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校舎内の禁足地 二

誰かのイタズラだと思うのが普通だと思います。でもついさっきまで電気は点いていなかったし、点ける為にはバリケードを越える必要がありました。子供が自分の少ないお小遣いをはたいてわざわざこんなイタズラをするとは思えませんでしたし、何より、こう、その蛍光灯の下の空間がとても古めかしく感じたんです。夕焼けに染まった教室のノスタルジックさではなくて錆びれた商店街の様な、とにかく退廃した空気でした。

菊池君はぶるっと身震いして踵を返し、一目散に逃げ出しました。そのまま見ていればスポットライトに吸い込まれて戻って来れないのではないか、そんな気持ちになったそうです。
運良く先生に鉢合わせる事無く校舎を後にした菊池君は、勢いそのままに家まで走りきりました。帰り着く頃にはシャツは汗で肌に張り付き、喉はイガイガと突き刺す痛みを覚え、玄関を開けると同時に倒れ込みます。
何かを見た訳でもありませんでしたが、夕闇に隠れて付いて来ている様な気がしてなりませんでした。あの赤い上靴を履いたおかっぱの女の子。そんなイメージが菊池君の頭をチラつき話もそぞろ。家族が廊下を歩く度に、扉を開け閉めする度に、もしくは外で猫がにゃおんと鳴く度にドキンと心臓が跳ね上がり上手く寝つけない始末でした。
翌日、重たい瞼をこすりながら学校に行きました。しかし、授業中に寝て怒られた以外は普通の1日が過ぎ拍子抜けしてしまいました。金曜日を迎え週をまたぐ頃には、あの上靴はただの見間違いだったのだと思うようになり、月曜が来て変わらない生活に追われるうちにすっかり忘れてしまったのです。
それから1ヶ月が経とうかという時、とある噂がクラスに流れ始めました。

「校舎の3階に一人でいると廊下に呼ばれて、あの世に連れていかれる」学校の怪談とか都市伝説の中でもかなり抽象的なもので、子どもらしいものだと思いますよね。でも、私はそうは思えませんでした。むしろ言いえて妙というか、そのものだと感じました。その噂が流行り始めたのはクラスの女の子、長谷川さんが上靴を見たと話した時からでした。続いて中谷さん、石狩君、倉崎君、真面目一貫の渡辺さんも見たと言いだしました。話に尾ひれが付いたのか事実なのかは分かりませんが、私が想像した通りの女の子を見たという噂すら流れ始めたんです。瞬く間にクラスを越え他の学年にも届き、遂には先生達の耳にも届きました。普段からあれだけ怒る大人達が知ったのですから、何かしらの対策をするのは当然で、ある朝学校に行くとバリケードにはブルーシートが張られていました。正直なところ、ホッとしましたよ。これで誰かが見たって噂が立たなくなるんですから。でも、思考停止してたのは間違いないでしょうね。

ブルーシートはたかだか1日2日の気休めにしかなりませんでした。何故なら、今度は声が聞こえ始めたと言うのです。男の声だと言う子もいれば、同い年か少し下くらいの女の子だと言う子もいる。あまりはっきりしないのは、どれもボソボソとしているか水の中で喋っている様な聞こえずらいものだったからだそうです。そんな噂が学校中に広がりきった頃、菊池君もとうとうその声を聞きました。噂と違ってまだクラスメイトも沢山いる騒々しい昼休みに。ボソボソとした声なのは違いありませんでしたが、しかし、とある単語が聞き取れたと言います。
「……った、かすがい……め」
かすがい、と言うのは2つの木材を繋ぎ止める釘の事で、コの字型になっていて両端が尖っています。ホッチキスの針をイメージしてもらうといいかもしれません。主に建築の時に使用する事が多いのですが、古いとは言えこの校舎はコンクリート造りでしたし、そのかすがいが一体何を意味するのか当時の菊池君には全く分かりませんでした。
その後も菊池君を筆頭に声が聞こえる様になり、かすがい以外にも誰かの苗字だったり助けを求める声だったりと、先生達の努力虚しくクラスの殆どが何かしら聞いていました。開かずの廊下を挟んだ隣のクラスでも同じ現象が続き、職員会議で3階を封鎖するか否かを議論しているその日の午後。昼休み中の事でした。

「ぎゃーーーーーーーーー!!!!」

凄まじい叫び声が校舎内に響き渡ったんです。何事かと思うと同時にとうとう来たかと思いました。いつまでも続きそうな程長いその叫び声の出処は明らかに隣の教室で、勿論クラス中が騒然としたのを覚えています。その時先生は職員室にいたので、誰が呼びに行くのか、それとも言いつけを破りブルーシートを外すのかとかとりとめのない議論や教室の隅で泣きじゃくる女の子。一目散に逃げ出す子などもいました。恐らく反対側の教室でも同じ事が起きていたのでしょう。そしてそうこうしている内に、私の中に「見に行かなければ」という逆らい難い使命感が生まれたのを感じました。先生達を待つのは悪手だ。誰よりも早く現場を見に行かなければならない。幽霊に操られていたと言えば体のいい言い訳でしょうか。クラスメイトの制止の声も届かなくなった私はブルーシートを括っていた紐を外し、バリケードを越え、とうとう禁断の地に足を踏み入れてしまったのです。その途端、世界からある1つを除いて音が消えました。クラスメイトが固唾を飲んで見守っているから?しかし反対側は私が開かずの廊下に入った事に気付いていないはずです。そこは間違いなく世界から隔絶された空間だったんです。そして私はある音に誘われ歩みを進めました。先程の悲鳴ではなく、バシャバシャという水の音。廊下の電灯が明滅していようが、昼間なのに教室の中が闇に包まれていようが、お構い無しに私はドアに手を掛けました。


「ガボガボガボガボッ、ガッ、グッ、ガッ、ゲボッ」

褪せた蛍光灯の光が差し込むその筋の先。
天井からドス黒い水が滝のように流れ落ち、男の子がその滝に向けて限界まで口を開けていました。


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