ラブレターなど燃やしてしまえ(ショートショート)

 リビングに置かれたダイニングテーブルでもそもそとトーストをかじる。目玉焼きにベーコン、オレンジジュース、サラダにヨーグルト。私にとっては普通の朝食だ。以前、玲菜に朝食の話をしたら

「めっちゃ羨ましいんだけど」
 と言われた。玲菜の家では基本的に白米しか出てこないらしい。そこに卵なりふりかけなりを好きにかけて食べるそうだ。玲菜の弟は、最近マヨネーズと醤油をかけるのがマイブームらしい。ちょっと信じられない。
「あんたはただでさえ起きるの遅いくせに、食べるのもゆっくりなんだから。朝くらいシャキッとしなさいよ」
 キッチンで洗い物をしているお母さんからいつものごとく小言が飛んでくる。私は適当に返事をしながらオレンジジュースをすすった。すすりながら、ウッドデッキへつながる掃き出し窓へ視線を送った。まだゴールデンウィーク明けなのに、日差しは嫌になるくらい夏の色をしていた。掃き出し窓の隣にはガラス戸のついた大きな棚があり、そこには三つのトロフィーと、銀色の盾が一つ飾ってある。他にも額に入った賞状やら大きな写真やらが並べられていた。ガラスはきれいに磨かれていた。まるでそれらを見せつけるためのようだ。
 棚の中に私のものは一つもない。全部お兄ちゃんのものだ。
「少しはお兄ちゃんを見習いなさい。今日だって朝練で早くから起きて学校行ってるんだから。夏休みの大会で優勝したい、って……」
 お母さんがまたキッチンから小言を投げてくる。いつもどおりの朝だった。

 通い慣れた中学校舎の昇降口で、私は下駄箱の戸を開けた。中からローファーを取り出して、代わりにスリッパをしまう。今までの月曜日は玲菜と一緒に下校していた。しかし今日からは一人だ。
「え、玲菜、受験するの?」
「うん。なんかお母さんが張り切っちゃって。塾も今月から週五だって」
 教室でそんな会話をしたのが四十分前だ。ホームルームが終わった直後だった。私は沈んだ心のまま、美術部のミーティングへ向かった。終わった後、いつもの癖で教室へ行ったが、もちろん玲菜は待ってなどいなかった。 ローファーに足を入れて、昇降口を出る。野球部の暑苦しい掛け声と、サッカー部の笑い声が混ざり合っていた。それを避けるように私は校舎に沿って校門を目指した。どうして玲菜は高校受験などするのだろう。だったらなぜ中学受験で中高一貫校であるこの学校に来たのだろうか。私は小石を蹴っ飛ばした。一人で変えるのは寂しい。せめて何かに付き添って欲しかった。地面を転がる石だけをひたすら見つめて歩いた。お父さんは私に何も言わない。お母さんはすぐ「お兄ちゃんを見習え」って言う割に、実際なにかさせようとはしない。中学受験に合格してからは塾も通えと言われなくなったし、部活だって熱心にやってないのは分かってるのにあまり口出ししてこない。
 お兄ちゃんがいるからだ。勉強ができて、中学から始めた弓道でもすごい成績を残している。だから私になにかを頑張らせようとしないし、期待もしていない。
 校門を出てすぐ、転がる小石が人影に飲まれた。
「ねえ、三谷くんの妹だよね」
 顔を上げると、うちの高等部の制服を着た女の人が立っていた。胸元まである黒髪は、肩辺りからウェーブしている。華やかな顔立ちだ。スクールバッグをリュックのように背負って、手に持ったものを隠すように両手を後ろに回していた。
私も三谷なんだけど、と思いつつも、私は「はい」と返事をした。
「これ、お兄ちゃんに渡してくれない?」
 彼女はそういいながら両手を前に出した。持っていたのは、薄ピンクの封筒だった。丸っこい字で「三谷くんへ」と書かれている。そして封をしているのはハートのシールだ。私はそれをじっと見つめた。これは、いわゆるラブレターというやつだろう。生まれて初めて見た。しかもお兄ちゃん宛だ。私が硬直していると、封筒がぐっとこちらに近づいてきた。
「ね、お願い」
 驚いて顔を上げる。彼女は口角がきゅっと上がっていた。いたずらっ子のような表情だった。
 私は二、三回、視線を彼女と封筒とを行き来させたのち、そっと受け取った。
「お願いね」
 彼女はくるりと踵を返した。背筋を伸ばして、さっさと遠ざかっていく。封筒は私の中にあった。

