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夢の中で#最後 (小説)

家に着くと表札を見るや否、安堵した。そこには藍原と表札が掲げられている。間違いなく俺の名だ。力の無い乱暴な動作でインターホンを押して親を呼んだ。親が俺のことをどう受け止めるのかが幾分心配であった。放たれる返事を怯えると同時にただ、親の声を聞くだけでもいいと渇望する気持ちが同居していて胸が苦しい。そんな情感で呼吸を数えた。
 インターホンから聞こえる声は機嫌のいい調子で「秀人、どしたのこんな時間に」であった。急に現実に戻す親の声は俺の葛藤を救済するのによいきっかけになった。どうやら希望が見出せてきた。「ちょっと待ってね、すぐ行くわ」そう言ってインターホンの連絡が消える。実家からドタバタと階段を下りる音が聞こえただけで再び泣きそうになった。しかし、親に会えたからと言って今日までの不思議な体験が消えることはない。すぐに病院に行って医者に診てもらおう。もしかすると重篤な難病にかかっているのかもしれない。就職活動は厳しいと言われるかもしれない。だが、それが納得につながるのなら十分すぎる成果である。正しい治療を受けて平穏を取り戻そう。俺は一瞬にして奢っていたのだ。
 1分ほどたっだろうか。親はなかなか降りてこない。もしやと思ってもう一度インターホンを押した。ピンポーンと電子音が帰ってくる。だが返事はない。さらにもう一度押してみる。結果は同じだ。俺はさっきまでの安心が絶望に変わることに焦燥感を覚えた。だめだ。やめてくれ。何故誰も出てこない。また、呼吸が乱れ始めてとうとうついには心が折れかける映像が頭の中で流れて不安を助長した。負の方向にしか進まないということを知っているのに何故か自ずから恐怖を想像してしまう。ガチャリと不意にドアが開く。嬉しくなって一瞬口角が上がったがそれはほんの一瞬のこと。出てきたのは顔も見たことのない他人であった。
「すみません、藍原国子は知りませんか?」もう答えは想像出来ている。
「いえ、どなたでしょうか?」
完全に望みはなくなった。もう聞くのも馬鹿らしい。「いえ、すみません家を間違えました」そう言って闇の中をを走って逃げた。


 ここは何処なのか。いまは何時なのか。見えているもの覚えているもの全てが疑わしい。道沿いに時折2メートルほどの大きな箱が置いてある。それは光ながらよく見ると円柱の何かがいっぱい並べてあるような観を呈している。これをなんて言ったっだろうか。名前が思い出せない?いや、知らないのか。こんなにも沢山見かけるのに名前を知らずに過ごしていたのだろうか。名前がなければ区別出来ない。言葉がなければ思考が出来ない。そう見ると当たりのものがほとんど知らぬものばかりであることに気付かされる。
 道歩く人は本当に存在しているのだろうか。ふと、そう思いすれ違う人を力強く殴ってやった。殴られた人は普通怒るものだ。自分に非があるときは悲しむかもしれないが心の何処かで激しい感情を生じさせることであろう。しかし、殴ったと思われた男はすでにそこに居ず己の拳になんの痛みもないことが命中していない何よりの証拠であった。あれ?気が付けば視界がなくなっている。俺の目は光を感じていないようだ。盲目の人間は真っ暗闇な夜の洞窟のを見ていると思っていたがそもそもの「見える」ということをその時俺は忘れていた。生まれた時から視覚を落とした4感だけで過ごしてきたみたいに色の記憶がない。俺は見える世界から存在を消されたようである。
 次に味覚がなくなる。乾いた喉から出るまずい唾の味がついには無くなった。
 次に嗅覚がなくなる。ここぞとばかりに鋭敏になっていた鼻が役割を果たさなくなった。
 とにかく肉体を動かそうと足を持ち上げたとき僕は体勢を崩して近くの電柱かなにかに体をぶつけて転げてしまった。しかし、痛くはなかった。風が身に当たる圧力がなくなり無重力のような不安定な状態になった。立っているのか倒れているのかも分からない。そもそもそう言った概念に干渉しない状態なのだから気にすることもないであろう。肉体の記憶がない。知っていた言葉もどんどんなくなっていくと同時に思考が稚拙になっていく。この時の俺は音だけに反応する単細胞生物になっていた。
不意に起きた事件に何もなす術なく俺は日常を失ってしまった。自分という存在についても何も知らず。考えれば哲学的な無限遡行に陥り帰ってくることは出来なくなるであろう。そんな気がするする。何もかも絶望である。存在とはどのような形をしているのか。俺はどうすればよかったのだ。涙を流せそうなほど苦しく感じていたが皮膚感覚がないので頬をつたる水は確認出来ない。
 気がつけば唯一聞こえていた雑音すらもう聞こえていなかった。よかった。もう怖くない。

 はっと目が覚めたとき、俺はベッドの上で寝ていたことを知った。

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