけど、マラソンを始めた3年半前から比べると区切りが近付いてると思っている。3年半前の私は今ごろは大阪国際女子マラソンに出て引退している自分を想像していたけれど、大分寄り道はしているみたいだ。とりあえず2022年の3月に最高のパフォーマンスを出せるようにすることが当面の目標にはなりそうだ。

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楽しいと思えるくらいには練習する。

記録を出さなくても生きていけるし、プロでも何でもない。私は自分が結果を出したいから、はたまたこんな私でも期待をかけてくれる人がいるから結果を出したいのだと思う。結果を出す事を二の次にしたとしても、走れた方が走ることは楽しいし、走ると言う習慣が抜け落ちて走らなくなると走ることがしんどくなるから、自分が楽しいといって走れるくらいの力は持ち続けたいと思うのだ。記録を追い求める族を引退したとしたら、どう言うスタンスで走っているのか、それはその時の私しか知らないけれど、楽しく走れていて欲しいと心から願うのだ。

走るが私にくれたもの

中学時代、大学時代、社会人サークルで活動する今。誰かと一緒に走ると言う事を選び続けたからこそ、人間関係で悩むことはいつもあるし、今も頭を悩ませる。学生時代の私は記録を出さないといけないと言った義務的な発想しかなかったこと、環境に依存しすぎて人間関係で辛くなると、その場から逃げ出そうとしていたのだ。

でも今は少し違う、走りたいから走る。走りたいという自発的な感情と、記録を出さなくても良いけど出したいという思い。走るに対する色んなスタンスの人がいるからこそ、今の自分に合う環境で走る事を選び続けられる、作り続けられるのだと思う。

やりたいと思う事をやる事、自分の気持ちに素直になる事がいかに大切かそれを気づかせてくれたのは走るを通してだ。周りを凄く気にして、過敏に反応してしまう側面があるからこそ(人間関係とか特に)、自分で自分を大切にしてあげる時間として走っているのだと思う。

走ると私は腐れ縁のようだ、陸上から始まって走り始めてもう14年目になる。もう人生の半分以上走ると共に生きているのだ、これから先も形は変わったとしても走るとは付き合い続けるのだろう。だからこそ走るが自分の帰ってくる場所であり続けられるようにこのnoteを書き残しておきたい。

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