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馬鹿の審判

前書き


ある刑事事件のへの批判を目にしたので書こうと思いました。いかなる場合においても私は犯人を擁護するつもりはありません。

どんな事件かというのは、放火や殺人など、死者が出る事件ではないという事だけ述べておきます。



馬鹿の審判と題しましたが、Ⅰで扱うのはこういった刑事事件につく世間の批判コメント、「死刑にしてほしい」男性の性犯罪者であれば「強制的に去勢すればよい」などという意見の事を馬鹿の審判と呼ばせていただいたものです。

馬鹿というのは、ご想像の通り考えることが苦手です。

悲惨な事件や凶悪な犯行を知った時、少しは「なんてひどい奴だ。犯人は死んでしまえばよい、死刑にしてしまえ」と考えてしまう瞬間があるかと思います。

しかし思考ができる人間は、ステップ2としてその感情に倫理であったり加害者の人権や法の要素を加えて妥当な処罰を考えなおすことができます
その結果として、「死刑は妥当ではないかもしれない。裁きは法に委ね、適切な処罰を与えるのが正しい。」という意見に瞬時にたどり着くでしょう。

対して考えることが苦手な人というのは、ステップ2に進むだけの思考力を持ち合わせていません。倫理・人権・法などの要素を加えて再思考することができないので、第一段階の「死刑にしてしまえ」という意見でどうしても止まってしまうのです。
基本的に彼らにとっての処罰は「死刑」「身体機能の一部を奪い監視」「医療実験に使う」の3択です。(彼らは主にヤフーニュースのコメント欄に居ます。)

以上は犯罪行為への非難に対する私の考えです。

もう一つ例を挙げますが、冷笑主義的思考、いわゆる冷笑系というのも馬鹿の審判の一種であると思っています。

何か言い争いがあった時、互いに正しいと信じる意見があり、それらはたいてい、論理的または感情的な思考の末に生まれます。
外野から蔑んでいる(つもりになっている)のが、私の言う冷笑系です。

なぜその言い争いに入らないのか。それは通常、面倒な事に関わりたくないという理由があるでしょう。それならば議論に熱くなることも、嘲笑う事もせず、ただ知らぬふりをするのが当然です。

しかし冷笑系は、関わらなければいいのに、熱心に自分の意見を述べる言論者を蔑むように笑います。彼らは本心では関わりたいのです。それなのに、思考する能力が無いから、ただ笑う事しか出来ないのです。

「この程度の話題でここまで熱くなるの、"ホンモノ"って感じだ」
「この言い分に○○って反論しちゃうの、むしろ微笑ましいまである」

上記2文は「冷笑系のコメントの例」なのですが、いかがでしょうか。
彼らはちゃんと自分の意見を述べられているでしょうか?

答えはいいえです。これらは意見ではありません。
これらを「客観的な視点から言い分を評価した」と思い込むのは、それこそ蔑まれるべきでしょう。

意見は思考の末生まれるものです。
「達観したようなコメントをするために自身は外野に居ます」は間違い。
「考える能力も知識も無く思考できない人間は意見を持てないので、外野に居るしかない」が正しい。

自分がそうならないために、トラブルを見かけたら自衛として「この問題に触れないという手段もある」と思い出してみてください。

結論として、すべての論者は馬鹿の審判を聞き入れるべきではありませんし、馬鹿のコメントを取り合う必要もありません。

低い思考力と足りない知識から生まれる不良品に、価値を見出さないでください。

そしてなによりも、読んでくださっているあなたがそうならないよう、日々何かを思考し、日々勉強してください。意見を論じる実力が備わっていないと感じたら、その件からは降りてください。

以上。

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