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夏ポテトを食べるまでは、まだ夏じゃない。

7月25日(火)雑記。

夏ポテトを食べるまでは、まだ夏じゃない。

ご存知、夏ポテト。
コンビニやスーパーでこの時期に
よく見かける季節限定のポテトチップス。

「何をキッカケにして季節を想うか」
という、とりとめもない話を、
学生の頃によく友人と話していました。

例えば夏の場合。
梅雨が開けたら夏だとか。
蝉が鳴き始めたら夏だとか。

もう少しミクロな話になると、
沸かしたばかりのぬるい麦茶を飲んだら夏を感じるとか、薄荷の香りを嗅いだら夏だとか、そうめんを食べたら夏…などなど。

生まれた地域や育った環境によってまちまち
ですが、私の場合はタイトルの通り。

夏ポテトを食べるまでは、夏じゃない。


虚しい。
実に虚しい攻防。
いやはや虚しいのか卑しいのか。
この攻防は決して「手前の春をもっと感じていたい」とか「初夏、という響きが好きで」とか、そんな麗しい情緒表現ではありません。

ただただ、夏を生き抜くのが辛い。


その一点に尽きます。

「勝手に夏を認めようが認めまいが、平等に暑さはやってくるじゃないか」
仰る通りであります。
それが当然の自然の摂理であります。

しかし。

しかしです。
「認める」かどうか、という点において、自らの内に秘めた覚悟が地球一周分ほども違うのです。

夏。
嗚呼、夏。

立ち向かえども0勝∞敗。
立てば汗、座れば日焼け、歩く姿は、
もう何がなんだか分かりません。

アイスが美味しい、という唯一無二の勝点を
挙げようとも思いましたが、
いや、冬のこたつでも十分美味しい。
十分美味しい。
むしろ冬の方が勝点で言えば確実に上。
鉄壁にして完全無比の布陣、アイス。

……結局のところ、向き合い方自体が
分かっていないだけの戯言なのです。

ですが、今年の夏は違います。
なぜならば、海辺の街に引っ越したから。

夏、光る海、美しい雲。輝く砂浜。

およそ想像し得る限り、絵に書いたような憧れの環境のすぐ近くに、今自分は暮らしているのです。

今年も負けた、では、終われない。
去年は負けました。
でも今年も負けた、では、終われない。

今年こそは、夏ポテトを早々に食し、
覚悟を以ってこの日々に立ち向かわなければ。

今年こそは、夏の良い部分を探しに。
今年こそは、夏に焦がれる思い出を。

……炎天下の陽炎の中、そんな事をつらつら考えながらコンビニへ行きました。
皆々様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。
皆様の夏、よろしければ教えてください。



蝉が鳴く日

どこかで聞いた話では、
ここ最近の異常な暑さによって
蝉が鳴かなくなった、とか何とか。

あまりの暑さのせいで蝉が羽化できず、
木に登り切る前に力尽きてしまうとか、
夕方になってから鳴くようになったよね、
などなど。

言われてみれば、子どもの頃の思い出に比べ
確かに日中、蝉が大人しいような、
そうでないような。
うるさいくらいに四方八方から聞こえていた
あの鳴き声も、言われてみれば、
最近はそんなに聞いていないような。
子ども時代の思い出補正のせいなのか。
本当に蝉は昼には鳴かなくなったのか。

はてさてと、思いを巡らせる日々でしたが、
本日、今年最初の蝉の鳴き声を
日中に観測(拝聴?)いたしました。

ただ単にまだ季節が浅い、というのも
あるかも知れませんが、
聞こえたら聞こえたで、
少しだけ安心するのでした。
今年も頑張りましょうね。



「やさしナリン」について

患っています。
それはもうぐっさりと、です。

その昔、舞城王太郎さんの「キミトピア」という小説を読んでから頭の片隅にずっと残り続けている思考があります。

それが、やさしナリン。

誰かのための優しさ、というのが強迫観念になるほど行動原理の先端を走ることになってしまう、そのためにしゃかりきに、無我夢中になってしまう、そんな言葉。

私には、ついつい頑張ってしまう癖があります。
主に自覚するのは仕事中なのですが、
そこまで肩肘張らなくとも…と
いつもは思って行動していても、
物事が始まるとつい集中し過ぎてしまう。

気付けば肩こりが限界突破しそうです。
緊張なのか集中なのか、
自然と肩が上がってしまうんですよね。

もっと力を抜いて、力半分で物事に
相対すれば良いだろうにと反省もつかの間、
これがなかなか上手く行きません。

こればかりは性分と心の問題ですから
とにかく自覚するところから始めなければと
日々あくせくしながら過ごしています。

ふと思い出すニーチェの言葉。


 力を入れすぎない。
 自分の力の四分の三ほどの力で、作品なり仕事なり完成させるくらいがちょうどいいものが出来上がる。
 全力量を用い精魂を傾けて仕上げたものは、なんとも重苦しい印象があり、緊張を強いるものだからだ。それは一種の不快さと濁った興奮を与えることをまぬがれない。しかも、それにたずさわった人間の臭みというものがどこかついてまわる。
 しかし、四分の三程度の力で仕上げたものは、どこか大らかな余裕といったものを感じさせる。ゆったりとした作品になる。それは、一種の安心と健やかさを与える快適な印象を与える作品だ。つまり、多くの人に受け入れられやすいものが出来上がるのだ。

「人間的な、あまりに人間的な」

いやはや。

まだ夏は始まったばかり。

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