 セーラー服姿でタバコは買えない。そんなことは誰でも分かる。ではライターは? 心臓をバクバクさせながら黄色くて半透明なライターをレジへ持っていったのは、三十分ほど前のことだった。あっさり買えた。杞憂だった。
 私は家の近所にある公園のブランコに一人で座っていた。薄ピンクの封筒と、さっき買ったばかりのライターが一緒に制服のポケットに入っている。小学校低学年くらいの子どもたちが、砂場やすべり台の周りで追いかけっ子をしている。私は申し訳程度にブランコを揺らした。
 そのうち小綺麗な女性がやってきて、小学生たちは彼女に向かって駆け寄っていった。そして一緒に公園から消えていく。ブランコの鎖が軋む音だけが、一人きりの公園に響いた。
 私は一度あたりを見回してから、封筒とライターを取り出した。ライターなんて使ったことがない。片手に持ってしげしげと眺めた。火が出てくるであろう穴の横に、車輪みたいなものがついている。そしてその斜め下に黒いバーのようなものがあった。多分、親指で車輪みたいなのを回しながら、黒いバーを押さえればいい。私は恐る恐る挑戦してみた。火はつかなかった。
 二回、三回と挑戦したところでやっと火がついた。しかし驚いてすぐ手を放してしまった。
 でもやりかたは分かった。私は深呼吸を一度して、左手に封筒を持った。もう一度、すうっと息を吸ってから、着火した。そっと封筒を火の先端へ近づける。燃え移った、と思った瞬間に、予想外の速さで侵食していった。私は慌てて封筒を放り投げた。本当に一瞬の出来事だった。

「ねえ、三谷くんの妹だよね」
 あれから次の週の月曜日、また帰り道に話しかけられた。うちの高等部の制服を着ていた。肩より少し長い位置で切りそろった髪はまっすぐで、背が低く少し足が太めの女の人だ。先週とは別の人だった。
「これ、お兄ちゃんに渡してくれない?」
 彼女は封筒を差し出してきた。先週見たものと全く同じ薄ピンクの封筒だった。彼女の字も随分と丸っこい。先週の人といい勝負だ。
私は無言で受け取った。そしてまた公園で燃やした。

 それから毎週、私は女子高生からお兄ちゃん宛のラブレターを受け取ることになった。 最初は毎週違う人が持ってきていたが、だんだん二回目三回目の人が現れてきた。渡してくるのはどうやら五人のようだ。夏休み直前の月曜日、渡しに来たのは最初の人だった。いつもの公園には日陰が殆どない。梅雨明けくらいから人影が減り、今では私以外の人を見かけることは稀になった。だから今日も一人、ブランコに座っていた。ゆるゆるで有名な美術部は、夏休みの活動は全く無い。夏休み明けに何でも一つ作品を提出するだけだ。これでしばらく手紙を受け取らずに済む。それだけで気が楽になった。
 人に好かれる。それが私にはよく分からない。そんな経験、ぱっと思い浮かばない。だからこそ、それを当たり前のように感受しているお兄ちゃんが苦手だった。
 毎週使ってるのに、ライターのオイルは殆ど減ってない。火を着けるのにも随分慣れた。
 いつものように燃やそうとして、止めた。
 彼女たち、そしてお兄ちゃんからの信頼を、私は毎週裏切ってきた。なら、ここで罪を重ねても同じことでは?
 封筒の真ん中に貼られたハートのシールに、私は初めて手をかけた。ペリペリと剥がすと、封筒はあっさり開いた。二つ折りの便箋が、少しだけ顔を出している。私はそれをそっとつまんで引き出した。恐る恐る指を差し込んで、開いた。
 そこに書かれていたのは、告白の言葉では無かった。私は半分も読まずに手紙を閉じた。見なければよかった。手が冷たい。心臓がうるさい。
 手紙に書かれていたのは、誹謗中傷の言葉だった。
 私は学校にいるときのお兄ちゃんを知らない。部活で帰りが遅くて、好きなアイドルが出てるドラマを見るときと夕食のときだけリビングでくつろいでいて、用があって部屋を覗けば参考書か文学書に向かっていて、たまにちょっとだけ廊下に友達と電話している声が漏れている。そんなお兄ちゃんしか、私は知らない。
 私は手紙を封筒に戻した。シールをもう一度張って、シワを伸ばすために何度も親指でなぞる。
 私はラブレターだと思っていた。だからずっと燃やしてきた。改めて封筒をじっと見る。もうすぐ夏休みだ。私は学校へ行かないけど、お兄ちゃんは毎日部活だ。彼女たちは、どうなんだろう。顎から汗が滴る。持っている封筒も、手汗でじっとりと歪んでいく。
 私は改めて、ライターを手にとった。

 リビングに置かれたダイニングテーブルでもそもそとトーストをかじる。スクランブルエッグにハム、オレンジジュース、カットされたリンゴとサラダ。私にとっては普通の朝食だ。時刻は十時過ぎ。夏休みバンザイ、といったところだ。
「あんた宿題ちゃんとやってるの?」
「んー」
「少しはお兄ちゃんを見習いなさい。大会だって終わったのに、今日だって朝から部活行ってるんだから」
「ふうん」
 適当に返事をしながら、掃き出し窓の隣りにある棚へ視線をやる。表彰楯が一つ、増えている。
「あんたにも武道やらせればよかったかもね。それこそ弓道ならお兄ちゃんに……」
 長くなりそうなことを察して、私は別の考え事を始めた。
 弓道の大会は精神力やメンタルが大きく結果を左右する。前に、お兄ちゃんがそう言っていた。
 なら、もしかしたら。
 あの盾が金色なのは、私のおかげかも知れない。
「ちょっと、聞いてるの?」
「うん」
 そう考えれば、あの棚を見るのもちょっとだけ楽しく思えた。

『三題噺「自宅のリビング 食べる 盾」 三題噺(さんだいばなし)ガチャ(https://odaibako.net/gacha/293)より拝借』

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